金田一耕助ファイル20    病院坂の首縊りの家(上) [#地から2字上げ]横溝正史   目 次  序詞 |港区《みなとく》大変貌のこと     |砧《きぬた》の隠居独白のこと  第一部 |輪《りん》|廻《ね》の章   第一編 法眼鉄馬とその一族のこと        法眼・五十嵐三重の縁のこと   第二編 芝高輪本條写真館のこと        風鈴のある結婚風景のこと   第三編 法眼弥生は片眼が偽眼であること       |天《てん》|竺《じく》|浪《ろう》|人《にん》という名の詩人のこと   第四編 耕助首縊りの家を探検すること        |蛆《うじ》|虫《むし》を|噛《か》みしめる美少女のこと   第五編 ジャズ・コンボ「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」のこと        本條直吉ふたたび風鈴を撮影すること  暗中模索の章    序 詞 [#ここから4字下げ] |港区《みなとく》大変貌のこと  |砧《きぬた》の隠居独白のこと [#ここで字下げ終わり]  いま私の机上には東京都区分詳細図、全二十三区のうち港区の地図が二葉ならんでいる。古いほうは昭和二十八年に発行されたもの、新しいほうはおなじ地図出版社から発行された、昭和四十八年度版によるものである。  この二葉の地図を比較してみると、戦前から戦後、さらに戦後から現代へかけての東京都の|変《へん》|貌《ぼう》が、いかに激しいものであるかが一目|瞭然《りょうぜん》である。だいいち戦前には港区などという区はなかったように思う。私の記憶がもうひとつ定かでないのだけれど、そこに編入されている|赤《あか》|坂《さか》××町や|麻《あざ》|布《ぶ》××町、|芝《しば》××町などというのは、戦前それぞれ独立して、赤坂区、麻布区、芝区と呼ばれていたのではないか。  私は大正十五年、|即《すなわ》ちのちの昭和元年に上京してきて、それ以来、九年から十四年までの信州|上《かみ》|諏《す》|訪《わ》における闘病生活時代、二十年から二十三年へかけての岡山県への|疎《そ》|開《かい》時代をのぞいては、引きつづき東京都に住んでいるのだが、昔の赤坂、麻布、芝方面へかけての知識はまことに浅かった。それというのが上京以来私の勤めていた出版社は|小《こ》|石《いし》|川《かわ》にあり、その縁で私も小石川からのちに闘病生活に入るまで|吉祥寺《きちじょうじ》に住んでいたので、現在の港区方面は私にとっていたって無縁の土地であった。神戸生まれで神戸育ちの私にとって、東京という都市はあまりにも広過ぎたのだ。  だから戦前私の持っていたその方面に関する知識といえば、赤坂は軍人相手の|花柳《かりゅう》界のあるところ、麻布といえば練兵場、芝といえば|高《たか》|輪《なわ》の|泉《せん》|岳《がく》|寺《じ》くらいのものだが、私は七十三歳になるこの年まで、いまだに泉岳寺さえしらないくらいだから、広い東京でもこれほど私にとって縁のない土地も少ないだろう。  だが、私がなぜこのようなことをくだくだしく書いているかといえば、これからお話しようとしている、あの世にもおぞましき事件の舞台となった、いわゆる「|首《くび》|縊《くく》りの家」のある病院坂というのは、麻布と芝との|境目《さかいめ》にあたっているからである。その辺はやたらに坂の多いところで、いま眼のまえに並んでいる二枚の地図をみても、|魚《ぎょ》|籃《らん》坂とか|伊《い》|皿《さら》|子《ご》坂、|名《めい》|光《こう》坂とか|三《さん》|光《こう》坂、|蜀江《しょっこう》坂。義士外伝で有名な|南《なん》|部《ぶ》|坂《ざか》雪の別れの南部坂なども、ほど遠からぬところにあるらしい。ほかに|仙《せん》|台《だい》坂、|明《めい》|治《じ》坂、|新《しん》坂、|奴《やっこ》坂、|狸《たぬき》坂等々々、|枚《まい》|挙《きょ》にいとまあらずだが、なかには|暗《くら》|闇《やみ》坂などという物騒な名前の坂もある。  私がこれからお話しようとしている問題の坂は魚籃坂のちかくにあり、この坂にも江戸時代から呼びならわされた、|由《ゆい》|緒《しょ》正しき名前があるのだけれど、坂の途中に大きな病院があるところから、いつのほどよりか病院坂と呼ばれるようになっていたので、私もこのまがまがしい物語のなかではその名を|踏襲《とうしゅう》することにする。その病院こそはこの物語のなかで、大きなウエイトを占めているのだから。  いったい病院坂という名はあちこちにあるらしく、げんに私がいま住んでいる|成城《せいじょう》の町にもおなじ名の坂がある。しかも、成城の病院坂は坂の名の由来となった病院が、いまや跡形もなくなっているのに反して、これからお話しようとしている病院坂には、いまもなおその坂の名のいわれとなった、|法《ほう》|眼《げん》病院という大きな総合病院が繁栄しており、昭和四十八年度版の地図にはその名が記入されているくらいである。  それにしても、これは東京都の他の二十二区にもいえることだが、いま二枚の地図を比較してみるに、なんという大きな変貌がそこに看取できることだろう。だいいち町の名前からしてずいぶん変わってしまったものだ。  なるほどこうして町名を整理し、区画を整備していくと、郵便物の配達などには便利なのだろうが、いたって懐古趣味的な私には、古い由緒ある地名が、つぎからつぎへと消えていくのが惜しまれてならぬ。  それにまた道路の広くなったのはどうだろう。そういえば昭和二十八年の地図でみると、復興計画路線と称して、いたるところに三〇メートル、五〇メートルの予定路線が点線で示してあり、それは町であろうが、墓地であろうが、公園であろうが、遠慮容赦もなく引き裂き、引きちぎっている。なるほどこうしたほうが合理的であり、万一有事のさいの避難手段になるのかもしれないけれど、町というものが成立しているには、それ相当の|事《じ》|由《ゆう》がなければならぬ。それをこう情け容赦もなく分断するのはどうであろうかと、いつか心の寒くなる思いをしたことがあるが、いま四十八年の地図でみると、それらの予定路線は大半実現しているらしい。ここいらに日本人の旺盛なエネルギーを|窺《うかが》い知ることができるのかもしれないが、さて立ち|退《の》きを命じられたひとびとはその後どこへいったのか。またこの広い道路の沿道に住むひとたちの生活は、果たして快適といえるだろうか。  さらに二十八年の地図と現代のそれを比較してみて気がつくことは、路面電車が姿を消して、地下鉄が縦横に走っているらしいこと、それと新幹線と東京タワーとモノレールの出現である。新幹線はいまや日本の誇りになっているらしいし、東京タワーは東京名物である。地方に住んでいる私の孫は、上京してくるとわざわざモノレールに乗りにいくのである。すべては戦後三十年におけるわが国の驚異的発展の象徴かもしれないけれど、年老いて、万事につけて|退《たい》|嬰《えい》的になり、みずから|砧《きぬた》の隠居と称している私にとっては、あの|虚《むな》しい高度成長の落とし子としか思えない。  それにしても私がなぜ昭和二十八年の地図と、現代のそれを比較してお眼にかけたかというと、これからお話しようとしているこの恐ろしい物語は、じつに昭和二十八年の八月二十八日にはじまって、昭和四十八年の四月三十日に、やっと解決したという、金田一耕助の扱った事件としては、他に類を見ないほど長年月を要した事件なのである。その間じつに十九年と八か月、金田一耕助の手腕をもってしても、それだけ長い歳月を必要としたのは、それはそれなりの事情があったにせよ、これは世にも驚くべき事件であった。  こういう書きかたをすると、また金田一耕助に叱られるかもしれない。私はいつかかれからこういう注意をうけたことがある。ついでにいっておくが、いま私の住んでいる成城という町は、昔砧村とよばれていたそうな。そこでいたって懐古趣味的である私は、自分のことを砧の隠居とよんでいるのだが、そういう私をつかまえて、かれは成城の先生とよぶのである。 「先生は私の功名談をお書きになるとき、よく|発《ほっ》|端《たん》とか|大《だい》|団《だん》|円《えん》とかいうことばをお使いになる。発端ということばはまだよいとして、大団円というのはどうでしょうか。私はその文章を拝見するたびに、いつも抵抗を感じずにはいられないのです。大団円ということばは終局を意味しています。わたしの扱った事件[#「事件」に傍点]に関するかぎり、わたしの解決がまちがっていたとは思えない。しかし、それだからってすべてが終わったとも思えないのです。よく始めあれば終わりありといいますが、わたしはそのことばを信じない。事件[#「事件」に傍点]そのものは解決しても、その瞬間、そこからまた新しいドラマが出発するのではないかと思うと、わたしはいつも不安でもあり、|怖《こわ》くてたまらなくなることがあるんですよ」  金田一耕助は暗い眼をして、いつか私にこう訴えたことがある。  私は私でかれの功名談を記録にのこすとき、つぎのようなことばをよく使っている。 「かれの脳細胞のなかで事件が解決にちかづいたとき、金田一耕助は救いようのない孤独の影におおわれていく」と。  おそらくかれは事件そのものは解決しても、それですべてが終わったのではないということを知っているのだろう。いや、それのみならず、そこからまた新しいドラマ、かれが解決した事件よりもっと恐ろしい事件が、展開していくのではないかということを怖れているのだろう。  これからお話しようとしている「病院坂の首縊りの家」の事件などまさにそのいい例なのだ。昭和二十八年の夏にはじまったこの事件は、十九年八か月という長い歳月を経て昭和四十八年の四月三十日に解決をみたと思われているのだが、果たしてそれですべてが終わったのであろうか。二度あることは三度あるとよくいうが、そこからまた恐ろしい血みどろの事件が進展していくのではないかと思えば、私はいまこうして筆を|執《と》っていても、|背《せ》|筋《すじ》が寒くなるような|戦《せん》|慄《りつ》を禁じることができないのである。  |閑話休題《かんわきゅうだい》。  それではいよいよこのおぞましき事件にむかって筆を進めようと思うのだが、そのまえにどうしても紹介しておかなければならないのは、この事件の中心となった|法《ほう》|眼《げん》病院の創始者、法眼|鉄《てつ》|馬《ま》とその一族に関する記録である。  これはもちろん昭和二十八年の夏に起こった、あの世にも奇妙な事件の調査に着手するに当たって、金田一耕助が作成しておいた調査資料にもとづくものだが、金田一耕助のそれがそうとう|厖《ぼう》|大《だい》なものであったのを、私が適当に圧縮して、この物語に必要と思われる事実だけにダイジェストしたものである。    第一部 |輪《りん》|廻《ね》の章    第一編 [#ここから4字下げ] 法眼鉄馬とその一族のこと  法眼・五十嵐三重の縁のこと [#ここで字下げ終わり]      一  法眼鉄馬、|文久《ぶんきゅう》二年東北のさる大藩の典医、法眼|琢《たく》|磨《ま》の長子としてうまれ、幼名を|銀《ぎん》|之《の》|助《すけ》といったという。たったひとりの妹に|千《ち》|鶴《づ》というのがあり、明治三年うまれだというから、銀之助より八つ年下だったが、銀之助とは母を|異《こと》にしていたという。  さて銀之助だが、明治五年父琢磨にともなわれて上京、|本《ほん》|郷《ごう》の|進《しん》|文《ぶん》|学《がく》|舎《しゃ》にはいりドイツ語を学んだ。いまにして思えば当時は文明開化の声がさかんな時代であった。おそらく琢磨はおのれの|倅《せがれ》をもって、父祖伝来の家業を継がせようと思ったのだろうが、自分がうけた教育では、いまや新時代に通用しなくなっていることをしっていたのであろう。その点に関して鉄馬は終生父の恩を肝に銘じていたという。しかもかれもまたよく父の期待にこたえたのである。明治十年、十六歳にして東京大学医学校の本科生となったというのだから、いかに早熟な時代だったとはいえ、やはり|栴《せん》|檀《だん》は双葉より|芳《かんば》しかったというべきであろう。  さて、十六歳といえば昔の|元《げん》|服《ぷく》である。銀之助は医科大学の本科生となると、父に請うて鉄馬と改名することを許された。それからのちの法眼鉄馬は文字どおり、秀才という名を地でいったようなものである。十四年、二十歳で学校を出ると陸軍軍医となり、十七年、二十三歳にしてお定まりのドイツ留学、ライプチヒ、ドレスデン、ミュンヘン等に学び、二十年にベルリン大学へ入ったが、翌年帰朝、軍医学校教官に任ぜられ、かたわら陸軍大学の教官をかねた。ときに二十七歳、二十四年には医学博士の称号をえているが、その年に父琢磨をうしなっている。おそらくかれはわが子の俊才ぶりに満足して眼を|瞑《つむ》ったことだろう。かれは九段で医家として開業し、かなり流行する医者だったそうだが、倅鉄馬の謹直いっぽうの性格なのに反して、豪放|磊《らい》|落《らく》をとおりこして、|奔《ほん》|放《ぽう》|逸《いつ》|脱《だつ》の気味があり、つきあいなどにもそうとういかがわしい人物が多く、そのことが父を尊敬することあまりにも深かった鉄馬のうえに、黒い影を落としたのであろうといわれている。  さて鉄馬のほうだがその後も順調に出世街道を突っ走った。いってみればこのひとは明治医学界の先覚者でもあり、先駆者でもあった。|巷《こう》|間《かん》伝うるところによると、このひとは当然軍医総監になるものとばかり思い込まれていたそうだが、そこにどういう事情があったのか、明治四十年とつぜん職を辞し、それからまもなく現在の場所に法眼病院を設立した。ときに明治四十二年、法眼鉄馬四十八歳であったという。  軍医総監を目前にして、かれがなぜ陸軍から身を|退《ひ》かねばならなかったのか、その間の事情は|詳《つまび》らかでないが、巷間ひそかに伝うるところによると、日露戦争当時陸軍に納入された医療物資について、不正が発覚したのだろうといわれている。つまり、いまのことばでいえば汚職の中心人物と目され、周囲からよってたかって詰め腹を切らされたのだろうといわれているが、しかし、こと軍の威信にかかわることだから、結局事件はヤミからヤミへと葬られ、法的な刑事事件の犠牲者はひとりも出なかった。だから法眼鉄馬ひとりが貧乏クジをひいて、この疑獄は幕を閉じたのだといわれている。  しかし、この事件に関する限り、法眼鉄馬に責任なしとはいえなかった。  それよりさき、法眼鉄馬は二十一年に帰朝するとまもなく結婚している。妻の|朝《あさ》|子《こ》は鉄馬の父琢磨の盟友|五十嵐《いがらし》|剛《ごう》|蔵《ぞう》の娘で、この結婚はもちろん琢磨の強く希望するところであった。  さて、鉄馬の|舅《しゅうと》となった五十嵐剛蔵なる人物だが、琢磨と同郷の出身で年齢もおっつかっつ、明治の初年に琢磨と相前後して東京へ出てくると、どこからどういうつてを求めたのか、要路の大官にとりいり、当時押しも押されもせぬ政商にのしあがっていた。したがってずいぶんアクの強い人物だったらしく、鉄馬としてはそういう人物と|婿舅《むこしゅうと》の縁を結ぶことには、あまり気がすすまなかったらしいのだが、父に強要されるとあえて反対することはできなかったらしい。琢磨としてはどちらかといえば学究肌の|倅《せがれ》に、こういうアクの強い、生活力の旺盛な後ろ|楯《だて》をつけておきたかったというのも、無理からぬ親心だったかもしれないが、あとから思えばそのことが、法眼一家に暗い影をおとしはじめたのである。  さて、鉄馬の妻となった朝子だが、これは毒にも薬にもならない女性だったので、その点鉄馬も気が楽だったろうといわれている。ただ困ったことには、この夫婦には子供がなかったので、明治三十六年、即ち鉄馬が四十二歳に達したとき、養子縁組の話がもちあがった。候補者は|宮《みや》|坂《さか》|琢《たく》|也《や》といって、当時東京帝国大学医学部在学中の秀才だったが、琢也という名からしてもわかるとおり、かれはじつに鉄馬のかくし子であったという。  法眼鉄馬は明治十四年、二十歳にして学校を出ると十七年にドイツ留学を命じられるまで、陸軍の軍医をしていたが、その間にふかく|契《ちぎ》った女に宮坂すみなる女性がいた。その腹にうまれたのが琢也で、明治十五年うまれだったという。  しかし、この結婚は琢磨がぜったいに許さなかった。倅の将来に|賭《か》けていた琢磨を納得させるには、鉄馬はあまり若過ぎたし、すみの|氏素性《うじすじょう》も|賤《いや》しかった。彼女は旧幕時代の身分のひくい|御《ご》|家《け》|人《にん》の娘だったというし、家も貧しかった。当然ふたりは|生《な》ま木をさかれたが、鉄馬は琢也をじぶんの子として認知していたのみならず、ドイツ留学中も琢也の養育費を仕送っていたらしい。  そればかりではなく、帰朝後朝子と結婚してからもすみを|池《いけ》の|端《はた》のほとりにかこい、おりおりそこへ通っており、琢也の将来などもいっさい鉄馬の指導によるものであったという。それに対して、正妻の朝子がどういう感情をもっていたか定かではないが、すみは明治の女にまま見られるような、ひたすら男の愛情にすがって、生涯を日蔭の身で甘んじているようなタイプの女性だったらしい。  明治三十六年鉄馬が琢也を養子にといい出したのは、その前年|舅《しゅうと》の五十嵐剛蔵が|亡《な》くなっていたからである。この口やかましい舅亡きあとは、琢也を養子に迎えることに、どこからも苦情の出るべきはずはないと思いのほか、剛蔵の倅|猛《たけ》|蔵《ぞう》から厳重な抗議がもちだされた。  猛蔵は剛蔵の長子で朝子の弟である。明治元年のうまれというから鉄馬より六つ年少であった。  その猛蔵がなぜ法眼家の内情に強い発言権をもっていたかというと、かれはたんに朝子の弟であるのみならず、もっと複雑な縁で法眼鉄馬にからみついていた。  法眼鉄馬に千鶴という腹ちがいの妹があることはまえにもいっておいたが、千鶴は明治三年のうまれだから鉄馬とは八つちがい、猛蔵とは二つちがいであった。千鶴は明治二十年、十八歳にして|桜井健一《さくらいけんいち》なるものと結婚して、|弥生《や よ い》という娘をもうけた。当時桜井健一は陸軍少尉であったという。ところが不幸にも千鶴の夫桜井健一は明治二十八年日清戦争のさい、|澎《ほう》|湖《こ》島で|散《さん》|華《げ》した。ときにひとり娘の弥生は七歳であった。  当時の日本女性のかんがえかたとして、千鶴も夫のわすれがたみ弥生の成人を楽しみに、生涯未亡人で過ごすつもりであった。しかし、いっぽうまだ多分に封建色の濃厚な時代であり、家長の命令は絶対であった。  千鶴はひじょうな美人であったという。それに|懸《け》|想《そう》したのが五十嵐猛蔵であった。  猛蔵は学歴らしい学歴もなく、幼時から父の同業者に預けられ、商売往来のうら表、ヤミからヤミへとくぐっていく、四十八手の奥の奥を、骨の髄まで叩き込まれて育った男で、したがって父剛蔵よりはるかにアクの強い、エゲツない人物だったという。  当然かれは道楽者だった。十代の半ばより女性の味をおぼえたかれは、さんざん道楽をやってのけたのち、二十代の初期に妻を|娶《めと》ったが、三年にして子なきは去るを理由に叩き出し、その後は定まった妻もなく、したい放題のことをしていたのが、ふとした機会に千鶴を見染めたのである。  この恋には異常なほど|執《しつ》|拗《よう》なものがあり、かれは姉朝子を口説き、義兄鉄馬に哀訴歎願し、当時まだ生きていた実父剛蔵を動かし、ついに目的をとげたのが明治三十二年、ときに猛蔵は三十二歳、千鶴は二つ年下だから三十歳、連れ子として猛蔵のもとに引きとられた弥生は十一歳であったという。  夫の妹と妻の弟が結ばれるということは、世間に例のないことではないが、この結婚はおそらく千鶴にとっては心に染まぬものであったろう。しかし、さきにもいったとおり、当時にあっては家長の命令は絶対であり、ことにわずかの恩給では立てすごしかねていた千鶴は、兄鉄馬の|庇《ひ》|護《ご》をこうむることも多かったであろうから、その兄の説得を拒否することは不可能であった。  それにしても鉄馬はこの義弟猛蔵をどう思っていただろうか。鉄馬自身学者としてはそうとうアクの強い人間らしかったが、それでも新時代の高い教育をうけてきた人物である。猛蔵のような俗物中の俗物と肌が合ったとは思えない。それにもかかわらずこの縁談を妹千鶴に押しつけたのは、妻の朝子や義父剛蔵の圧迫もさることながら、自分のほうにもすみと琢也という引け目があったからであろう。こうして法眼家と五十嵐家は二重の縁に結ばれていき、鉄馬はしだいに五十嵐家の吐き出す黒い霧のなかに、埋没していったのであろうといわれている。  それにしても|健《けな》|気《げ》なのは千鶴であった。彼女は忍従ということばを地でいったような女性だったらしい。彼女はおのれの不平や不満をオクビにも出さず、この我執の強い俗物の夫によく仕え、|泰《やす》|蔵《ぞう》という一子をもうけた。結婚後もやまぬ夫の浮気沙汰にたいしても、嫉妬めいたことばはいちども吐いたことはないという。      二  さて、この場合連れ子の弥生はどういう態度をとっていたであろうか。彼女が母とともに猛蔵のところへ引きとられたのは十一歳の年であった。その年頃で母が再婚するといえば、|拗《す》ねたりふくれたり、反対の意思表示をするのがふつうだのに、弥生にはみじんもそのふうがなく、かえって母に猛蔵との再婚をすすめたという。  それには結婚まえからさかんに千鶴のもとへ出入りしていた猛蔵の、|将《しょう》を|射《い》んとすればまず馬を射よとばかりの、弥生への高価な手|土産《み や げ》戦術が功を奏したのだろうと、口の悪い連中はいうが、考えてみると弥生が実父桜井健一といっしょに暮らした日々は、ひじょうに短かったにちがいない。  日清戦争の|勃《ぼっ》|発《ぱつ》したのは彼女が六つの年である。父はもうそのまえから出征していた。それまでだって千鶴は軍人の妻として、弥生とともに留守宅を守ることが多かったにちがいない。しかも、その翌年父は異郷の地で散華しているのだから、弥生の父にかんする思い出というのはまことに少なかったにちがいない。おぼろげな彼女の記憶にある父は、ただ厳格できびしいひとだった。|膝《ひざ》のうえに抱かれた記憶もない。現代のことばでいえば、この父と娘のあいだにはスキンシップが欠けていたのである。  それに反して猛蔵は本郷の伯父さま……と、彼女がよんでいたのは法眼鉄馬のことである。そしてこの伯父こそ幼い弥生にとっては神聖にして|冒《おか》すべからざる偉大なる偶像であったらしい……などとくらべると容貌もみにくく、態度や口のききかたなどにも、鼻持ちならぬほど下品で|賤《いや》しいものがあったけれど、むやみに陽気で、|賑《にぎ》やかで、如才がなかった。かれはそういう境遇におかれたその年頃の少女の心の動きなど、手にとるようにわかるらしかった。  ある日、とつぜん彼女は猛蔵の膝のうえに抱きあげられた。母のいない席だった。弥生もはじめはおどろいて身をかたくしていたが、耳もとで猛蔵のならべる甘いささやきや、|野《や》|卑《ひ》なことばでつづる母への思慕の情をきいているうちに、彼女の硬さもおいおいほぐれ、 「おじさまはお母さまをだいじにしてくださる?」 と、ませた調子できいたりした。 「それはもちろん。ほんとをいうとお母さんの気持ちはきまっているんだ。お母さんはこのおじさんが好きなんだ。おれに|惚《ほ》れてるんだ。ただお母さんは弥生ちゃんに遠慮してるんだ。弥生ちゃんさえうんといってくれたら……」 「じゃ、考えとくわ」  弥生は猛蔵の腕からのがれると、うっふっふと笑ってそのまま障子の外へとび出した。弥生はそこにはじめて父の候補者である男とのあいだに、スキンシップを感じたのかもしれない。  それからのち弥生はちょくちょく猛蔵の膝に抱かれることがあった。どうかすると弥生のほうから甘ったれて、|趺坐《あ ぐ ら》をかいた猛蔵の膝に馬乗りになり、肌くつろげた男の胸毛をいじくったりしたこともあったらしい。ふしぎに母のいない席だった。そんなことのあったつぎの猛蔵の訪問のさい、彼女が目の玉のくり出るような高価な手土産をせしめたことはいうまでもあるまい。  母の千鶴は日に日に|狎《な》れ狎れしくなっていく、求婚者とおのれの娘のようすに、ふっと眉をひそめるようなことはあっても、いっぽうでは|安《あん》|堵《ど》の吐息をもらさずにはいられなかったであろう。  千鶴は猛蔵との再婚を避けがたい運命として観念していたようだ。彼女が猛蔵にたいしてどういう感情を|抱《いだ》いていたか定かではない。しかし、猛蔵の異常ともいうべき愛情は粘っこいトリモチみたいに彼女を|金《かな》|縛《しば》りにし、彼女にぜったいの影響力をもつ兄の鉄馬でさえ、そのトリモチのなかで|雁《がん》|字《じ》がらめにされているらしいとあっては、観念せざるをえなかったであろう。  ただこのさい心にかかるのは弥生の|思《おも》|惑《わく》であった。弥生は敏感で目から鼻へぬけるような少女であった。猛蔵が家へ出入りをはじめたとき、千鶴はなによりも娘の眼をおそれたが、その娘がおいおい猛蔵に|懐柔《かいじゅう》されていくのをみて、男の抜け目のなさに感服せずにはいられなかった。かくて明治三十二年の秋、千鶴は弥生を連れ子として猛蔵との再婚に踏み切った。まえにもいったようにそのとき弥生は十一歳だった。  五十嵐家に引きとられてからの弥生は、まるでひとが変わったようだと千鶴は眼をみはった。元来この子はもの静かな、思いやりのふかい娘だと思っていたのに、|茅《かや》|場《ば》町へひきとられてからの弥生はすっかりお|転《てん》|婆《ば》娘になってしまった。それには弥生をとりまく環境にも責任があると、千鶴はひそかに溜め息をつかずにはいられなかった。  小石川の裏通りの小ぢんまりとした家で、母ひとり娘ひとり、ひっそりと暮らしていた時代とちがって、茅場町の家はうんと広く客も多かった。おもに取り引き上の客らしかったが、用談がすむと芸者や芸人が招かれることも珍しくなかった。千鶴はそういう席へ出ることを好まなかったが、弥生はかならずよび出された。そういうときの弥生は|満艦飾《まんかんしょく》に着飾っていた。  弥生は母譲りで、いや、母まさりの美貌で、東京中の美貌をもって鳴る芸者や|雛《おし》|妓《やく》をあつめても、弥生の右に出るものはなかった。俗物の猛蔵にはこの美しい|継《まま》|子《こ》から、父として慕われるのがこのうえもなく得意らしかったという。  弥生は弥生でそういう席での自分の役廻りを心得ているとみえ、適当にこの義理の父にあまえ、適当に|拗《す》ねたりふくれたりしてみせた。彼女は高貴であると同時にコケティッシュでもあった。  いまや猛蔵にとって弥生は、眼のなかへ入れても痛くない存在であった。その翌年、すなわち明治三十三年の冬ひとり息子の泰蔵がうまれているが、猛蔵にとってはわが血をわけた倅よりも、弥生のほうに眼がなかったらしく、弥生もこの義理の父を慕ってやまなかったという。  明治三十五年の春、弥生は伯父の法眼鉄馬の計らいで華族女学校へすすんだが、学校の成績も抜群で、才色兼備の|才《さい》|媛《えん》としてもてはやされた。  法眼鉄馬が|庶《しょ》|子《し》の琢也を養子にという話がもちあがったとき、弥生は華族女学校の二年生で十五歳であった。このとき猛蔵からはげしく抗議が出たことはまえにもいったが、鉄馬の意志の固いことをしると、猛蔵のほうから妙な妥協案が出された。すなわち琢也と弥生を夫婦にして、夫婦養子とするならばこの養子縁組を認めようというのである。  これはまったく妙な妥協案であった。弥生がじつの娘ならばともかく、彼女はあくまでも桜井健一の娘であり、学校でも桜井弥生と名乗っていた。しかも彼女は法眼鉄馬の|姪《めい》であり、宮坂琢也とは戸籍上はともあれ、血からいえば|従《い》|兄《と》|妹《こ》同士である。それでは法眼家の後継者を鉄馬の血族でかためてしまうも同様ではないか。  姉の朝子などこの妥協案に難色を示すというより、|呆《あき》れかえってものもいえぬという態度だったという。猛蔵は弥生との親子の|絆《きずな》というか、弥生の自分にたいする愛情に、よっぽど強い自信をもっていたにちがいない。  もっともこの自信にはいくらか裏付けがあり、幼いころひとり娘として育った弥生は、泰蔵のうまれたときの喜びようったらなかったという。弥生と泰蔵とは十一ちがいである。おしゃまな彼女は|乳《う》|母《ば》や女中を押しのけて泰蔵の面倒をみた。嬉々としておしめをかえたりした。泰蔵がむずかって泣いたりすると抱きあげて家中をあやして歩いたりした。  当然泰蔵はだれよりもこの異父姉になじんだ。物心ついてからなにか気にいらぬことがあり、|癇癪《かんしゃく》を起こしているときでも、この姉が顔を出し、おしゃまな調子であやしたりたしなめたりすると、すぐご機嫌がなおってニコニコして甘ったれた。  それにしても、千鶴はこの子供にどういう愛情をもっていただろうか。彼女は乳母や女中に……、というよりは弥生にまかせっきりで、弥生があまりじょうずに泰蔵を操縦するのをみると、 「この|娘《こ》ったら、まあ」  と、苦笑するばかりであった。もっとも彼女はあまり体が丈夫ではなかったらしいが、ひょっとすると猛蔵の子をうんだことを、後悔しているのではないかとさえ思われたという。  では、猛蔵がわが子をどういうふうにみていただろうか。ひどく冷淡だったとしか思えないと、当時をしっているひとびとは、口をそろえて証言しているそうである。  これを要するに猛蔵というひとは、そうとう極端なフェミニストだったのではないかと、金田一耕助は註釈を加えている。  かれはものねだりする子供がやっと手に入れたおもちゃを、当座は熱愛するが、やがて飽きがくるとポイと投げ出し|顧《かえりみ》なくなるように、千鶴が泰蔵を産んだころから、さすが異常なかれの愛情もさめ、ちょくちょく浮気をはじめたらしい。  それにたいして、千鶴がいちども嫉妬めいたことばを吐いたことがないということはまえにも述べたが、では弥生はどうであったろうか。敏感な少女が養父の浮気に気がつかぬはずはない。それにたいして弥生が抗議したという記録はどこにもないが、自分を熱愛するあまり、養父が異父弟に冷淡だといって、しばしば意見をくわえていたという。  だから法眼鉄馬が琢也を養子にといい出したとき、交換条件として弥生とめあわせることを切り出したのは、息子の将来をこの勝気で聡明な少女に、託したのだとみればみられないことはない。  もっとも万事に抜け目のない猛蔵のことだから、この妥協案の成立するまえに、弥生の籍を自分のほうにとってしまうことは忘れなかった。それにはさいわい桜井健一には弟があり、桜井家はその男が相続することにして、弥生は桜井弥生から五十嵐弥生となり、戸籍上でも猛蔵の娘ということになった。  もういちど重ねていうが、こうまでして弥生を法眼家へ入れようとしたのは、法眼家の将来について発言権を保留しておこうという|肚《はら》だろうが、それには弥生との親子の|絆《きずな》によっぽど強い自信があったと見なければなるまい。  この場合鉄馬はこの縁組をどう思っていただろうか。優生学上従兄妹同士の結婚は好ましくないということくらい、当時の進歩的な医家としてしらぬはずはない。しかし、鉄馬と弥生の母の千鶴とは腹ちがいの兄いもうとである。何分の一か他人の血がまじっていることになる。事実かれはそういってこの縁組に賛成したという。しかし、内情をしるものはその時分すでに剛蔵から猛蔵へと親子二代にわたって、五十嵐家の黒い魔手がのっぴきならぬまでに、鉄馬の身辺にからみついていたのではないかと憶測していたそうである。      三  しかし、そういう政略的な意味だけで鉄馬の決断を|忖《そん》|度《たく》するのは酷だろう。鉄馬はこのうえもなく美しく、このうえもなく聡明なこの姪を、幼時から掌中の|珠《たま》とめでいつくしんだ。弥生は弥生でこの偉大なる伯父を全身全霊をもって敬愛した。この伯父に接するときの弥生と、義父猛蔵にたいするときの弥生とでは、まるで別人の観があったという。前者に接するときはあくまで高貴に、しとやかにふるまい、後者にたいするときは|蓮《はす》っ|葉《ぱ》でお|侠《きゃん》でときには娼婦的でさえあったという。  ではその際、琢也はどういう態度を持していたであろうか。当時かれは東京帝国大学医科大学の学生であった。と、いうことは医者のタマゴであったということである。かれとても従兄妹同士の結婚が優生学上好ましからぬことくらい知らぬはずはなかったであろう。それにもかかわらずこの結婚を承諾したとすると、かれはこの偉大なる父の命令にたいして、|唯《い》|々《い》|諾《だく》|々《だく》だったのではなかろうか。あるいは七つ年少だが将来はどのような美人になるだろうと取り沙汰されていた、弥生の|美《び》|貌《ぼう》と才気に心|惹《ひ》かれたのであろうか。それともどのような手段でもよい、日蔭の身から陽の当たる場所へ出たかったのではないか。  いま私の机のうえには法眼琢也の写真がおいてある。昭和六年の撮影とあるから五十歳のときの写真で、身分はもちろん法眼病院の院長である。  これでみると、額のひいでたところと明澄な|眼《まな》|差《ざ》しに叡知と教養のほどがしのばれるが、|顎《あご》の細いのが気にかかる。鼻下の|髭《ひげ》もいかにも遠慮がちにみえ、ハンサムはハンサムだが父鉄馬に比較すると、スケールがひとまわりもふたまわりも小さいようだ。父鉄馬のもっている|傲《ごう》|岸《がん》なアクの強さはそこになく、なんとなく気の弱さを思わせる。医家というよりはどこか芸術家をしのばせるような風貌である。  事実かれは学生時代から短歌をたしなみ、大正から昭和へかけて歌壇の一方の雄であった。多くのすぐれた歌集や随筆集があるが、そのなかに「風鈴集」というのがある。  それでみると、かれは法眼鉄馬の庶子であることを少しも隠していない。|池《いけ》の|端《はた》の|妾宅《しょうたく》で三日に一度ほどのわりあいで通ってくる、父を待つ少年の憧れと怖れ、それがしみじみとした、高い調べで歌いあげられている。あるとき父は南部の風鈴を買ってきて軒につるした。風に鳴る風鈴のささやかなひびき、そのささやかな|響《ひび》きによせて父を|恋《こ》う、少年の純情をうたった歌も何首かある。  それはともかくとして琢也と弥生を夫婦にするという猛蔵の提案は|容《い》れられた。しかし、そのとき琢也は二十二歳、弥生はまだ十五歳である。正式の結婚は弥生の学校卒業を待つとして、とりあえず仮祝言の儀がとりおこなわれたのが明治三十六年の秋のこと。  かくて法眼家と五十嵐家は二重三重の縁にむすばれ、鉄馬はますます猛蔵の悪どい魔手におちいっていったのだろうという。事実その時分猛蔵はほかにもいろいろ商売の手をひろげていたが、陸軍出入りの御用商人というのが、いちばん大きな商売だったらしい。  それが明治四十年の鉄馬の失脚につながり、四十二年の法眼病院の設立へと発展していったのである。出資者はもちろん猛蔵であった。  弥生が琢也と結婚して正式の妻となり、伯父の鉄馬を父とよぶようになったのは、鉄馬が失脚した年の秋だった。その翌年彼女は母の千鶴をうしない、さらにその翌年の明治四十二年、すなわち現在の場所に法眼病院が設立された年の春、ひとり娘の|万《ま》|里《り》|子《こ》をうんでいる。  万里子は両親ににぬ鬼っ子で、|鰓《えら》の張った顎といい、女にしては大柄というよりはいかつい体をしているところは、たぶん祖父の鉄馬の血を引いているのであろうといわれた。色の白いは七難かくすで、色白で醜婦というほどではなかったけれど美人とはいいにくかった。法眼家のひとり娘としてわがままいっぱいに育ったので、その気性ははげしいというよりはたけだけしく、鼻持ちならぬほど|驕慢《きょうまん》のふうがあったという。  昭和五年彼女は二十二歳で養子を迎えた。養子の|三《さぶ》|郎《ろう》は旧姓|古《ふる》|沢《さわ》、法眼病院の内科に勤務する医者で琢也の|愛《まな》|弟《で》|子《し》であった。温厚な人柄は養子むきといわれ、家庭ではすっかり万里子の尻にしかれていたという。  よく世間では養子三代というが法眼家がそれであった。三郎と万里子夫婦のあいだには|由《ゆ》|香《か》|利《り》という娘がひとりしかうまれなかった。由香利は昭和七年うまれだから、あのおぞましい事件が起こった昭和二十八年には、かぞえ年で二十二歳であった。  さていっぽう、五十嵐家のほうはどうであったろうか。猛蔵が妻の千鶴をうしなったとき、かれは四十一歳であったが、二度と|娶《めと》ろうとはせず、とっかえひっかえ女を外にかこっていたという。したがって家庭は荒廃し、空々漠々たるものであったろう。  猛蔵の一子泰蔵が母をうしなったとき、かれは八歳であったが、父からも母からも愛されなかったこの少年は、ひたすら|異父姉《あ  ね》の弥生を慕ったが、その弥生はいまやひとの妻であり、まもなく一子の母となった。当然泰蔵はいつも孤独であった。  大正五年泰蔵は十七歳で私立中学の四年であった。その年かれは|田《た》|辺《なべ》|光《みつ》|枝《え》なるふたつ年上の女中と駆け落ちした。猛蔵は怒ってかれを|廃嫡《はいちゃく》しようとしたが、弥生があいだにはいってやっとそれを|宥《なだ》めて納めた。  光枝はべつに腹黒い女でもなく、また財産目当てでもなかった。ただ孤独な若旦那に同情して、なにかと面倒をみているうちに恋が芽生え、のっぴきならぬ仲になったのである。  彼女はむしろ気のいい楽天家であった。 「まあ、まあ、泰ちゃんたら、あなたなんてことするの」  静岡在の光枝の実家にひそんでいる、泰蔵と光枝を呼びもどしたとき、弥生は苦笑しながらふたりの仲を許して、一家を持たせた。さすがに母千鶴の血をひいているだけあって、父ほど醜くはなかったが、青んぶくれしたような男で、口許にしまりがなく、いつもヨダレを垂らしているように見えたという。  泰蔵は当然学校を追われたので、弥生はかれを法眼病院の事務員として使った。そのころからかれは生活無能力者みたいなところがあり、一家を支えているのはむしろ光枝のほうであった。法眼家になにかことがあると、いちばんに駆け着けてくるのは光枝であり、彼女はかいがいしくよく働いた。  大正六年泰蔵と光枝のあいだに一子|透《とおる》がうまれたが、歴史はくりかえすというのか、早熟一家の業というのか、昭和八年透は十七歳で私立中学の四年であったが、かれもまた女をつくってその翌年|滋《しげる》という子供をうませた。  泰蔵はかぞえ年三十五歳にして祖父になったわけだが、かれはただオロオロするばかりで、わが身にひきくらべても、息子の不始末をどう処置してよいかわからなかった。その時分猛蔵はもう完全に泰蔵一家を見離していた。  仕方なしに妻の光枝が夫の|異父姉《あ  ね》の弥生に泣きついた。 「あら、まあ、あら、まあ。透ちゃんまで……」  と、弥生は驚いたり|呆《あき》れたりしながら、それでも乗り出してきて透と女の手を切らせた。この場合女は金が目当てだったらしく、多額の手切れ金を支払うことによって案外簡単に解決したが、困ったのは滋の身のふりかただった。しかし、それも泰蔵と光枝のあいだにうまれた子として入籍されることによって|糊《こ》|塗《と》された。そのとき泰蔵は三十五歳、妻の光枝は三十七歳だったので、子供がうまれたとしてもふしぎではない年頃だった。  その翌年猛蔵が死亡した。明治元年うまれのこのひとはそのとき六十八歳であったが、五十嵐産業といえばそうとう大きな財閥にのしあがっており、|傘《さん》|下《か》にいろいろ業種のちがった子会社を擁して、それぞれ繁栄していたという。弥生はそこの副社長であった。  死ぬまえに猛蔵は遺言状をつくっていた。それによると五十嵐産業の全事業と、五十嵐家の全財産は養女弥生に譲られることになっており、泰蔵はビタ一文の恩恵にもあずかれなかった。妻の光枝はいくらか不平らしかったが、泰蔵は平然として、 「いいよ、いいよ、姉さんにまかせときゃいいんだ。姉さん悪いようにゃしねえだろうよ」  事実弥生は茅場町の家を泰蔵に与えた。泰蔵は光枝との一件があって以来、その家の敷居をまたぐことさえ許されなかったのである。かつてその家の女中として働いていた光枝は、そこの女主人に納まることによって納得したらしい。それのみならず弥生は月々の手当として過分のものを当てがったので、かれはさっそくほかに|妾《めかけ》をかこって、そちらで暮らす日のほうが多かった。  昭和二十年三月九日の大空襲のとき、かれは赤坂の妾宅にいたが、|泥《でい》|酔《すい》していたかれはほとんど全裸のすがたで表へとび出し、 「もっと落とせ、もっと落とせ、いくらでもどんどん落としゃあがれ」  と、空にむかって|啖《たん》|呵《か》を切っているうちに、ほんとうに直撃弾にあたって死んだという。いかにも泰蔵の最期らしいとひとにいわれた。  おなじ夜の空襲で茅場町の家も全焼してしまったので、光枝は孫にして倅なる滋とともに、着のみ着のままで弥生のもとへ駆け込んだ。それよりさき滋の父透は、太平洋戦争が|勃《ぼっ》|発《ぱつ》してからまもなく応召していて、ガダルカナルで戦死したという報が入っていたので、いまや猛蔵の血をひいているものは滋ひとりになっていた。  いっぽう法眼病院の創始者、法眼鉄馬も大正十一年に死亡している。|享年《きょうねん》六十一歳。当時はまだ中位の病院だったのを、のちの大病院にまで育てあげたのは二代目の琢也院長だが、|巷《こう》|間《かん》伝うるところによると、琢也はたんなる学究肌で、法眼病院を東京でも一といって二と下らぬ大病院にまで仕上げたのは、主として弥生の手腕であったろうといわれている。  終戦時分彼女は五十嵐産業の会長であると同時に、財団法人法眼病院の理事長でもあった。  さて、いやに前置きが長くなったが、ここに法眼、五十嵐両家の系図をかかげておくことにする。これによって|錯《さく》|綜《そう》した読者諸賢の頭脳も、いくらか整理されるであろうと思うからである。  それではいよいよこのおぞましい事件のほうへ筆をすすめていこうと思うのだが、そのまえに昭和二十八年当時生存していた法眼、五十嵐両家のひとの年齢をここに挙げておくことにしよう。断わっておくが全部かぞえ年である。 [#ここから2字下げ] 法眼 弥生 六十五歳   由香利 二十二歳 五十嵐 滋 二十歳    光枝 五十六歳 [#ここで字下げ終わり]  法眼琢也や由香利の両親、三郎万里子の夫婦はどうなったのか、それは物語をすすめていく途中で、書き加えていくことになるだろう。    第二編 [#ここから4字下げ] 芝高輪本條写真館のこと  風鈴のある結婚風景のこと [#ここで字下げ終わり]      一  昭和二十八年九月七日の午後五時頃、金田一耕助はやたらにタバコを吹かしていた。かれのまえにある|餉台《ちゃぶだい》のうえの灰皿は、いまやタバコの吸殻で盛りあがっている。頭はあいかわらず|雀《すずめ》の巣のようにもじゃもじゃしているが、それでもさっき鏡にむかって|櫛《くし》の目をいれたばかりである。薄汚れた|白絣《しろがすり》によれよれの|袴《はかま》は例によって例のごとしである。  昭和二十八年のこの時代では、金田一耕助はまだ|大《おお》|森《もり》の山の手にある|割《かっ》|烹《ぽう》旅館、松月の離れ座敷で|居候《いそうろう》をしていた。ここのおかみは中学時代のかれの親友|風間俊六《かざましゅんろく》という男の、金田一耕助のことばを借りれば、二号さんだか三号さんだかということである。  金田一耕助の占領しているのは四畳半のつぎの間つきの六畳で、|粋《いき》で風雅でどことなく|婀《あ》|娜《だ》めいたあたりのたたずまいは、金田一耕助のような風来坊とは、およそ不釣り合いにみえそうなものだが、それが不思議に調和がとれているから妙である。思うにこの小柄で貧相で、いっこう|風《ふう》|采《さい》のあがらない金田一耕助という男は、どこへおいても違和感をかんじさせない、空気みたいな存在なのかもしれない。  その年はめずらしく台風の少なかった年だった。八月に入ってから台風が二度やってきたが、二度とも西日本へそれてしまって、東京地方はおしめりていどの降雨しかなかった。したがって残暑がきびしく、九月にはいってからも連日三十度を越える猛暑であった。  金田一耕助が手にしたタバコを灰皿のなかに|揉《も》み消して、また新しいのをつけようとしているところへ、母屋のほうから渡り廊下をわたって、ひとの近づいてくる足音がきこえてきた。足音はふたりのようである。  来たなと金田一耕助がいずまいをなおしているとき、|襖《ふすま》の外で女の声がした。 「金田一先生、お客様が……」 「ああ、そう」  金田一耕助は立って四畳半へいくと、半間の襖をひらいて、 「本條さんですね、|本條直吉《ほんじょうなおきち》さんですね」  と、ひざまずいた女中の背後に立っている男に眼をやった。三十前後の色白で、髪をキチンと左分けにした男で、鼻下にチョビ|髭《ひげ》をたくわえている。まっ白なワイシャツに黒い|蝶《ちょう》ネクタイをしめていて、ちょっと小肥りの男である。上衣は着ていなかった。なんとなく|気《き》|障《ざ》な服装だが、顔をみてもどこか|狡《こう》|猾《かつ》そうである。その眼は好奇心にもえて、金田一耕助の雀の巣のようなもじゃもじゃ頭にそそがれていた。 「警視庁の|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部さんというかたが……」  と、いいかけるのを、 「ああ、さっき電話を頂戴しました。さあさあ、どうぞ。あなた|高《たか》|輪《なわ》署で警部さんに会われたそうですね。警部さんからお電話があったので、さっきからお待ちしていましたよ。あ、お|清《きよ》さん、ちょっと」  と、立ち去りかけた女中を呼びとめて、 「この灰皿かえてきてくれませんか」 「あらま、いやな先生、こんなにお吸いになると体に毒でございますわよ」 「なあに、ちょっと考えごとをしていたもんだからさあ」  吸殻の盛りあがった灰皿を女中が持って退っていくと、餉台のむこうにキチンと膝をそろえて坐った男が、ちょっと上体をのりだすようにして、 「あなたが金田一先生……金田一耕助先生でいらっしゃいますか。等々力警部さんのおっしゃった……」 「まさにそのとおり。あっはっは、警部さんの紹介なので、もっとしかつめらしい人物を想像していらしたんですね。まさにぼくが金田一耕助です。どうぞよろしく」  金田一耕助がペコリと頭をさげたところへ、お清さんがお茶とお絞りと新しい灰皿を持ってきた。 「お清さん、ぼく金田一耕助にちがいないね。こちらさんだいぶん戸惑いをしていらっしゃるようだが……」 「ええ、ええ、あなた金田一耕助先生でございますよ。ほっほっほ、みなさんはじめは戸惑いなさいますわね。先生、あなたもっとお|洒《しゃ》|落《れ》をなさいましよ」 「なにをこのあま!」  金田一耕助がついお里を出すと、お清さんは首をすくめて、 「あら、ごめんなさい」  と、それぞれのまえに|茶《ちゃ》|托《たく》をおいて、 「ではごゆっくり」  と、すまして席を立ったまではよかったが、|襖《ふすま》の外へ出ると|弾《はじ》けるような笑い声。これでは金田一耕助の威厳さらになしである。 「エヘン」  と、金田一耕助は失われた威厳をとりもどそうとするかのように、気取って|咳《せき》|払《ばら》いをすると、 「ときにご用件は……? いや、どうも失礼。お楽にどうぞ。ぼくも膝をくずさせていただきますから」 「はあ、では……」  と本條直吉も|趺坐《あ ぐ ら》になって、ふくらんだワイシャツのポケットから、タバコとライターを取り出して火をつけながら、 「ときに、金田一先生、警部さんはぼくのことをどういってらっしゃいました」 「いや、べつに。本條直吉さんてかたがそちらへお伺いするだろうから、よろしく話を聞いてあげてほしいって……あなたなにか高輪署へとどけ出られたらしいですね」 「はあ」 「ちょうどそこへ、警視庁の等々力警部さんが来ていらしたんですね」 「はあ、警部さんにもいっしょに話を聞いていただきました」 「ところが警部さんのおっしゃるのに、本條君の話だけでは、まだ警察がのりだすべき段階ではないように思う。だからそちらへ差し向けるから、よく話をきいてあげてほしい……と、こうおっしゃるんですがね」 「それで、ぼくの|職業《しょうばい》のことやなんかは……?」 「いや、それはおっしゃいませんでした。こちらのほうからお伺いしたんですが、それはご当人からきいてほしいって」  本條直吉はちょっと悩ましそうな眼つきをして、 「それで、謝礼は……?」 「それは事件によりけりですね。それにわたしまだ、引き受けるとも引き受けないとも申し上げておりませんよ」 「ねえ、先生」  本條直吉はいくらか|狡《ずる》そうな微笑をうかべて、 「これ、ぼくにとっちゃわりに合わない話だと思うんですよ。だってぼく妙な事件にぶつかったんです。しかし、これが果たして警察に関係のある事件だかどうかまだわからない」 「つまり刑事事件になるかどうかまだわからないとおっしゃるんですな」 「そうです、そうです。ひょっとすると、これ、単なる|悪《いた》|戯《ずら》……不良の悪ふざけかもしれないんだ。しかし、もしこれが刑事事件に発展していくとすると……」 「つまりそこになんらかの犯罪が、伏在しているんじゃないかという疑いを、あなたは持っていらっしゃるんですね」 「まあ、そういうこってす。そんな場合、|巻《ま》き|添《ぞ》えをくうのはいやだし、またそんなことがあったのなら、なぜもっと早く届けて出なかったんだと、お目玉をくらうのはなおいやですからね」 「なるほど」  金田一耕助は白い歯を見せて、 「それできょう高輪署へ届け出たが、警察では取りあわないでわたしのところへいけという。それでこうしてやって来られたが、ここで謝礼をふんだくられちゃわりに合わないと、こうおっしゃるんですね」 「ええ、まあ、そういうこってすね」  それにしてもこの男なにを職業とする男なのだろうかと、金田一耕助はさっきからそれとなく観察している。油をこってりつけた左分けの頭に|蝶《ちょう》ネクタイ、それに鼻下のチョビ|髭《ひげ》といい、ふつう一般のサラリーマンとは思えない。どこかのバーかキャバレーの、バーテンというような職業ではないかと考えている。  ほんとをいうと金田一耕助は多忙なのである。今夜も六時にあるところである人物に会うことになっている。しかし、いっぽうさっきの等々力警部の電話も気にかかる。 「とにかくお話を伺うだけは伺いましょうか。謝礼のほうはご放念ください。こととしだいによっては、警部さんのほうへ請求してもいいですからね。あっはっは」 「そうそう、そのことですが、警部さんと先生はどういう関係になってるんですか」 「はあ、それはこういうこってすな。わたしみたいなショウバイしてると、いろんなひとが調査を依頼してくる。それらの依頼人はなんらかの意味で秘密をもっている。それをわたしだけがしっているわけです。ところがどうかするとそれが犯罪事件に発展していく場合がある。そんなときわたしだけが握っているデータなり、情報なりを提供すると、警部さんは捜査上ひじょうに有利な立場に立つわけですね。もちろんその際、わたしは依頼人の|諒解《りょうかい》を求め、依頼人の秘密や利益に、抵触しない範囲で行動することはいうまでもありません。さて、いっぽうわたしは警部さんにアメをしゃぶらせてあげるかわりに、警視庁の強力な捜査網を利用することができ、依頼人の希望も満たせるわけです。もちろんそこには虚々実々のかけひきが必要になってきます。あいても名うての|古狸《ふるだぬき》ですからね」 「ぼくは、しかし、なんの秘密もありませんよ。ただこれが事件……刑事事件に発展していったとき、なぜもっと早くいってこなかったかと、お目玉くらうのは|業《ごう》|腹《はら》ですからね」 「なるほど、つまり市民としての義務を果たしておきたいというわけですな」 「まあ、そういうこってす」  本條直吉がそれでもまだ疑いぶかそうな眼で、金田一耕助の|風《ふう》|采《さい》を観察しているのは、このもじゃもじゃ男、これでほんとにものの役に立つのだろうかと、内心大いに抵抗を感じているのだろう。それでもやっと決心がついたのか、 「ぼく、こういうショウバイをしているものですが……」  と、ズボンのポケットから引っ張り出した名刺入れから、一枚の名刺を取り出すと餉台越しに金田一耕助のほうへ差し出した。手に取ってみると、 [#ここから2字下げ] 本條写真館  本條直吉 [#ここで字下げ終わり]  と、あって高輪の住所が印刷してある。  金田一耕助は思わず|口《くち》|許《もと》をほころばせて、 「ああ、なるほど、わたしはまたなにをなさるかただろうと思ってましたよ。で、ご用件とは……?」 「はあ、じつはこれなんですがねえ」  と、引き寄せたのは、当時はまだ実用品として調法がられた風呂敷包みである。それを開いてなかから取り出し、金田一耕助のほうへ押しやったのは、どうやら結婚式の記念写真らしい。紅白の|紐《ひも》でかがってあって、本條写真館という金文字が浮き彫りになっている。  金田一耕助がひらいてみるとはたしてそれは結婚記念の写真であった。大きさは四つ切りくらいで、背後に二枚折りの大きな金|屏風《びょうぶ》が立っており、そのまえに花嫁と花婿がいる。花嫁は椅子に腰をおろしているが、お定まりの|角《つの》|隠《かく》しに|裾《すそ》模様である。  当時はまだカラー写真が普及していなかったから、その写真も白黒である。白黒だからよくわからないのだけれど、どうやら濃い|藍《あい》地の裾に|牡《ぼ》|丹《たん》と|唐《から》|獅《じ》|子《し》が大きく散らしてあり、金糸と銀糸で|刺繍《ししゅう》がしてある。そうとう豪華な衣裳らしいが、どうせ貸し衣裳だろうと金田一耕助は失礼なことを考えている。  さて、問題は花嫁の器量だが、頭の高島田はかつらとしても、まずは美人とよんでもどこからも文句の出そうにない容貌である。顔はむろん厚化粧だし、場合が場合だからほとんど表情の動きというものが認められない。ただふしぎなのはその眼つきである。カメラ・マンの指令によってレンズのほうに視線をやっているのだろうが、ほんとうはレンズを見ているのではない。レンズをとおしてはるか遠くのほうを|凝視《ぎょうし》しているようである。なにかしら|恍《こう》|惚《こつ》として夢見るような|眼《まな》|差《ざ》しである。年頃は二十か一、二というところだろう。両手はキチンと膝のうえにそろえており、夢見るような眼つき以外は、どこにも変わったところはなさそうである。まずはふつうの花嫁である。膝のうえに重ねた左手の薬指には、エンゲージ・リングならぬダイヤの指輪をはめている。大粒のダイヤの周囲を小粒のダイヤがハート型にとりかこんでいる。  それに反して花婿さんのほうはいくらか変わっていた。  花婿さんは花嫁さんのむかって左側に立っているのだが、年頃はよくわからない。身長は五尺八寸くらいで、恐ろしく肉の厚いからだをしている。これまた貸し衣裳ではないかと思われる黒紋付きの|羽織袴《はおりはかま》で、右手に|扇《せん》|子《す》を持っているが、肩幅が広く、しかも大きく盛りあがっているので、|裄《ゆき》があわなかったらしく、太いたくましい両腕がヌーッと袖口からはみ出しているのはみっともない。胴まわりも太く、したがって|身《み》|幅《はば》があわなかったらしく、胸もとがはだけてビッシリ密生しているらしい胸毛が少しのぞいている。そういえば袖口からはみだした太い両腕も毛深そうである。  さて、問題はその男の顔なのである。この男元来は無邪気で、あどけない童顔の持ちぬしではないかと思われるのだが、それが|異形《いぎょう》な悪党ヅラにみえるのは、いくらか縮れた髪を長く伸ばして、神武天皇みたいにうしろにかきあげ、|揉《も》みあげを長くしてそのさきは|顎《あご》ヒゲとなり、だらりと垂れた口ヒゲのさきも顎ヒゲのなかへ合流していて、顔中ヒゲだらけだからだろう。昭和五十年のこんにちではこんなヒゲ男もめずらしくないが、二十八年当時にあってはたしかに類のない異形であり、ちょっとした人間ライオンか熊男にみえた。しかも、この男は無精でそうしているのではなく、これがこの男のダンディーらしいのだが、それが黒紋付きの羽織袴とひどく不調和にみえた。このヒゲのためにひどく|老《ふ》けてみえるのだが、実際には二十六、七というところではないか。金田一耕助はもういちど花嫁のほうに眼を移した。かれにはこの花嫁の|茫《ぼう》|漠《ばく》たる眼つきが気になるらしい。それともうひとつ気になるのは、新郎新婦の中間にぶらさがっている奇妙な物体である。直径一尺もあろうかと思われる妙な|代《しろ》|物《もの》だ。なんであろうかと首をひねったが、どうしてもその正体を捕捉することが出来なかった。 「なんですか、ここにぶらさがっているものは……?」 「風鈴ですよ。ほら夏場軒端にぶらさげておく南部風鈴……」  そういわれれば風鈴である。|庵型《いおりがた》の鋳物のしたに松笠を横に切ったようなものがぶらさがっている。ふつうならばこの松笠の舌のさきにもうひとつ短冊型のものがぶらさがっていて、それが風に吹かれて舞うたびに、風鈴がなる仕掛けになっているのだが、その短冊は見当たらなかった。 「風鈴を結婚の記念写真にぶらさげておくんですか」 「そうだそうです。それが花婿さんのうちの家風だそうで」 「これ、おたくのスタジオで撮影されたものですか。それとも出張撮影……?」 「それなんです、金田一先生、聞いていただきたいお話というのは……」      二  ちかごろはカメラ時代といわれるだけあって、猫も|杓子《しゃくし》もカメラを持っている。自分は持っていなくても、友人が持っているかなんかで、たいていの写真はアマチュア技師の撮影でまにあう。だからお見合い写真で名をうっている某写真館とか、各百貨店の写真部以外、東京でも町の写真館というものは、むかしからみるとよほど少なくなっている。  芝高輪の泉岳寺のそばにある本條写真館などは、そのかず少ない写真館のひとつである。いや、私がここでかず少ない写真館といったのは、東京都全体をつうじてという意味であって、高輪付近には泉岳寺をあてこんだせいか、ほかにもう二軒写真館がある。  しかし、なんといってもいちばんの|老舗《し に せ》を誇るのがこの本條写真館で、創業明治二十五年というのだから、古いことにかけては申し分がない。昭和二十八年当時で六十余年の|暖《の》|簾《れん》を誇っており、当主|徳《とく》|兵《べ》|衛《え》ですでに三代目である。順調にいけば直吉は将来四代目を継ぐわけだ。  もちろんこのへんいったいも、昭和二十年三月九日の大空襲でいちめんの焼け野原と化し、本條写真館も|烏《う》|有《ゆう》に帰した。しかし、徳兵衛の見通しがよかったのか、重要機材、薬品類はいっさい|疎《そ》|開《かい》してあったのでわりに早く復興した。  まだまだ付近には焼け跡のまま放置されているところもあるが、本條写真館のあるあたりは、だいたい整備されていて、付近には雑然として店舗がならんでいる。写真館としての将来もちかごろどうやら明るくなってきていた。  それにもかかわらず徳兵衛の苦労のタネは、ひとり息子の直吉の性根がもうひとつ|据《す》わらないことである。直吉は昭和二十四年の春、シベリヤから復員してきたのだが、そのとき二十六歳だったから、ことしちょうど三十歳である。それにもかかわらずいまだに女房をもとうとせず、写真技師としてよい腕をもちながら、どうも家業に身が入らない。怪しげな復員者仲間とつきあって、外でなにかやっているようだが、いまに間違いを起こさなければよいが。戦争中女房をうしなった徳兵衛は、独力でここまで建てなおしてきたのだが、それだけに苦労もひとりで|背《し》|負《よ》って立たねばならない。  いや、かれにはひとり|弟《で》|子《し》がいることはいるのだけれど、まだ若過ぎて頼りにならぬ。弟子というのは|兵《ひょう》|頭《どう》|房《ふさ》|太《た》|郎《ろう》といって戦災孤児である。もとは芝浦の漁師の倅だったが、芝浦いったいが戦災をうけたとき、両親をうしない戦災孤児になってしまった。  昭和二十一年の冬、徳兵衛がまだ防空|壕《ごう》生活をしているころ、食をあさって盗みにはいったところを、ひっとらえてそのままうちへおいた。はじめのうちは放浪癖がぬけず、よくうちを飛び出したものだが、半年ほどたつうちに落ち着いて徳兵衛の写真館復興に力をかした。目から鼻へ抜けるような少年で、おいおい写真技術者としての仕事に興味を持ちはじめると覚えもはやく、直吉の消息がわからないころは、ゆくゆく養子にとさえ思ったほどである。当年とって二十三歳。  さて、それは昭和二十八年八月二十八日の夕方四時ごろのことである。「本條写真館」と金文字で刷った曇りガラスのドアを押して入ってきた若い女がある。  以前はこの店も間口六間、奥には豪勢なスタジオが用意してあったものだが、いまでは間口も半分になり、スタジオなども小規模なものになってしまった。それでもなおかつ、ゆくゆくはお見合い写真なら本條写真館でというふうになりたいし、結婚式場もつくりたいと、店舗のまわりにそうとうの敷地も用意してあるのだが、それもこれも直吉の性根がすわらないことにはと、それが徳兵衛の苦労のタネなのである。  徳兵衛がそういう野心をもつのもむりはない。本條写真館といえば東京でも有名な古い|暖《の》|簾《れん》だし、その古きを誇るかずかずの、徳兵衛が自慢してやまぬ代物が表のショウ・ウインドウのなかにある。店舗の間口に比較して、そのショウ・ウインドウはべらぼうに大きく、たっぷり二間はとってあるが、なるほど徳兵衛が自慢するだけあって、そのなかはちょっとした明治・大正・昭和三代にわたる風俗史料の展示会みたいであった。  そこには二百三高地に結って|矢《や》|飛白《が す り》銘仙、紫色らしい袴をはいた明治の女書生もいれば、大正末期にはやった耳隠しに|結《ゆ》ったお嬢さんもいる。断髪にした娘は昭和初期のカフェの女給さんだろうか。椅子に腰をおろして軍刀をついた八字髭の軍人もいれば、夜会巻きの明治の貴婦人もいる。さらに貴重なのは群衆写真で、日露戦争の戦勝祝賀の|提灯《ちょうちん》行列の写真もあれば、関東大震災のなまなましい現地報告みたいな写真もある。これらはすべて徳兵衛ら父祖三代の業績なのである。  うまれつき整理癖のつよい徳兵衛は、それらの業績をアルバムとして年代順に整理してあるのみならず、乾板までこれまた年代順に整理し、保存してある。そして、その季節季節に合わせた写真を、これ見よがしにショウ・ウインドウに飾るのが、徳兵衛のなによりのご自慢なのだが、こればかりは近くにある二軒の写真館の主人が、いかにくやしがってもかなわぬところであった。  若い女がドアを押して入ってきたとき、徳兵衛はカウンターの奥のデスクにむかって、|厖《ぼう》|大《だい》なかずの古いアルバムと格闘しているところであった。デスクのうえには強力な光りを放つ電気スタンドが点灯してある。 「いらっしゃいまし。写真の御用でございますか」  徳兵衛は眼鏡をはずし、電気スタンドの灯を消した。そのかわり天井の電灯にスイッチを入れると、ついでに扇風機を首振りにした。  女はにわかに店内が明るくなったばかりか、扇風機の風にあおられて、頭にかぶった|紗《しゃ》のネッカチーフが吹っとびそうになったので、 「あら!」  と、あわてて頭をおさえたが、その手には白いレースの夏手袋をはめている。年頃は二十一、二というところだろう。薄茶色のこっけいなほど大きなサン・グラスをかけている。この暑いのにクリーム色の合いオーヴァーを着て、広い|襟《えり》をふかぶかと立てていた。 「あっ、ごめんください。扇風機消しましょうか」 「いえ、あの、そのままで結構でございます」 「で、御用とおっしゃいますのは」 「はあ、あの、写真をとっていただきたいんですけれど……」 「こちらでお|撮《と》りになりますか、それとも出張のほうで」 「はあ、出張していただきたいんですけれど」 「ああ、そう、どちらまででございましょうか」 「はあ、それがここではいえませんの。ここからあまり遠いところではないんですけれど……」 「いえない?」  デスクをはなれてカウンターのほうへきていた徳兵衛は、|呆《あき》れたようにあいての顔を見なおした。商売柄徳兵衛はひとを見る眼もこえている。いったいこれはどういう女なのだろうと、それとなくあいてのようすを観察している。アプレではない。口のききかたも心得ているし、態度も神妙である。しかし、良家のお嬢さんでないことは、薄汚れて少しいかれているオーヴァーからでもうかがわれる。それにしてもなぜこう顔をかくすようにするのだろう。 「しかし、それでは困るじゃありませんか。出向いていく場所がわからないんじゃ……」 「はあ、ですからその時刻になるとだれかお迎えをよこします。あたしは来れないかもしれませんけれど……」 「ここからそう遠くじゃないとおっしゃるんですね」 「はあ、歩いて十五分か二十分……」  ちょうどそこへ奥から出てきた兵頭房太郎が徳兵衛のそばへきて、うさん臭そうに女のようすをジロジロ見ている。奥でふたりの押し問答をきいていたにちがいない。 「それで、それはいつのこと……?」 「今夜の九時……話があんまり急なので恐縮なんですけれど……こちらさんがご迷惑なら、ほかへお願いしてもよろしいんですけれど……」  それをいわれるとヨワいのである。 「それで写真に撮っておこうとなさる場面は……? それを伺っておかないと、こちらにも準備のつごうがございますから」 「はあ、それが結婚の記念写真なんですけれど……」  徳兵衛は房太郎と顔見合わせて、 「それはそれはお目出度うございます。あなたさまがご結婚なさるんで……?」 「まさか……あたしが結婚するんでしたら、自分でこんな厚かましいことお願いにあがれはしません。姉なんですの、ええ、あたしの|姉《ねえ》さんですの。姉はとってもはにかみ屋なもんですから、あたしがこうしてお願いにあがったんですの、ごくごく内輪にということになってるんですけれど、でも一生の記念ですから、写真だけは撮っておいたほうがよいということになって……」 「それはごもっともなことで……」 「旦那、なんならぼくが出張してもいいですよ。ぼくをやってくださいよ」 「そうさなあ、ほかの写真ならともかく、大事なご結婚の記念撮影だからなあ」  徳兵衛が思案顔に|顎《あご》をなでているところへ、アロハ姿の直吉がふらりと外からかえってきた。 「おお、直吉、ちょうどよいところへかえってきた。お嬢さん、うちの|倅《せがれ》ですがこいつなら腕はたしかで。直吉、じつはこういう話なんだが……」  徳兵衛の話をききながら、直吉はそれとなく女のようすを観察していたが、 「いいじゃありませんか。それじゃぼくが出張しますよ」  |無《む》|造《ぞう》|作《さ》に引き受けると、低い跳ねっ返りのドアを|排《お》してカウンターのなかへ入った。いろいろ見本をとり出してカウンターのうえに並べると、 「で、サイズはどれになさいます。結婚記念の写真といえばやはり四つ切りがいいですね。それで新郎新婦さまのお写真のほかに、ご親戚たち大勢さんとの記念撮影は……」 「いえ、それがごく内輪の式だもんですから……それにお友達が五、六人、お祝いにきてくださることになってるんですけれど、記念撮影はみなさんがお引き上げになってからにしたいと姉がいうもんですから……なにしろ姉というのがおかしいくらいはにかみ屋さんだもんですから……」 「いや、ごもっともさまで」  直吉はいたって事務的な調子で、サイズや焼き増しの枚数や、表装などをきめてしまうと、値段をソロバンで弾き出してみせた。 「ああ、そう、ではこれで……」 「おや、前金でいただけるんですか」 「はあ、いろいろご無理をお願いするんですから」 「ところでお写真が出来たら、どちらへお届けすればよろしいんで」 「それなんですけれど、写真いつごろ出来ます?」 「そうですね、きょうが八月二十八日ですから、こうっと、九月三日までには仕上げておきますが……」 「九月三日でございますね。では、その日の夕方……四時ごろにだれかを取りによこしますから、ぜひ間違いのないように」 「承知いたしました。ではこれを」  そばで徳兵衛がハラハラしているのも|委《い》|細《さい》|構《かま》わず、直吉は領収書をかいて渡すと、 「ではこれを持って取りにきてください。じゃ今夜九時でございますね。お待ちしておりますから」  女がそそくさと帰っていったあとで、 「あの女、とうとうだれの名前も出さなかったな」  徳兵衛は眉をひそめて|呟《つぶや》いたが、直吉はそんなこと|歯《し》|牙《が》にもかけぬという顔色で、ふてぶてしく|嘯《うそぶ》いていた。      三 「で、その晩、迎えのものが来たんですね」  相手がしばらく黙っていたので、金田一耕助があとを促すように訊ねた。 「ええ、来ましたよ、きっちり九時に。しかも、この花婿さんがね、あっはっは」  直吉の声はなんとなく毒々しくひびいた。 「花婿が自分で来たんですか」 「まさかわたしもそれが花婿さんだとは気がつきませんでした、この|面《つら》|構《がま》えですからね。夏のインバネスを着ていて、その下が黒紋付きの|羽織袴《はおりはかま》らしいってことはわかりましたが、まあ、身内のもんだろうくらいに思っていたんです。外は墨を流したような真っ暗な晩で、男は懐中電灯をもってましたよ」  金田一耕助は無言のままあいての話をきいている。 「その男|鞄《かばん》のほうを持ってくれて、わたしのさきに立って歩くんですが、なにやらブツブツ小声で|呟《つぶや》いたり、ときどきなにかを思い出したように高笑いをしたり、いささかご|酩《めい》|酊《てい》らしいんですが、べつに後ろ暗いことをやってるふうにもみえないので、わたしもおいおい安心してついていったんです」 「口はききませんでしたか」 「いや、わたしのほうから二、三度声をかけたんですが、そのつどうるさいとかなんとか|一《いっ》|喝《かつ》されましてね、なにしろこの体でしょう」  と、写真の花婿を指さして、直吉はせせら笑うような調子である。 「ぶん|殴《なぐ》られたらひとたまりもありませんや。そうかと思うとごめん、ごめん、こちらから無理を頼んでおきながら、うるさいはなかったな。まあ、しかし、てめえは黙ってショウバイしてれゃいいんだ。迷惑かけるような真似はしねえから安心してろなんて笑ってるんです。ところがねえ、金田一先生」 「はあ」 「わたしはじつは高輪うまれの高輪育ち、ガキのころからそのへんいったいを駆けずりまわって、高輪といやあ隅から隅まで知ってたもんです。ところが二十四年の春シベリヤから復員してみると、あのへんすっかり変わっちまっておりましょう」 「ああ、あなたシベリヤから復員してらっしたんですか」 「ええ、そうなんです、二十四年の春ですね。あれから四年、ちかごろじゃだいぶん復興してきましたが、二十四年の春はまだまだでしたよ。おやじは|甲斐性《かいしょう》もんですから、本建築でいまの写真館を再建してましたが、まあ、昔からいえば半分とはありませんね。しかし、本建築だからまだいいほうで、近所|合《がっ》|壁《ぺき》みんなバラック。まだ焼け跡があちこちに残っている。わたしは高輪いったいを歩きまわってみましたが、昔の面影さらになし、どこがどこだかサッパリわからねえ始末。ところが二十八日の晩がおんなじでしたね。なにしろ墨を流したようにあたりは真っ暗、それゃところどころに街灯はついてますが、それだって|覚《おぼ》|束《つか》ねえもんです。正直いってわたしゃ心細くなってきましたが、しかしあの娘さんに歩いて十五分か二十分っていわれていたんで、|痩《や》せ我慢張ってついてったんです。ところがむこうへ着いてから、なあんだ、ここかって気がつきましたね」 「ご存じの場所だったんですか」 「ええ、そこ、病院坂ってえんです」 「病院坂……?」 「いや、昔はもっとしかつめらしい名前がついていたんですが、明治の中期か末期かにそこに大きな病院が出来ましてね、いつか病院坂ってよばれるようになっちまったんです。法眼病院ってお聞きになったことございませんか」 「芝の法眼病院なら聞いたことがありますよ。有名な病院なんでしょう」  金田一耕助はポーカー・フェースである。多少ぐれているらしいが、たかがしれた写真屋ふぜいに、心中の動揺を見すかされるようではこのショウバイは勤まらない。 「ええ、それゃ大きな病院でしたよ、内科外科その他いっさい|揃《そろ》った総合病院で、設備もよく行き届いてましたよ。ところが、先生、二十四年の春復員してみると、見るも無残なありさまになってるじゃありませんか」 「と、おっしゃると?」 「聞くところによると戦争中、芝公園のなかに高射砲陣地があったんだそうです。敵さんそこを|覘《ねら》って爆弾を投下したところ、そいつが|外《はず》れてモロに法眼病院へ落下したんだそうで、わたしが復員してきた二十四年ごろは、まだ|惨《さん》|憺《たん》たるものでしたね。廃墟ということばがピッタリだったな。ところがその法眼病院のすぐそばに、おそらく病院と接続しているんでしょうが、院長の法眼さんのお宅があったんです。|蔦《つた》のからんだ風雅な洋館で、近所では蔦屋敷とよんでましたね。わたしの連れこまれたのは、その法眼さんのお屋敷なんです」 「じゃ、法眼さんのお屋敷というのは焼け残ったんですか」  もしそのとき直吉に|肚《はら》にいちもつあったとしても、金田一耕助の語調から、なんの|翳《かげ》りも感得することは出来なかったであろう。 「いや、蔦屋敷のほうは|木《こ》っ|端《ぱ》|微《み》|塵《じん》だったらしいんですが、それに付属している日本家屋のほうはほとんど|無《む》|疵《きず》で残ったらしいんですね」 「そこ、いまだれか住んでるんですか」 「いや、空家なんですがね。しかし、そんなことこっちは知りませんや。門灯もついてたし、玄関先にも家のなかにも、|煌《こう》|々《こう》と電気がついてるんですからね」 「でも、あなたこの家なら知ってるってことおっしゃいましたか」 「それはいいましたよ。これ法眼さんのお屋敷ですねっていったら、やっこさんニヤッと笑って、そうだよ、おじさん、おれ法眼の身寄りのものなんだ。だから今夜ひと晩貸してもらった。一生の記念のご祝言のためになって、こういうんです」 「で……? それからどうなさいました」 「ずいぶん広い玄関なんですが、ちゃんと打ち水がしてありましたしね。大きな|衝《つい》|立《たて》もでえんと控えていましたよ、|金《きん》|泥《でい》に|高《たか》|砂《さご》の|尉《じょう》と|姥《うば》でしたね。そっから広い廊下がつづいてるんですが、廊下なんかもよく|拭《ふ》きこんでありましたし、ところどころにある|行《あん》|灯《どん》型の電灯にもちゃんと電気がついてましたよ。それでいて、どこにもひとの気配がねえんですね。それをわたしが指摘すると、それゃそうだよ、弥生おばあちゃんたちはいま|田園調布《でんえんちょうふ》だもんというんです」 「弥生おばあちゃんたあだれのこと……?」  金田一耕助の声にはあくまでも翳りがない。 「いやわたしもそれを聞いてみました。するとこのヒゲ男のいうには、法眼のおじさんといってましたね、法眼のおじさんてだれのことだときくと、琢也おじさんのことだよというんです。そういわれて思い出したんですが、わたしが兵隊にとられていくまえの院長先生で、たしか法眼琢也ってえらい医学博士なんですが、そのひと病院が爆撃されたとき爆死したんだそうで、ほかにも大勢死人が出たそうです、医者や患者や看護婦にね。それで弥生おばあちゃんてえのは、琢也おじさんの連れ合いで、つまり後家さんだっていうんです」 「ちょっと待ってください」  と、金田一耕助はさえぎって 「法眼琢也先生ならお名前くらいはしってます。高名なかたですから。ところでその青年、琢也先生のことをおじさんと呼びながら、先生の未亡人のことをおばあちゃんと呼んだんですか」  直吉は虚をつかれたようにギョッとして、金田一耕助の顔を|視《み》|直《なお》したが、 「なるほど、そういわれてみるとおかしいですね。しかし、そのときは気がつきませんでした。法眼先生も生きていらっしゃったらそうとうのお|年《と》|齢《し》ですから、その未亡人なら当然おばあちゃん……」 「と、うっかり聞きのがされたんですね、まあ、いいです、いいです。それで、この青年、法眼家とどういう関係なんです?」 「いや、それをわたしも聞いたんです。いや、聞こうとしたんです。ところがちょうどそのとき廊下をまがって、このヒゲ男が突き当たりのドアを開いたんです。とたんにわたしなにもかもわかった、|一《いっ》|切《さい》の|謎《なぞ》が解けたと思ったんで、そっちのほうへ気をとられちまったんですね」 「と、おっしゃいますと?」 「そこ十畳じきくらいの洋間になってるんですが、そこがメッチャメッチャなんです。楽器がいっぱいおっぽり出してあるんです、ギター、トランぺット、ドラム。そう、そう、サキソフォーンもありましたね」 「じゃ、それ、ジャズの連中……?」 「そうです、そうです。いいえ、メンバーはだれもいませんでした。でも、ついいましがたまで練習してたって証拠歴然で、三つ四つ出てる灰皿はどれもこれも吸殻の山。シャンペンのほか洋酒のボトルが二、三本にワイン・グラスにウイスキー・グラス。灰皿のなかにゃまだブスブス煙っているのもありましたよ」 「なるほど、しかし、それをごらんになってなにもかもわかったとおっしゃるのは……」 「なあに、ジャズの連中やなんかにゃ、口ヒゲや顎ヒゲをはやしているのがあるじゃありませんか。それにちかごろそうとうの良家や大家の坊っちゃんで、そういうのに|凝《こ》ってるのがたくさんいるってこと聞いてましたからね」 「あ、なるほど。それで一切の謎が解けたと思われたんですね。それじゃこのヒゲ男も法眼家の一族というわけですか」 「どんな名家にだってひとりくらいクズがいるもんでしょう。|不肖《ふしょう》の子ってわけですかね」 「で、ジャズのほかの連中はどうしたんです。だれもいなかったとおっしゃったが……」 「わたしもそれを聞いてみましたよ。そしたらヒゲ男のいうのに、なあにいままで花嫁といっしょに騒いでいたんだが、いよいよ記念撮影からお床入りということになったんで、花嫁がむやみに恥ずかしがるもんだから、いちおうお引き取りねがったんだ。いずれお床入りもすんで晴れて夫婦になったところへ、また引き返してきて、今夜はひと晩騒ぐんだって……」 「なるほど、それで……?」 「はあ、これからがいよいよ正念場なんですが……やっこさん、楽器やなんかいっぱい散らかった部屋へわたしを待たせておいて、隣の部屋へはいっていったんですが、しばらくするとカム・インなんて呼ぶもんですから、恐るおそるドアをひらいてなかへ入ると、そこがこの写真の部屋なんですね。二十畳じきくらいもありましたろうか。いっぽうの壁際にはその金|屏風《びょうぶ》、花嫁さんがちゃあんとその椅子に腰をおろして、花婿さんがそばに立って、左手を花嫁さんの肩においてすましてましたよ」 「そこをあなたがパチリと撮られたわけですね」 「と、いうわけですが、それがちとおかしいんですよ」 「おかしいとおっしゃると……?」 「われわれカメラ・マンというやつは、お客さんにいろいろ注文をつけるでしょう。この場合だと花嫁さんの|裾《すそ》を直したり、着付けがおかしいと|襟《えり》元をかきあわせたり……ところがこのおヒゲの兄いちゃん、絶対にそんなことさせないんです。カメラの位置がきまると、その線から一歩もまえへ出ちゃいかんというんですね。わたしがうっかり、花嫁のほうへ近付こうとでもしようものなら、まるで怒れるライオンみたいに、タテガミ……じゃなかった、この縮れっ毛の長髪をふるわせて|憤《おこ》るんです。わたしが|辟《へき》|易《えき》してると、なんでも注文があったらおれにいえ、おれがちゃんとしてやるって、ニヤニヤ笑ってるんです。だけど、こっちはおかしくってたまらねえじゃありませんか」 「おかしいとおっしゃいますと……?」 「だってさ、この花嫁さんですよ」 「花嫁さんがどうかしたんですか」 「いえさ、この花嫁さんてえのがその日の夕方、うちの写真館へ使いにきた女の子じゃありませんか」      四  金田一耕助はハッとしたように写真の花嫁に眼を落とした。それからなにかいおうとしたが、すぐ思いなおしたように、 「すると、花嫁さん自身が自分の結婚記念の写真を頼みにきたというわけですか」 「そうですよ。姉がはにかむもんだからなんていってましたが、それが自分のこってすから、こっちはおかしくってしょうがねえじゃありませんか。それがいやに取りすましてさあ、おまえなんざツラを見るのもはじめてだって顔してんでしょう」  金田一耕助はまたしげしげと、写真の花嫁の顔に眼をやりながら、 「だけど、それ間違いないんでしょうな。頼みにきた女の子とこの花嫁さんがおなじ人間だということは……」 「わたしゃそれほどモーロクしてませんや。それゃ女は化けもんだっていいますし、化粧とは|化《ば》け|粧《よそお》うと書く。だから多少印象はちがってましたが、この女にちがいありませんや、うちの写真館へ使いにきたなあ。しかし、金田一先生」  と、さっきから|眼《ま》じろぎもしないで、金田一耕助の顔色をうかがっていた直吉は、急に疑いぶかい眼つきになって、 「先生はひょっとするとこの女をご存じなんじゃ……?」 「まさかね。しかし、あなたこの花嫁さんと口をききましたか」 「いや、口をきこうとしたんです。しかし、いわせねえんだな、このおヒゲの|兄《あ》ンちゃんが。それにこの眼つき……はじめは恥ずかしがって取りすましてると思ってたんだが、これ、少しおかしいでしょ。なんかこう遠くのほうを見てるような、まるで夢でも見てるような……」 「終始こういう眼つきだったんですか」 「ええ、はじめっからしまいまで。こっちは薄気味悪くなっちまいましたよ。金田一先生、先生はこれどうお思いになります」 「さあ、写真だけじゃよくわかりませんが、あなたのご意見はどうです。この花嫁さん、生きてたことは生きてたんでしょうね」 「気味の悪いことおっしゃる」  直吉は|執《しつ》|拗《よう》に金田一耕助の眼を追いながら、 「生きてたことは生きてたんです。呼吸はしてましたからね。だからわたしゃふっと思ったんです。この女ヤクでも|服《の》まされてるか、打たれてるんじゃねえかって」 「ヤクとおっしゃるのは麻薬のことですか」 「ええ、まあ、そうです」 「あなた麻薬のことについて、そうとう知識がおありのようですね」  直吉は急にふてぶてしく|小《こ》|肥《ぶと》りの肩をゆすって、 「いえね、金田一先生、あなたなりサツなりがわたしを眼の|敵《かたき》にして洗いあげれゃ、すぐわかるこってすから、ここで|泥《どろ》を吐いときますが、復員後しばらくわたしゃ堅気のショウバイがいやになりましてね、復員者仲間とグルになって、いろいろヤミもやりましたよ。しかし、麻薬だけは手を出さなかったんです。あいつはあとの|祟《たた》りがおっかねえし、そこまで深入りしたくなかったんです。だからいまあなたのおっしゃった、麻薬に関する知識なんてもなあおソマツなもんです。ただそのときひょいと頭にうかんだのは、ああいうジャズの連中やなんかにゃ、ヤクをやってるのがそうとういるってこってすからね」 「ああ、なるほど」  金田一耕助は|諒解《りょうかい》したのかしないのか、|皓《しろ》い歯を出してニッコリ笑うと、 「ときにこのおヒゲの兄いさんは、花嫁さんをなんと呼んでたんです。名前が出やあしませんでしたか」 「いや、それなんですが、わたしも気いつけてたんですが、とうとう名前は出ませんでしたね。おいとかおまえとかいう以外には」 「で、それから……?」 「撮影がおわると花婿さん、かるがると花嫁さんを抱きあげて、さあ、これで目出度く式もおわった。記念撮影もすんだから、これから奥へいってうんとこさ可愛がってあげると、ヒゲだらけの満面笑みくずれて、すこぶるご機嫌なんです」 「で、花嫁さんのほうは……?」 「それがおかしいんです。そろそろヤクが切れて、意識がいくらか戻ってきたらしいんですが、べつに逃げようともしねえんですね」 「それであなたはそのまま帰られたんですか」 「はあ、だってマゴマゴしてるとおヒゲの|兄《あ》ンちゃんが、なにをキョトキョトしてやあがんだ。変な好奇心を起こしやあがってこの座敷をのぞきこもうとでもしてみろ、袋叩きにされちまうぜ。そういいながら足でドアを開いたんですが、外は|隘《せま》い廊下になっており、廊下のむこうは日本座敷になってるらしいんです。その日本座敷の|襖《ふすま》が半分ひらいていて、電気スタンドに灯がついており、友禅かなんかの真っ紅な夜具が……おヒゲの兄ンちゃんは花嫁さんを抱いたまま、廊下へ出ると外から足で蹴ったのでしょう、バタンとドアがしまって、それからむこうの襖のしまる音がきこえました。それからあとは男が女をあやすような声と、鼻にかかった女の甘い声……わたしゃ薄気味悪いやら気色が悪いやら、ほうほうのていで、カメラ|担《かつ》いで逃げ出しましたよ」  直吉の眼はまた|執《しつ》|拗《よう》に金田一耕助の顔色を読もうとしている。金田一耕助もその視線を|弾《はじ》きかえしながら、 「つまりあなたがそのとき受けた印象はこうなんですね。その結婚は合法的じゃなかった。少なくとも女性の同意のうえの結婚じゃなく、麻薬かなんかで女性の意識を混濁させておいて、それを犯したか、|弄《もてあそ》んだ……と、こうなんじゃないですか」 「そんなふうにしか考えられないんですね。その場の|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が……しかし、それならなぜわたしを呼んでそんな写真を撮らせたんです。写真というものは後日の証拠として残るもんでしょう」 「ときに、あなたはのちにその家を探検にいかれたんでしょうねえ」 「いえ、そのまえにもう少し話があるんです、おヒゲの兄ンちゃん、どうやらビンちゃんてえ名前らしいんですね、それから花嫁がコイちゃん」 「あなたどうしてそれを……?」  眉をひそめる金田一耕助の顔を、直吉は探るような眼で|視《み》|詰《つ》めながら、 「いやね、その家をとび出すと、わたしはまっしぐらに坂を駆けおりようとしたんです。あとでわかったんだがその坂、裏坂ってえんだそうです。表の病院坂に対してですね。ところがその裏坂の途中まできたとき、下からガヤガヤワイワイ声高に|喧《わめ》きながら、坂を登ってくる五、六人連れがみえた。そこ、ちょうど道がT字型になっていて、左側には坂の下に学校の広いグラウンドがひろがっている。右側が細い路地になっていて、それが病院坂のほうへつながって、急な登り坂になってるんです。最近|崖《がけ》くずれなんかがあったとみえて、|路《みち》半分ほど|堆《うずたか》く土が盛りあがっている。わたしゃその路地のなかへとび込んで、土のむこうへ身を伏せたんですが、正直いって胸がドキドキしてましたよ。だって、そのT字型の角のところに街灯がついてるんで、ひょっとしたら、きゃつらに姿を見られたんじゃねえかと思ったもんですからね」 「なるほど、それで……?」 「ところがさいわい、きゃつらのだれもわたしの姿に気がつかなかったらしい。そのうち入り乱れた足音とともに、こういうことばが耳に入ってきたので、わたしはいよいよ身をちぢめましたよ」  直吉は金田一耕助の好奇心をたしかめるように瞳をさだめたが、相手が無言のままタバコをくゆらせているので、ニヤッと笑ってことばをついだ。 「写真屋のやつもう引き揚げたろうな。そういう声はそうとう酩酊してるようでした。あったりまえでしょ、あれからもう一時間もたってんだかんな。そうするとビンちゃんいまごろはコイちゃんを抱いて、お床入りの最中か、チキショウ。だけどおれわかんねえな。なにがよ。だってビンちゃんとコイちゃんきょうでえだろ、兄貴が妹とツルむなんて。バカだなあ、てめえは。どうせおれはバカだよ、コイちゃんを口説いてビンちゃんに、こっぴどく制裁うけたようなノロマだかんな、見ろよ、おれの左の眼。そうそう、あんときゃおれもおったまげたな、ビンちゃんにぶん|殴《なぐ》られてよウ、てめえの目玉がトロンと飛び出してきたときゃな。あんときのビンちゃんの剣幕ったらなかったかんな、コイに指一本ふれてみろ、みんなこのテキサスのテツのようにしてみせるって。ちげえねえ、日頃はいつもニコニコしててさ、ヒゲだらけの仏様みてえなビンちゃんだのに、あんときばかりゃ悪鬼だったな、|羅《ら》|刹《せつ》だったよ、あんなおっかねえビンちゃんみたことねえな。おっと、ちょい待ち。なんだ、なんだ。こんなかにコイちゃんに|惚《ほ》れてなかったやつは手をあげろ、うっふっふ、ひとりもいねえな、そうすると今夜のご婚礼、ひょっとするとひょっとすんじゃねえか。なにがよウ、なにがひょっとすっと、ひょっとすんだよう。だってさ、コイちゃんを自分の|情婦《お ん な》か、かみさんてえことにしておいたら、こちとらだれも手が出せねえだろ。あ、なあるほど、すると今夜のご婚礼は擬装結婚かあ。……まあ、だいたいそんな調子でしたね」 「すると、その連中、ジャズ・バンドのメンバーなんですね」 「そうです、そうです。口々に勝手なことをほざきながら街灯の下をとおっていったんですが、百鬼夜行とはあのこってすね。アロハのやつもいれば、真っ赤なシャツを着たやつもいる。なかにひとり片眼に眼帯をあて、外国映画に出てくる海賊みたいな恰好をしていたのが、テキサスのテツというやつでしょう。みんな二十から二十三、四という年恰好でしたが、どいつもこいつもヒゲ生やしてましたね」 「その連中が問題の家へ入っていったんですね」 「ええ、そう、連中が通りすぎたあと、こっそり路地からのぞいてみると、やっこさんたち問題の家のまえまでくると急に静かになり、ひとかたまりになってなにやら評議してましたが、そのうちに家のなかから高らかに聞こえてきたのがトランペットの音、やっこさんたちそれを聞くと、わっと|喊《かん》|声《せい》をあげて門のなかへなだれこみましたよ」 「あっはっは、トランペットはよかったですね。勝利の|勝《かち》|鬨《どき》というわけですか。ところであなたの受けた印象はどうでした。それたんなる擬装結婚だったんでしょうか。それとも新郎新婦のお床入りの儀式が、ほんとうに|執《と》り行なわれたのでは……?」 「わたしはたしかに夫婦の|契《ちぎ》りというやつが、あったとしか思えないんですがね。廊下ひとつ隔ててましたが、むこうの座敷からきこえてくる男と女の息遣い、女の|喘《あえ》ぎ、男の|咆《ほう》|哮《こう》、その昂まりから察するとね。もちろんわたしゃしまいまで聞いちゃいませんでしたが」  しかし、直吉が薄く|瞼《まぶた》をそめたところをみると、この男、終わりまで聞いていなかったにしろ、そうとう長くそこに|佇《たたず》んで、座敷のようすをうかがっていたにちがいない。 「それからあなたどうしました。まっすぐ家へかえりましたか」  金田一耕助はいたって事務的な調子である。 「そうはいきませんや、わたしゃ無性に腹が立っちまいましてね。いまいましくて仕方がねえもんだから、泉岳寺わきの|縄《なわ》|暖《の》|簾《れん》へ首をつっこみ、十二時過ぎまで飲んでましたよ。家へかえったらかれこれ一時、おやじや房太郎はまだ起きていて、なんのかんのと聞いてましたが、わたしゃもうズブズブでそのまま寝っちまったんですが、さてその翌日のこってす。二日酔いで眼がさめたのが昼過ぎでしたが、おやじや房太郎がいろいろ聞くもんですから、ま、ありのまま話してやったんでさ。そしたら、おやじめ、ひどくびっくらしましてね、それじゃそれ病院坂の首|縊《くく》りの家じゃないかというんです」 「病院坂の首縊りの家……?」  オウム返しにきく耕助の顔を、直吉はいくらか|凄《すご》みのある眼でジロリと見ながら、 「先生はなにかこのことばに心当たりが……?」 「いや、そういうわけじゃありませんが、だれかその家で首を縊ったひとでもあるんですか」 「おやじの話によるとわたしが復員するまえだから、昭和二十二、三年のことじゃないですか、その家で女がひとり首を吊ったんだというんです。その話、房太郎もおぼえてましてね、あれはたしか二十二年の梅雨時分だった、病院坂の空家で女がひとり首を縊ったてえんで、えれえ騒ぎだったそうです」 「その女というのはどういうんです。法眼家になにか関係のある女性なんですか」 「さあ、それがね、おやじはいくらかそのいきさつをしってるらしいんですが、いいたがらねえんですね。それよりそんな空家でそんなことがあったとあれば捨ててはおけねえ、すぐいってみろとせきたてるんで、房太郎といっしょにいってみたんですが、いってみて|呆《あっ》|気《け》にとられてしまいましたね」 「なにかありましたか」 「いや、なにもなかったから驚いたんです。|衝《つい》|立《たて》も屏風も椅子も風鈴も、なにもかもなくなっているんです。座敷ものぞいてみましたが、|新枕鴛鴦《にいまくらおし》の|衾《ふすま》さえきれいさっぱり。もののみごとにがらんとしてるんですね。おまけに昼の光りで見ると、やっぱりそうとう荒れてましたね」 「そうするとたった一夜のご祝言のために、それだけ大仕掛けな舞台装置をしたってわけですか」  金田一耕助もさすがに眼をみはった。 「そういうこってすね。そこで房太郎と手分けして、そこら中|訊《き》いてまわった結果、わかったことというのはこうです。そのまえの日、軽トラックが二台やってきて、なにやら包装したものを運びこんでたそうですが、それがあまり正々堂々としていたので、かえってだれも怪しまなかったんですね。運びこんでた人夫たちの風体を訊くと、あきらかにジャズ・バンドの連中なんです。それからそれとはべつに電柱へのぼって、電線をいじってるのを見たひともあるんですが、それだっておおっぴらにやってるんで、だれも怪しまなかったというんですね」 「そうするとバンドの連中のなかには電気の専門家もいるわけですか」 「ああいう連中のなかにゃ、いろんな職業のがいるんじゃありませんか。おむかいの小学校の宿直の先生が、ジャズの演奏を聞いてるんですが、その先生、古風なことをいってましたよ」 「古風なこととおっしゃると……?」 「いえね、はじめは|狸囃子《たぬきばやし》じゃないかと思ったんだそうで。ジャズの演奏は宵のうちから聞こえていたが、途中一時間ほど中休みして、それからまたおっぱじまって、十二時ちかくまでつづいてたそうです。世の中、あんまり大胆に正々堂々とやられると、かえってだれも怪しまないとみえますな」 「それが夜明けとともにさあっと引き払っていったというわけですか」 「そういうことでしょうねえ、そういえば小学校の生徒がそうとう大勢見てるんですが、朝八時ごろ電柱へよじのぼってた男があるそうです。だからトラックで荷物一式運び出したのは、真夜中ごろということになるんでしょうね」      五  これはたしかに異様な事態である。チンピラの悪ふざけと|見《み》|遁《の》がしてしまうには、いささか深刻すぎるようだ。かれらはなぜこういう式典を行なうのに、「首縊りの家」などという不吉な名前のついている場所をえらんだのであろうか。たまたまそこが空家になっており、隣近所もないところから、その場所がえらばれたのだろうか。それともそこでなければならぬという、必然的な理由でもあるのだろうか。それに兄妹|相《そう》|姦《かん》の問題がある。バンド仲間のひとりの説では、妹を他のグレン隊から守るための、擬装結婚ではないかといってるそうだが、本條直吉の説によると、たしかに初夜の式典が執行されたらしいという。そして、金田一耕助はいま後者の説のほうに心が傾いている。なぜならばいま眼のまえにいる男なら、式典の最後の瞬間まで、耳をすまして聞いていたのではないかと思われるからである。 「ところでこの写真、その後だれか取りにきたんですか」 「ええ、来ましたよ。約束の九月三日の夕方四時ごろ」 「どういう人物が……?」 「花婿のビンちゃんが」 「あなた|素《す》|直《なお》に渡されたんですか」 「ところがねえ、金田一先生、そこに重大な手違いが起こりましてねえ」 「重大な手違いとは……?」 「いや、約束は九月三日の午後四時ごろということになっていたでしょう。だからわたしゃそのとき店にいて、自分の手で渡すかわりに、いろいろ訊いてやろうと思っていたんです。それでも|腑《ふ》に落ちないときは、こっそりあとを|尾《つ》けてやってもいいくらいに思っていたんです。ところが三時半ごろになって、どうしても出掛けなければならぬ事態が持ちあがったんですね。で、店を出るときおやじと房太郎に、だれか来ても素直に渡すな、四時半ごろまでには帰って来るが、それまではなんとか口実をもうけて、引きとめておいてほしいといって出たんですが……」 「お父さん素直に渡されたんですか」 「なにしろ昔気質の、まがったことは大嫌いはいいとしても、いたって融通のきかねえほうだし、それにこういういかがわしい事件に、掛かりあいたくないという肚らしいんですね」 「それでお父さん、なにも訊かずに写真をお渡しになったんですね」 「相手がこのあいだ渡した領収書を出したので、そのまんま写真渡しちまったんですね。写真は注文どおり三枚ですが、おやじがいうのにあれは悪い男ではない、しじゅうニコニコしていて、口数は少ないが、なかなか愛嬌のある男じゃないか、なにか事情があることだろうから、このことは忘れっちまえといってるんですがね」  金田一耕助は無言のまま相手の顔を|視《み》|守《まも》っていたが、やがてちょっと|皓《しろ》い歯を出してみせると、 「しかし、あなたとしちゃこれをこのまんま|黙《だ》んまりでいて、なにか犯罪につながってきた場合、とばっちりを食うのはいやだから、きょう警察へ届け出たとおっしゃるんですね」 「ところがサツじゃてんで取り合ってくれねえんで」 「それで警部さんのお|奨《すす》めでここへいらしたというのは、なにか問題が起こった場合、そのことなら金田一耕助に打ち明けてある、だからあの男に|訊《き》いてほしいって、つまりわたしを証人になさるおつもりなんですね」 「ええ、まあ、はじめはそう思ってたんです。しかし、ここへくるみちみち考えたんですが、わたしゃこの事件の被害者でしょう」 「そうですね、そういっていえないことはありませんね」 「でしょう。だからわたしゃこの事件の真相をしる権利があると思うんです。結婚式を挙げるのになぜあんな薄っ気味の悪い家、『首縊りの家』なんて、いやな名前のついている家でやらねばならなかったのか、ましてやああいう大仕掛けな部屋の模様がえまでしてですね。それからあのヒゲ男のビンちゃんとは何者なのか、それからなぜわたしみたいな写真屋を呼んで、後日の証拠になるような写真を撮らせたのか、そこいらの真相をしりたいんです」 「なるほど、それはごもっともですね」 「しかし、わたしゃそういう調査ごとは不得手ですし、だいいち|閑《ひま》もない。そこでそれをあんたにお願いしたいんですが……」  金田一耕助は破顔一笑して、 「つまりわたくしを私立探偵として、雇ってくださるとおっしゃるんで」 「まあ、そういうこってすな。わたしはあんたをどういうひとかしらない。しかし、等々力警部さんのおっしゃるのに、ひとさまの家に居候をしてるからってバカにしちゃいけない。坐るとピタリというひとだからって」 「警部さん、だいぶんぼくを買いかぶっていらっしゃる」 「まあ、いいです。これひとつの賭けですからね。警部さんが買いかぶっているのかいないのか。で、わたしに雇われてくれますか」 「それはもうゼニになることでしたら……」  金田一耕助は雀の巣のようなもじゃもじゃ頭をひっかきまわしながら、大ニコニコである。 「そうするとわたしはあんたにとって、依頼人ということになりますな」 「そういうこってすな。適当に報酬がいただけるならばね」  金田一耕助はいかにも物欲しそうである。直吉はかるく舌打ちしながら、|脹《ふく》れあがった紙入れを取り出すと、なかから千円紙幣を三枚つまみ出したが、ちょっと考えなおしたのち、もう二枚追加して、 「じゃ、差し当たりこれだけ渡しときましょう。その代わり……」 「はあ、その代わり……?」 「あんたはわたしに調査の結果を、いちいち報告する義務がある」 「それはもちろん。あなたはわたしにとって大切なお客さんですからね。で、領収書を差し上げましょうか」 「それは貰っとこう」  金田一耕助は立ってかたわらの机のうえから万年筆と|便《びん》|箋《せん》を持ってくると、そのうえに、 [#ここから1字下げ] 一金 五阡円也 [#ここから3字下げ] 但し右は「病院坂首縊りの家」に於ける奇怪な結婚式一件に関する調査費の内金。 [#ここから1字下げ] 右正に受取り申候  昭和二十八年九月七日 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]金田一耕助  と、書いてその下に|捺《なつ》|印《いん》すると、 「さあ、どうぞ」  直吉はそれを読み下していくうちに、 「なんだ、これ、内金かあ」 「それはそうです。調査をするとなると足代もかかりますし、ひとに頼むばあいもある。警察のほうへ手をまわすにしても、手ぶらではいけませんからね、はい」  金田一耕助はすましかえってニコニコしている。直吉はいまいましそうに眉をひそめていたが、それでも領収書を四つに折って紙入れにしまうと、 「それじゃ頼んだぜ」 「承知しました。あ、ちょっと、調査の結果はこのお名刺の住所のところへ、差し上げればよろしいんでしょうね、電話なり、書面なり、口頭なりで」 「どうとでも好きなようにしてもらおう」  取り引きの話になってから、直吉のことばがすっかり横柄になったのは、おそらくこのもじゃもじゃ男の|賤《いや》しい|内冑《うちかぶと》を見すかしたと思ったからであろう。したがってそれからまもなく松月を出ていくときの直吉は、五千円略奪されたような気持ちだったにちがいない。      六  本條直吉を玄関まで送りに出た金田一耕助は、相手が松月の門を出て、だらだら坂を下っていくところまで見送って、急いで自分の離れへ引き返してきた。離れへかえると床脇にある電話の受話器を取りあげて、しばらくダイヤルを廻していたが、やがて電話が通じたらしく、 「こちら赤坂のナイト・クラブ、K・K・Kですが……」  深いひびきのある声が、さわやかに金田一耕助の鼓膜につたわってきた。金田一耕助にはすぐに相手がわかったらしいが、それでも念のために、 「ああ、こちら金田一耕助というもんですが……」  と、いわせもおえず、 「なあんだ、金田一先生ですか。ぼくですよ、|多門修《たもんしゅう》ですよ」 「ああ、シュウちゃんか、あんたまだそこにいたのかい」 「まだいたのかいはないでしょう。先生をお待ちしているんじゃありませんか。もうそろそろ六時ですぜ。先生はいまどこにいらっしゃるんです」 「すまん、すまん、ちょっと客があったもんだからまだ大森だ。いまからじゃもう間にあわないかい」 「いや、それは大丈夫です。例のがおっぱじまるのは九時ごろだそうですから」 「なにがおっぱじまるというんだ」 「アングリー・パイレーツでさ」 「なんだい、それ、アングリー・パイレーツというのは」 「怒れる海賊たちてえ意味だそうです」 「へえ? そんな映画の試写でもあるのかい」 「いや、映画じゃねえんです。ジャズ・コンボの名前なんです。アングリー・パイレーツ、|即《すなわ》ち、怒れる海賊たちてえ名前のジャズ・コンボがあるんです。まだアマにちょっと毛の生えたていどのコンボですがね」 「ジャズ・コンボ……?」  と、|訊《き》きかえしたとき、金田一耕助の声はちょっとうわずりそうになったが、すぐさりげない調子になって、 「しかし、そのジャズがおれとどういう関係があるんだ」 「だから、そのコンボのリーダーてえのが、このあいだ先生から調査を依頼された|天《てん》|竺《じく》|浪《ろう》|人《にん》らしいんです。そいつほんとは詩人でもなんでもなく、トランペット吹きなんですがね」 「それ、間違いはないだろうね、そいつが天竺浪人だってこと」 「ええ、もう絶対に間違いなし。松山書店の店員さんに、こっそり面通しというやつをしてもらったんですからね。いちど会ったら、忘れられねえっていう|獰《どう》|猛《もう》な面構えしてまさあ」 「ああ、そう、それなら大丈夫だね。ときに本名はなんてえの」 「|山《やま》|内《うち》|敏《とし》|男《お》……ふつうビンちゃんでとおってます」  金田一耕助はまた声がかすれそうになった。その男にコイちゃんという妹がありはしないかと、訊こうとしたが思いなおした。 「なるほど、すると天竺浪人こと山内敏男君ひきいるところのジャズ・コンボ、アングリー・パイレーツの演奏が、今夜九時からあるというんだね」 「ええ、そうです、そうです。だからそこへいけば先生がいま調査中の、天竺浪人てえ人物に会えるわけです」 「いや、まだ正面切って会うつもりはないんだがね。こっそり見ておきたいというていどなんだ」 「それはいいでしょ。お客さんみてえな顔をしてれゃいいんですから」 「場所はどこ……? いや、どの方角……?」 「|銀《ぎん》|座《ざ》|界《かい》|隈《わい》だと思ってください。だけど、先生ひとりじゃ駄目ですよ。そこ秘密クラブみたいになってるとこですから」 「だれも君を出し抜こうとはいっていないさ。シュウちゃん、君の時計いま何時?」 「ぼくの時計……? ぼくの時計はいま六時八分まえです」 「よし、おれのもおんなじだ。じゃシュウちゃん、こうしよう。おれちょっと寄り道するところがあるんだ。だけど八時までなら銀座へ出られると思う。八時ジャストに銀座のどこかで落ちあおうじゃないか」 「じゃ|和《わ》|光《こう》の角あたりどうです」 「OK、じゃ、八時ジャスト、和光のまえだね」  ここでいちおういまの電話の相手、多門修なる人物について紹介の労をとっておくのも無駄ではあるまい。  金田一耕助シリーズのうちこの男は「支那扇の女」と、「扉の影の女」のなかで重大な役割りを果たしているが、「扉の影の女」で私はこの男のことをつぎのように紹介している。  多門修——。  この男のことについては「支那扇の女」のなかでかんたんに紹介しておいたが、一種のアドベンチュラーなのである。まだ若いのに前科数犯という肩書きをもっている。先年殺人事件にまきこまれて、あやうく犯人に仕立てられるところを、金田一耕助に救われたことがある。  それ以来、金田一耕助にひどく傾倒していて、ちかごろでは|股《こ》|肱《こう》をもって任じている。元来が悪質な人間ではなく、さっきもいったとおり一種のアドベンチュラーで、スリルを好む性癖がわざわいして、つい法の規律から逸脱したらしい。金田一耕助に心酔しはじめてから、適当にスリルを味わえる仕事を提供されるところから、ちかごろでは法網にふれるようなことはやらなくなった。  ふだんは赤坂のナイト・クラブ、K・K・Kの用心棒みたいなことをやっているのだが、活動的な調査を必要とするとき、金田一耕助にとってはしごく便利な手先であった。……  電話を切ると金田一耕助は、|深《しん》|淵《えん》でものぞくような眼つきをして、しばらくシーンと考えこんでいたが、やがて立って整理ダンスの|抽《ひき》|斗《だし》から、大きな茶色の封筒を取り出してきた。表に墨くろぐろと金田一耕助の筆で書いてある。 「法眼一家に関する調査覚書」  封筒のなかにはおびただしい調査資料の|綴《と》じ込みがあるらしいが、そのなかから金田一耕助がまず取り出したのは一冊の小冊子である。B6判くらいの大きさで、ペラの表紙は薄タマゴ色をしており、周囲を赤い細い線でかこってある以外は、|一《いっ》|切《さい》無装飾である。題は活字体の文字で、 [#ここから2字下げ] 詩集 病院坂の首縊りの家 [#ここで字下げ終わり]  と、あり、著者の名は天竺浪人。  パラパラとページをくってみると、戦後はやった|仙《せん》|花《か》|紙《し》ほどではないにしても、粗悪な紙に十二ポイントくらいの活字のあらい組みかたで、詩らしきものが印刷してある。ページ数は六十四くらい。  奥付をみると昭和二十六年三月十五日発行とあり、著者の名はやはり天竺浪人。発行所は|神《かん》|田《だ》|神《じん》|保《ぼう》町一丁目七番地、松山書店とあるが、三百部限定版とあるところをみると、自費出版ではないかと思われる。  金田一耕助はそれを封筒のなかに戻すと、また新しくべつの本を取り出した。  法眼琢也の歌集「風鈴集」である。  このほうはもちろん戦前版で、出版社はいまでも繁栄している有名な書店である。布表紙箱入りの上製本だが、金田一耕助はこれをどこかの古本屋ででも見つけてきたらしく、箱も本の綴じもそうとう傷んでいる。  金田一耕助は箱から抜き出した本のページを、しばらくパラパラ繰っていたが、やがてもとどおり箱におさめて封筒のなかにしまうと、さいごに取り出したのは一葉の写真である。  それはあきらかにアマチュア・カメラマンが撮影したものを、ハガキ大に引き伸ばした写真で、被写体は二十前後の女性である。乗馬服を着て、婦人用の鳥打ち|帽《ぼう》|子《し》をかぶり、二つに折り曲げた革の|鞭《むち》を胸に抱いてニッコリ笑っている女性の上半身だが、金田一耕助はその写真と、いま本條直吉がおいていった、結婚記念の写真とふたつ並べて、そこに写っている女の顔を見くらべた。  本條直吉はいみじくもいったではないか。女は化け物である。そして化粧とは|化《ば》け|粧《よそお》うと書くと。  金田一耕助にはこのふたりの女性が同一人物としか思えない。眼もと口もと鼻のかたち、頬のふくらみ、この花嫁の顔から化け粧うた|紅《べに》|白《おし》|粉《ろい》をはぎおとすと、あとに残るのは革の鞭の女性の顔ではないか。  写真の裏をかえすと、 [#ここから2字下げ] 法眼由香利  二十一歳   昭和二十七年夏  於|軽《かる》|井《い》|沢《ざわ》 [#ここで字下げ終わり]  この紫インキの|流麗《りゅうれい》な文字は、金田一耕助の眼のまえで、由香利の祖母弥生が書いたものである。  金田一耕助はまた写真の表をかえすと、|喰《く》いいるようにふたりの顔を見くらべながら口のなかで|呟《つぶや》いた。 「由香利ちゃん、さっきの本條直吉君の話がほんととすると、君が一人二役を演じているのか。それともこの世の中に、君とそっくりおなじ顔をもったお嬢さんが、もうひとり存在するとでもいうのかい」  金田一耕助は二葉の写真を封筒のなかにしまうと、整理ダンスの抽斗に戻そうとして、ふっと不安を感じたように首をかしげた。  金田一耕助は自分のポーカー・フェースに自信をもっている。しかし、それでもなおかつこの花嫁の顔をみたとき、内心の驚きが表面に現われなかったかどうか心もとない。  自分はたしかに花嫁の顔を見たとき、ハッとし、ギョッともしたのだ。本條直吉のあの|貪《どん》|婪《らん》で|執《しつ》|拗《よう》な眼が、それを|看《かん》|破《ぱ》しえなかったと断言できる自信はない。  金田一耕助はあらためて六畳と四畳半の離れの内外を見まわした。ここはまったく無防備にできている。ガラス戸の外に雨戸がしまることになっているが、そんなものこじ開けようと思えば造作はない。しかも、ここは母屋からそうとう離れている。  わけを話してお|内《ない》|緒《しょ》の金庫にあずけようか。しかし、わけとはなんであろう。これはいわれのない自分だけの不安であり、疑いではないか。こんなことで女主人を騒がせるのは心ない|仕《し》|業《わざ》というべきである。  とつぜん金田一耕助の顔に|悪《いた》|戯《ずら》っぽい微笑が、さざなみのようにひろがった。嬉しそうにもじゃもじゃ頭をひっかきまわした。  そうだ、成城の先生に預けてやろう。「詩集 病院坂の首縊りの家」とその著者天竺浪人については、このあいだ成城の先生の意見を聞いたことがある。例によって世間のせまい先生は、なにもご存じなかったが。あの先生ときたら日頃は猫みたいに横着だが、好奇心だけは|旺《おう》|盛《せい》だから、きっと封筒の中身を調べるだろう。しかし、それだって構わない。あの先生、口は固いし、自分の許可がないかぎり、絶対に筆を|執《と》らないことは、いままでの例からみても保証つきである。それにこの一件、いまのところどういうふうに発展していくのか予測もつかないが、将来記録にとどめておかねばならないような事件となって、進展していくかもしれないのである。そんな場合この複雑な人間関係を、いちおう頭にたたきこんでおいてもらうのも、悪いことではないかもしれない。  しかし、時間は……?  腕時計を見ると六時五分。しかも、金田一耕助は途中病院坂へよってみるつもりなのである。  成城までの往復の時間を胸算用ではじいてみて、 〈まあ、いいさ。問題のジャズの演奏は、九時からはじまるといっていたではないか。それまでにまにあえばいいんだ。シュウちゃんはきっと待っていてくれるだろう〉  金田一耕助はありあう|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》にそのかさばったものを包みこむと、小脇にかかえて部屋を出ようとしたが、ふと気がついたのは|餉台《ちゃぶだい》のうえにある五枚の千円紙幣である。それをとって無造作に紙入れのなかへしまうと、 「すまないねえ、直吉つぁん。あんたこの金田一耕助を利用して、いったいなにをやらかそうとしているのかしらないが、この調査費はむしろこちらから差し上げるべきだったんだ。ぼくがいま調査中の事件について、あんた素晴しい情報を持ってきてくれたんだからね」  金田一耕助はそれからまもなく|蓬《ほう》|髪《はつ》のうえに、苦茶苦茶に形のくずれたお|釜《かま》|帽《ぼう》をのっけて、まだ暮れきらぬ都会の|黄《こう》|塵《じん》のなかへ|飄々《ひょうひょう》として出ていった。なんの木かしらないが、ひねこびれて|瘤《こぶ》|々《こぶ》だらけのステッキを右手に持って。  予感はあった、なにかしら不吉な。  しかし、これがあのようにおぞましい、血みどろな事件となって発展していこうとは、さすがに金田一耕助もまだ気がついていないのである。     第三編 [#ここから4字下げ] 法眼弥生は片眼が偽眼であること  |天《てん》|竺《じく》|浪《ろう》|人《にん》という名の詩人のこと [#ここで字下げ終わり]      一  室内はクーラーが適当にきいていて、ほどよく冷えているのだが、大きなフランス窓の外は真夏の炎天下である。  締め切ったフランス窓の外には、鉄平石で練り固めたベランダがあり、ベランダからすぐ|芝《しば》|生《ふ》へ降りられるようになっているが、広い、よく手入れのいきとどいた芝生のむこうに、猿も|滑《すべ》るといわれるなめらかな肌を見せた枝のさきっちょに、|百日紅《ひゃくじつこう》の花が真っかに|炎《も》えている。  炎天下の外はまったく無風にみえるのだが、それでもいくらか微風があるのか、ベランダの軒にぶら下がっている風鈴が、さっきからしきりにチロチロ鳴っている。締め切ったガラス戸越しに風鈴のさきにぶら下がった短冊が、しきりにヒラヒラ舞っているのが見える。直径一尺はある|庵型《いおりがた》の|鋳《い》|物《もの》でできた大きな南部風鈴である。  これが風雅な日本座敷の軒端にぶら下がっているのなら|頷《うなず》けるのだが、そこは二十畳じきばかりの豪勢な洋間なのである。マントル・ピースのうえの壁には、三枚の肖像画がかかっているが、右からかぞえて琢磨、鉄馬、琢也と法眼家三代の肖像であろうことを、金田一耕助はおとといからけさへかけての、|俄《にわ》か勉強から想像できるのである。琢磨だけが和服である。 「あれ、亡くなった主人の趣味ですの」 「えっ、なんのことですか」 「風鈴のこと……気になっていらっしゃるんでしょう、洋間に風鈴は不向きでございますわねえ」 「そうそう、そうおっしゃられていま思い出したんですが、お亡くなりになった琢也先生の歌集に『風鈴集』というのがおありでしたね」 「よくご存じでいらっしゃる。そのなかにこういうのがございます。風鈴は哀しからずや今宵また、父は来たらず母は語らず。……主人は鉄馬の妾腹の子で、妾宅で育ったものでございますから」 「そういえば鉄馬先生は、南部のほうのご出身でいらっしゃいましたね」 「ありがとうございます。よく調査してきてくださいましたのね」 「いやあ、調査ってほどのことじゃないんですが、おとといの昼過ぎ風間から電話がかかってきて、明後日にでもぜひお伺いして、お話というのを聴いてあげてほしいっていってきたものですから……風間、こんどこちらさんの病院、建てさせていただくことになってるんだそうですね」 「はあ、いつまでも仮り建築ではなんですから。それに五十嵐産業のビルも二、三、風間建設さんへお願いすることになってるんですの。それでここんところへきて、たびたび社長さんにお眼にかかっているうちに、先生のことをお伺いしてたものですから……」  法眼弥生はことしいくつになるのだろうか。金田一耕助のおとついからきょうへかけての|俄《にわ》か勉強の結果によると、六十四か五になる勘定だが、見たところ五十そこそこにしかみえない。  卵型の顔はおんもらとして、色はちょっぴり浅黒いほうだが、肌がきれいで、高貴なその面影は若いときの|美《び》|貌《ぼう》から、いくらか脂っ気をぬいただけという感じである。そこには|老醜《ろうしゅう》の影はひとかけらもない。髪を束ねてうしろで結んだそのヘア・スタイルにも、自然な落ち着きがみえ、その髪にほんのちょっぴり白いものがまじっているのも、接する相手にくつろぎをおぼえさせる。  黒っぽい地に小さな紫色の飛び模様のある、|小《お》|千《ぢ》|谷《や》|縮《ちぢ》みかなんかをゆったりと着こなして、細目の袋帯をしめ、|籐《とう》|椅《い》|子《す》にいくらかまえかがみに腰をおろし、両手をきちんと|膝《ひざ》のうえに組んでいるこの老婦人のなかから、いまもって五十嵐産業の会長と、都下随一の私立病院、法眼病院の理事長の役を、両|天《てん》|秤《びん》にかけて活躍している、|稀《き》|代《たい》の才女の面影をさぐり出すことは困難であろう。  いや、この|女《ひと》はいつもこうなのだと、金田一耕助は戦争前から戦争中のこのひとに関するうわさを思い出していた。このひとはいつももの静かで控えめなのだ。かりそめにも男を|凌《しの》ぐというふうを見せなかったひとだそうな。それでいてその機略、胆力、実行力は、どんな甲羅に|苔《こけ》のはえた大の男でも、舌をまいて三舎を避けるほどの|凄《すご》|味《み》を持っているという。  それは昭和二十八年八月二十一日のことであったから、本條直吉が奇妙な結婚式のことについて、金田一耕助のところへ話を持ち込んできた日より、約三週間以前のことである。金田一耕助はパトロンであるところの風間俊六の要請で、田園調布にある法眼家を訪れて、いまこうしてクーラーのほどよく効いた応接室で、この美しい女主人と相対しているのである。 「じつは……」  弥生がいくらか身を乗り出して、なにか話しかけようとしたとき、扉の外でけたたましい押し問答の声がきこえた。 「いけません、いけません、滋ったら。いまおばあちゃまのところへは、大事なお客さまがおみえになっていらっしゃるんですから」 「じゃ、おかあさんはそこでなにしてたんだい。立ち聴きでもしてたんかい」 「まあ、この子ったら、なんてこというの。いま冷たいお飲みものでも差し上げようと思って、ノックしかけてたところじゃないか。人聴きの悪いこというもんじゃないよ」 「じゃ、早くノックすればいいじゃないか。ぼくぜひともおばあちゃまに、談判しなきゃならないことがあんのさ」 「おまえにいわれなくたってするよ」  やがてノックの音がきこえ、弥生の声に応じて入ってきたのは光枝と滋である。  しかし、この時点では金田一耕助もまだこのふたりをしらなかった。それからまもなく起こったあの恐ろしい事件と真っ正面から取り組むには、金田一耕助はまだまだ多くのことをしらなければならないだろう。 「金田一先生、紹介しておきましょう。こちら五十嵐光枝さん、わたしの弟の家内ですの。いまこの家の家事取り締まりのようなことをやってもらっています。わたしお台所のことやなんか、ちっとも出来ないものですから」  弥生はちょっと小首をかしげて|微《ほほ》|笑《え》んだが、そのとき金田一耕助ははじめて気がついた。いや、さっきから気がついていてふしぎに思っていたのだけれど、このひとは左の眼が不自由なのではないか。正面からものを見るときこのひとの眼は、異常を感じさせないのだけれど、斜めにひとを見るときなど、左に小首をかしげるのは、右の眼しか用を足さないからではないか。  偽眼とすればよほど精巧に出来ているのにちがいない。右の眼とおなじように動きもするし、まばたきもする。ただ光沢がちがっているのだ。右の眼がしっとりとした|潤《うるお》いをおびているのに、左の眼はかわいていて固い。右の眼がいきいきとした表情にとんでいるのに、左の眼は死んでいる。 「どうぞ」  と、光枝が口のうちで|呟《つぶや》きながら小腰をかがめてテーブルのうえに、氷塊をうかしてストローを添えたレモン・ティーと、クッキーの皿と、桃のむいたのにフォークを添えたのを二人前ずつほどよく並べた。  五十嵐光枝はことしいくつになるのだろうか。たしか弥生より九つ年下だから、五十五、六というところだろうが、色白で、まるまる太ったその|顎《あご》など、三重にくびれているところがご|愛嬌《あいきょう》である。弥生にならって和服党らしいが、|単《ひと》|衣《え》帯をしめたその腹は、|孕《はら》み女のようにせり出していて、偉大である。 「それからこちらは光枝さんの孫の滋ちゃん、但し、戸籍上は光枝さんの子供ということになっておりますけれど……」  と、弥生はかるく笑って、 「したがって、血のうえからいえばわたしの孫の由香利とは、ふたいとこということになっております」  滋は当年とって二十歳になるはずだが、ひどくひとみしりをする性格とみえて、偉大なる祖母にして母なるひとのかげにかくれて、うさんくさそうにジロジロと金田一耕助のもじゃもじゃ頭を|視《み》|詰《つ》めている。  いまどきの若いものに似合わず、髪をキチンと左分けにし、テラテラとポマードで練りかため、糊のきいた|縞《しま》のワイシャツに、ネクタイまでしめているところまではよかったが、この祖母にしてこの孫ありというべきか、おデブちゃんもいいところで、この|年《と》|齢《し》で顎が二重にくびれている。それでいて祖母のかげからうわめづかいに、金田一耕助のようすを偵察しているところが、どこか|畸《き》|型《けい》的な感じを|抱《いだ》かせる。大きなべっ甲縁の眼鏡をかけているのが、満月のようなまん丸い顔にひとつのアクセントをつけている。 「滋ちゃん、どうしたのよう、あなた。|蔭《かげ》|猫《ねこ》みたいにコソコソして。さあ、こちらへ出てきてご挨拶なさい。こちら金田一耕助先生とおっしゃって、こんど病院のほうをお願いしている風間建設の社長さん、風間俊六さまのご親友で、やはり建築のほうをおやりになるかたですの」  弥生はあらかじめそういう|嘘《うそ》を用意していたらしいのだが、金田一耕助もそれに調子をあわせるようにピョコンと立って、 「ぼく、金田一耕助です」  と、ペコリと頭をさげるともじゃもじゃ頭をかきあげて、|皓《しろ》い歯をみせてニッコリ笑ってみせた。しかし、金田一耕助のこのご愛嬌は、かえって逆効果だったとみえ、滋はまるで猛獣にでも襲われたかよわいケダモノみたいに、一歩うしろへたじろぐと、|怯《おび》えたような眼で金田一耕助のすがたを見上げ見下ろししていたが、やがて視線を弥生にうつすと|堰《せき》を切ったように|喋舌《し ゃ べ》りはじめた。 「おばあちゃま、由香利ちゃんをどうしたんです。おばあちゃまが隠してしまったんでしょ。おばあちゃまにはそんなにぼくが気に入らないんですか。由香利ちゃんとぼくとはすっかり意気投合してるんですよ。いいえ、意気投合なんてもんじゃない。由香利ちゃんとぼくとは事実上の夫婦なんですよ。由香利ちゃんはなにもかもぼくに捧げてくれたんです」 「滋、滋、お客さまのまえでそんな露骨なことを……」 「いいよ、いいよ、おかあさん、あんた黙っててよ。ぼくこのおばあちゃまに談判すんだから。ねえ、おばあちゃま、ぼくたちハダカで抱き合ったんですよ、それこそ素っパダカでさあ。ほんとうなんです。この夏、軽井沢でさあ。それはぼく童貞じゃありませんでした。アメリカでもこちらでもさんざんほかの女の子とアソンだんだけど、それなら由香利ちゃんだっておんなじことです。あのひとだっていままでに、いろんな男の子とアソンでんだ。だけどぼくと抱き合ってみて由香利ちゃん、すっかりぼくが気に入っちまったんです。ぼくだっておんなじことがいえるんです。由香利ちゃんみたいな女の子、ぼく知らない! これは要するにふたりの趣味がぴったり一致したんです。だからもう二度とほかの子とアソンだりしないと誓い合って、なんどもなんども抱き合ったんです。ぼく、とっても感激!」 「奥さん、わたし中座しましょうか」 「いいえ、いいんですのよ。金田一先生」  弥生はかるく溜め息をつきながら、右の眼だけで微笑んで、 「どうせこれからお付き合いしていただくには、こういうことも知っておいていただいたほうがいいかもしれません。いまどきの若いひとがどういうものだかっていうことをね。しかし、滋さん」  と、弥生はデブのほうに小首をかしげて、 「あなた、このおばあちゃまが由香利をかくしたってこと、なにを根拠にそんな疑いを持つんです」  そういう態度や声音には、この家の家長の威厳をみせて、|凜《り》|々《り》しく、かつきびしいものがあった。      二 「だって、おばあちゃま電話で由香利ちゃんを呼び戻したでしょ。なんか急用があるからって」 「あたしが軽井沢へ電話したっていうの。それいつごろのこと」 「おばあちゃま、そんな憶えないというんですか」 「いいえ、憶えはありませんね。この夏はおばあちゃま忙しくって、いちども軽井沢のほうへいけなかったし、またいちども軽井沢へ電話したこともありません。だけどそれいつのことなの。あたしが電話で由香利を呼び戻したというのは……?」 「あれ、さきおとといのことだから、八月十八日のことでした。夕方ごろ由香利ちゃんのところへどっかから電話がかかってきたんです。そんとき由香利ちゃんとぼく、乗馬の|稽《けい》|古《こ》にいったかえりだったんです。そうそう、ぼくも由香利ちゃんにすすめられて、こないだから乗馬の稽古はじめてんです。ぼくスジがいいって、由香利ちゃんに|賞《ほ》められたんでもう夢中。馬ってはじめは怖かったけど、馴れると|凄《すご》く可愛いんです。ぼくの馬……」 「それであなたがたが乗馬からかえってくると……? あたしから電話がかかってきたというの」  この青年はしょっちゅうこういうふうに話が脱線するらしいのだが、弥生がうんざりしたような顔色も見せずに、たくみに手綱をひきしめるのは、よほど|辛《しん》|抱《ぼう》強い性格にちがいない。 「そうそう、ぼくたち自動車でかえってきたんです。そいで玄関のまえへクルマをとめると、家の中でジャンジャン電話のベルが鳴ってんでしょ。そいで由香利ちゃんが大急ぎで家の中へとびこんで電話へ出たんです。そしたら……」 「ちょっと待って」  と、弥生がおだやかに口を|挟《はさ》んで、 「そのときあなたも電話口のそばにいたんじゃないの」 「うん、ぼく少し遅れて電話口のそばへいったんだけど、由香利ちゃん電話口にかじりついて、なにか一心にむこうの話をきいてるでしょ。そいでぼくそばからだれって聞いたんです。そしたら……」 「おばあちゃまからっていったんですか」 「ううん、そんときはただ手をあげて、黙っててってふうをしてました。ぼく詰らないもんだからホールへ入って、由香利ちゃんから借りた乗馬雑誌をめくっていたんです。ぼくほんとうに馬が好きになったんです。それははじめは由香利ちゃんのご機嫌とりのつもりだったんですが、いまじゃそうじゃないんです。それに乗馬をやると体がしまると、由香利ちゃんがいうもんだから……」  この青年はこの青年なりに、自分のデブが気になっているらしい。 「それで由香利の電話はどうしたんです。由香利はその電話をあたしからだったとあなたを|騙《だま》して、そのまま別荘をとび出したんですか」 「いいえ、そうじゃないんです。おばあちゃまがなにもご存じないとすると……そういえばあの電話少しおかしかったな」 「おかしかったってどうおかしかったの。いいえ、滋ちゃん、なにもあわてることないのよ。ゆっくりそのときのことを思い出して、落ち着いて話してごらんなさい。由香利が電話で話してるあいだ、あなたはホールで乗馬雑誌を見てたのね。それから……」 「そうです。ぼく乗馬雑誌を見てたんです。由香利ちゃんの電話とっても長かったんです。それも由香利ちゃんのほうはただ、ええ、そうとか、あら、まあとか受け答えするばかりで、|喋舌《し ゃ べ》ってるのはおもに相手のほうだったらしいんです。そのうちにぼくふっと不安を感じたってえのは、ひょっとすると、ボーイ・フレンドからの電話じゃないかと思ったんです。そいで雑誌を投げ出して電話のほうへいってみると、ちょうど電話が切れるところで、由香利ちゃんこういってました。|塩《しお》|沢《ざわ》|湖《こ》ね、ええ、その場所ならあたし知ってるわ。いま五時半ね、じゃ、いくわ、いくったらいくわよ、あたしも法眼琢也の孫娘よ、逃げもかくれもしないから安心してらっしゃい。そういってガチャンと電話を切ると、そのまま自動車でとび出しちまったんです」 「ねえ、滋ちゃん、そのときあなた由香利にきかなかった。どっからの電話だってこと」 「いいえ、それは聞きましたよ。そしたら由香利ちゃん変なこといってました」 「変なことってどういうこと?」 「おばさんからの電話よ。あたしおばさんがあるんだって。こんなバカな話って聞いたことある? そういってバカみたいにケラケラ笑ってました」 「バカみたいにケラケラ笑ってたってどういうこと。そのときの由香利の顔色はどうだったの。なにかを怖れてるとか、なにかに|怯《おび》えているとか……」 「いいえ、とっても戦闘的でしたよ。だいいち由香利ちゃんがものに怯えたり、怖れたりするはずがないじゃありませんか。あのひとはいつもファイト満々、世の中万事自分の思うとおりに動くんだとばっかり思いこんでんだから」  そこにちょっぴりこの青年の不満があるらしい。 「滋ちゃん、それで由香利はクルマでとび出したきり、かえって来なかったんですね」 「ええ、そうなんです」 「それだのにあなた、なぜこのわたしが呼び戻したと思い込んでいたんです」 「ああ、それ、それですよ、おばあちゃま。それから一時間ほどして、由香利ちゃんから電話がかかってきたんです。さっきはお芝居をしてごめんなさいねと、電話のむこうで笑いながら、あの電話じつは田園調布のおばあちゃまからだったんです。おばあちゃま、なにか急用があるからすぐかえっていらっしゃいとおっしゃるの。あたしこれから東京へかえってみる。ひと晩かふた晩泊まりで帰ってくるから、滋坊はどこへもいかないで待っててね、と、そんなふうなことをいうと、こちらの返事もきかずにガチャンと電話切っちまったんです」 「それで、その電話どこからだったの。軽井沢から……?」 「ええ、軽井沢からだったようですよ。だって一時間やそこいらで東京までかえれっこないでしょ。いかに由香利ちゃんが無謀運転の常習者でも」 「ほっほっほ、それもそうねえ」  弥生はかるく笑いにまぎらせると、 「滋ちゃん、それはこういうことだと思うんですよ。そうそう、光枝さんはあのときそばで聞いてたわね」 「はあ、どういうことでございましょうか」 「由香利先月軽井沢へ立つとき、この夏はなにがなんでも|白《はく》|馬《ば》へ登るんだと意気込んでいたじゃない」 「はあ、そうおっしゃれば……」 「だからね、滋ちゃん、あの子あなたをまいてほかのお友達と、白馬のほうへいっちまったのよ。あなたそのからだじゃ山登りはちょっと無理ね。だから……」 「だけど、それなら由香利ちゃん、なぜぼくにそのことをいわないんです。なぜぼくを|騙《だま》かすようなことをして……」 「だって、正直にいったらあなたが承知しまいと思ったんでしょ。さあ、さあ、おばあちゃまは忙しいんですから、その問題はそれくらいにして、むこうへいってちょうだい。こちらのお客さまをいつまでもお待たせするわけにはいきませんからね」 「うんうん、わかったよ、わかりましたよ。だけどぼくもうアメリカへはかえりません。学校なんかどうだっていいんだ」 「そう、学校なんてどうでもいいわね」  弥生は考えぶかそうな調子で、 「あなたは五十嵐家のひと粒ダネですからね。だけど、このままこちらにいてあなたどうするつもり?」 「だから、由香利ちゃんと結婚するんじゃありませんか。由香利ちゃんもそういってくれたんです。滋坊ほどかわいいひといないって」 「でも、由香利はあなたよりふたつ年上ですよ。それでもいいの」 「そんなこと。アメリカじゃそんなこと全然問題になってませんよ。由香利ちゃんだってそれでいいといってるんです。いや、由香利ちゃんのほうから、そのほうがいいっていってくれたんです」 「そう、それなら問題はないわね。だけど滋ちゃん、そのことならあとでゆっくり相談することにして、ここはいちおう引き取ってちょうだい。光枝さん、あなた少し気をきかせてよ」 「はい、あの、すみません、奥さま。さあ、滋、おばあちゃまがああおっしゃるんですから、むこうへいきましょ。これ、なにを|愚《ぐ》|図《ず》愚図してるんです」  光枝の立場もまた微妙というべきである。自分の亭主の|異父姉《あ  ね》を奥さまとよび、自分の孫にして倅にむかっては、おなじひとをつかまえておばあちゃまと呼ばねばならぬ。ことばの使いわけだけでも大変な苦労だと思われるのだが、馴れてしまえばなんでもないことなのか、それともそういう苦労が苦労にならぬ性分なのか、光枝は顎が三重にくびれるほども偉大である。  それでもまだなにかと駄々をこねそうにしている滋を、なだめつすかしつやっと部屋の外へ連れ去ると、弥生はさすがにガックリ肩を落として、苦悩の影が急に顔面にひろがった。 「金田一先生、先生はさっきからわたしのこの左の眼が、気になっていらっしゃるようですわね」 「ああ、いや、失礼いたしました」  金田一耕助はもじゃもじゃ頭へやりかけた手を、あわてて控えるとその頭をペコリとさげて、 「その眼どうかなさいましたか、事故にでも……?」 「いいえ、眼ガン、つまり眼のガンでございますわね。放っておくと右の眼へ転移するかもしれないというものですから、去年思い切って手術したんですの。でも、この偽眼よくできておりますでしょう。アメリカ製ですの」 「はあ、わたしもはじめは気がつきませんでした」 「でも、いかによくできているとはいっても、偽眼はやっぱり偽眼ですわね。片眼しか用をなさないということは、とても神経がくたびれることでございますわね。ですからついさっきみたいにヒステリックになって、見苦しいところをお眼にかけて失礼申し上げました」  いいえ、あなたはちっとも、ヒステリックではございませんでしたよといいかけて、金田一耕助は口をつぐんだ。なまじお世辞が通用する相手ではない。 「金田一先生。先生にはだいたいわたしのご依頼申し上げたい用件というのが、おわかりになっていただけたことと思いますが……」 「はあ、それはどういうことでございましょうか」 「由香利のことでございますの」 「由香利さんとおっしゃるのは、あなたのお孫さんでいらっしゃいますね」 「はあ、あたしにとってはたったひとりの孫でございます」 「その由香利さんがどうかなさいましたか」 「|誘《ゆう》|拐《かい》されましたの」  金田一耕助はギョッとしたように相手の顔を見直して、 「誘拐されたとは、奥さん、どうしてご存じなんですか」 「だって犯人……誘拐犯人から電話をかけてきたんですもの、おとといの朝でした。軽井沢から誘拐されたのでございますわね。ですからその間の事情を知りたいと思って、滋……いまここにいたあの子を呼び戻して、よっぽど聞こうかと思ったんですけれど、そんなことすると、由香利が誘拐されたことがわかりますでしょう。大騒ぎになりますわね。どうしたらよいかといろいろ思案をしておりましたところ、おとつい、風間さんにお眼にかかったんですの。風間さんからまえに先生のこと伺っておりましたものですから」 「それじゃこのことは……お孫さんが誘拐されたということは、まだどなたもご存じないんですか」 「はあ、まだだれにも話してありません」 「ご両親は……?」  そのことは金田一耕助がさっきから気になっているところであった。滋はこの大|伯《お》|母《ば》にたいして由香利との結婚の許可をもとめている。しかし、そのことに関して、由香利の両親はどういう意見をもっているのだろうか。 「あら!」  と、弥生は金田一耕助の顔を見直すようにして、 「金田一先生はまだこの家のことは……?」 「はあ、まだなんにも存じ上げておりません。わたしの調査は琢也先生まででした。琢也先生が戦災で亡くなられたというそこまででした」 「なるほど、よくわかりました、金田一先生」  弥生はかるく頭をさげると、 「それではわたしの口から現在のこのうち、法眼の一家がどうなっているか申し上げておきましょう。わたしども夫婦のあいだには、万里子という娘がひとりしか|授《さず》かりませんでした。それで万里子が年頃になると養子をとったわけでございます。養子は古沢三郎と申しまして、亡くなった琢也のお弟子さんでございましたが、万里子と結婚すると同時に、籍をこちらへちょうだいいたしましたから、法眼三郎と名乗っていたわけでございます。その三郎万里子夫婦のあいだにうまれたひと粒ダネの娘が由香利で、当年とって二十二歳。お断わりしておきますが、これは数えどしでございます。わたしどうも満は苦手でございまして……昔ものでございますから」 「はあ、はあ、なるほど、それで……?」 「ところが三郎万里子夫婦というのが、ふたりとも故人になっておりまして……死亡したのは同時でした」 「戦災にでもあわれたのですか」 「いいえ、亡くなったのは昭和二十二年のことですから、戦後でございますわね。なまじ進駐軍にわたりがついておりまして、ガソリンなどがわりに自由に手に入っていたのがアダになりました」 「では、自動車事故でも」 「はあ、その夏わたしはほとんど軽井沢におりましたの。由香利や滋もいっしょでした、滋がアメリカへ留学するまえでしたから。そうそう、さっきここにいた光枝さんもいっしょでした。そこへ三郎さんと万里子が遊びにきたのでした、自分たちでクルマを運転して。ふた晩泊まって軽井沢を立ったのが、忘れもしない八月二十五日の午後四時ごろのことでした。その日は午後になって急に霧が出まして、わたしどもの別荘旧軽井沢にあるのでございますが、|咫《し》|尺《せき》を弁ぜずは|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》といたしましても、とにかくひどい霧でございました。これでは|碓氷峠《うすいとうげ》はさぞひどかろう。いちにち延ばしたらとしきりに引き止めたのは、あとから思えば虫が知らせたということなのでしょうか。あそこ……碓氷峠にはカーブが一八八ございますわね。その一六二番目のカーブ……よく事故があるところだそうですが、そこでハンドルを切りそこなったかして……ハンドルを握っていたのは万里子のほうだったんですが、崖の下へ|顛《てん》|落《らく》いたしまして、クルマが炎上したものですから、ふたりとも即死でございました」      三 「そうしますと、由香利さんというひとは、この法眼家にとってはたったひとりのひとというわけですね」 「はあ、琢也にとってはたったひとりの孫、法眼病院の創始者、法眼鉄馬にとってはたったひとりの|曾《ひ》|孫《まご》ということになっております。犯人……あるいは犯人たちの|狙《ねら》いもそこにあるんじゃないかと思うんですけれど」 「おとといの朝、電話をかけてきたとおっしゃいましたね。もちろん男の声だったんでしょうね」 「はあ、バスというんですか、バリトンというんですか、とても張りのある声で、まだ若いひとじゃないかと思いました」 「なんといったんですか。なにか|強請《ゆ す り》がましいことでも」 「いいえ、金銭的なことはなにも申しませんでした。しかし、もっと恐ろしいことを申しましたの」 「もっと恐ろしいこととおっしゃいますと」 「はあ、それはこうなんですの。そのときわたし自分の居間にいました。わたしひとりきりでした。そこへ電話のベルが鳴り出したんですの。わたしの居間に電話があるものですから。取りついだのは光枝さんでした。そしたらとても張りのある男の声で、法眼さんの奥さんですか、法眼弥生さんですねと、二、三度念をおしてから、由香利ちゃんをお預かりしております。手っ取りばやくいえば由香利ちゃんを誘拐しましたからそのおつもりでと、こういうんですの。それであなたはだれです。いったいなにが欲しいんですって聞いたんです。ほら、よく営利誘拐ってことがございますでしょう。てっきりそれだと思ったもんですから。そうしましたら……」 「そうしましたら……?」 「電話のむこうで世にも毒々しい笑い声が爆発しました。そしていままでとは打って変わっていけぞんざいな調子になって、ばあさん、おまえはばんじそれだ。世の中なんでも金でカタがつくって思ってやあがる。おれの欲しいのは金じゃねえや。おれの欲しいのは由香利のからだだ。一週間か二週間こちらへとめおいて、思うぞんぶんかわいがってからかえしてやらあ。命まで貰おうとはいやあしない……と」  さすがにその話をするときは弥生の眼は恐怖におびえ、偽眼でないほうの眼も、偽眼とおなじように光沢をうしなって固くとがった。 「わたし、やっきとなりそうなのをやっと抑えて、つとめて冷静になろうと心掛けました。ここでわたしが取り乱して、家のものに気づかれるのはいやでございますから。そこであなたはだれ、あなただれと二、三度聞いてみたところ……」 「答えましたか、相手が……?」 「はあ……|天《てん》|竺《じく》|浪《ろう》|人《にん》と……」 「天竺浪人……と、いったんですか」 「はあ……」 「そして、奥さんは天竺浪人というのをご存じなんですか」 「金田一先生」  弥生の顔は苦痛にゆがんで、 「そのことについてはあとでまた聞いていただくとして、電話のことをもう少しお話し申し上げたいんですけれど……」 「ああ、そう、そうでしたね。では、どうぞ」 「天竺浪人……と、聞いてわたしがちょっと|怯《ひる》んでいるのが相手にもわかったらしく、せせらわらうような声を立てていましたが、ばあさん、由香利の声が聞きたかあねえか、なんなら話をさせてやってもいいぜ、とこう申しますでしょう。もちろんわたしはぜひにと頼みました」 「で、由香利さんが電話口へ出られたんですね」 「はあ、でもそのあいだちょっと手間がかかりましたから、由香利はべつのところにいたのを、だれかに電話口へ連れて来られたらしいんですね。おばあちゃま、田園調布のおばあちゃま、こちら由香利よとそういう声は、ちっとも|怯《おび》えているふうではなく、かえってなにか面白がっているふうなんですね。それでわたしがいまどこにいるのと|訊《たず》ねますと、そんなこといえないわ、だってここがどこだかあたしにもわかんないんですもの。おばあちゃま、あたしどうやら誘拐されたらしいのよって、ケラケラ笑ってるじゃございませんか。ほんとに戦後の女の子というものは、まあ……」  戦後の女の子のすべてがそうだというのではないが、さっきの滋の話からでも察しられるように、由香利という娘はそうとう|不《ふ》|羈《き》|奔《ほん》|放《ぽう》、無軌道な性格らしい。 「由香利さん、ほかになにかいってやあしませんでしたか。とくに奥さんの印象に残るようなこと」 「それがねえ、金田一先生、わたしにもてんで見当がつかないんですが、由香利はよっぽど不思議なものを見るか、よっぽど不思議なことを経験するかしたらしいんですね。おばあちゃま、とっても不思議なことがあるのよ、おばあちゃまはいままでそのことをご存じなかったんですのね、と、そんなことをしんじつ不思議そうな調子でいってましたけれど……」 「それで奥さんにはその不思議なことというのが……?」 「それがいまも申し上げたとおり、わたしには全然見当がつかないんですの。でも、由香利のことばの調子ではよっぽどおかしなことがあったんでしょうねえ。あの子はおよそものに動じない性分なんですけれどね。それでいてわたしがどういうことなのかと訊ねても、それはいわないんです。いえ、いうことを禁じられているらしいんですね。でも、最後にこういっていました。おばあちゃま、なにも心配することはないのよ、あたししょっちゅう無断で家をあけるでしょう。今度はそれが少し長くなるだけだと思ってちょうだい。いまにきっと無事な顔を、おばあちゃまにお眼にかけられると思うわ。滋坊や五十嵐のおばあちゃまには、なんとかよろしく取りつくろっておいてちょうだい。では、バイバイ……そこでさっきの男が電話を引き取ったらしく、ばあさん、これでようすがわかったろう。由香利はちっとも怖れちゃいねえや。一週間か二週間、丁重におもてなしして帰してやらあ。わっはっはと太い声で笑いとばすと、ガチャンと受話器をかける音がいたいほど耳にひびいて……」  さすがに弥生の語尾はふるえているが、しかし、この気丈な老婦人は決して涙を見せるようなことはなかった。 「ところで、奥さん、その場所ですがねえ、どういう場所だか見当がつきませんか。なにか特殊な雑音が入るかなんかして……」 「いいえ、金田一先生、わたしはそこまでは冷静になれませんでした。虚をつかれたというんでしょうか。由香利のことで胸が一杯で、そんな余裕はございませんでした。でも、電話が切れたあとでいろいろ考えてみたんですが、いま先生のおっしゃったような、とくべつ変わった音響もまじらなかったように思います。電話の声以外はシーンとしずまりかえって、雑音らしい雑音はなにひとつ聞こえなかったようでした。もちろん電話が切れたあとで、わたしすぐに電話局へ電話をかけて、いまの電話どこからかかってきたのか調べてほしいと頼んだのですけれど、それは駄目でした」 「なるほど、それでは奥さん、打ち明けてくださるでしょうね、天竺浪人という人物について……」  弥生は無言のままテーブルの下の物置き棚から、紫|縮《ちり》|緬《めん》の風呂敷包みを取り出した。弥生が風呂敷包みを解くとなかから出て来たのは、|封《ふう》|蝋《ろう》で厳重に封をした大きなハトロン紙の封筒である。弥生はおなじ風呂敷包みのなかにあった|鋏《はさみ》で封を切ると、取り出したのはB6判くらいの小冊子。 「どうぞこれをごらんください」  金田一耕助が手にとってみると、 「詩集 病院坂の首縊りの家」  と、あって、著者の名が天竺浪人。 「これ、拝見してもよろしいんでしょうか」 「はあ、どうぞ」  金田一耕助がなにげなく薄いペラの表紙を開くと、なかからヒラヒラ舞い落ちたのは小さな紙片である。耕助があわてて膝のうえから拾いあげると、それは新聞の切り抜きであった。 「ああ、そうそう、申し忘れていましたが、その切り抜きからさきに眼をお通しになって。それわたしが切りぬいておいたものなんですの」  その切り抜きは|便《びん》|箋《せん》らしい台紙のうえに|貼《は》りつけてあり、その台紙に弥生の|筆《ひっ》|跡《せき》らしいきれいな朱書きで、 「昭和二十二年六月十六日のA紙の朝刊から」  と、あり、見出しは、 「病院坂の空家で中年の女性首を|吊《つ》る」  そして、記事の内容はつぎのようなものであった。 「芝高輪郵便局の局員|杉田誠《すぎたまこと》さん(四八)は数日まえから病院坂の途中にある空家から異臭を発するのを怪しんでいたが、昨六月十五日午後、近所に住む|山《やま》|田《だ》|吉《きち》|太《た》|郎《ろう》さん(五二)とともに空家の中へ踏み込んでみたところ、果たして奥の洋室の天井から中年の女性が首を吊って死んでいるのが発見された。女性の推定年齢は三十六、七、身に暗緑色のスカートをはき、白地のブラウスを着ているという以外、|身《み》|許《もと》が確認されるような何物も所持しておらず、また遺言状らしきものもまだ発見されていない。従っていまのところ身許不詳だが、死後数日経過しているとのことである。なおこの空家というのは坂の名の由来となった法眼病院の院長法眼家の旧宅であるが、戦争中法眼家は田園調布のほうへ疎開しているうえに昭和二十年三月の空襲でおびただしく破損しており、いまだに空家として放置されているものである。従って死体となって発見されたその女性も法眼家に関係のあるものではないかと、高輪署では|目《もっ》|下《か》同家に照会中」  金田一耕助は読みおわったその切り抜きを、詩集のあいだに戻すと、 「奥さん、これは……?」  弥生は苦痛に顔をゆがめながら、しかし、その語りくちは落ち着いていた。 「金田一先生、わたし言い訳がましいことを申し上げるのは好まないほうですが、これでもとても忙しいからだでございます。ことにこの事件が起こった二十二年ごろは、からだが幾つあっても足りないくらいでした。法眼病院の再建、それに五十嵐産業のほうも、つぎからつぎへと押し寄せる、新しい情勢に対処しなければなりませんでした。そういう毎日でございましたから、ろくに新聞を読むひまもございませんでした。ことにその記事は社会面の下段に、ごく小さく組み込まれていたものですから、つい気がつかずにすましていたのです。わたしどものほうでは数種類の新聞を、ひと月ごとにファイルしておいて、|閑《ひま》なときにわたしが眼を通すことになっております。わたしがその記事に気がついたのは、七月に入ってからでした。七月の六日のことですから、事件が発見されてからでも、もう二十日以上もたっていました。わたしがもっと早く、その新聞の日付けの日にでも気がついていたら、もっとうまく処置できたのにと、それがいまでも残念でなりません」 「では、奥さんはこのご婦人をご存じなんですね」 「はい、よく存じております。会ったことはいちどもないんですけれど、主人からちょくちょく|噂《うわさ》は聞いていたんです」 「ご主人とはどういうご関係……」 「琢也の愛人なんですの、ほっほっほ」  弥生はホロ苦く笑って、 「血は争えぬとか、繰りかえす細胞の歴史は恐ろしいとか申しますが、父も子もおんなじことをやってるんでございますね。琢也が鉄馬の妾腹の子で、池の端の妾宅で育ったということは、先生の調査にも出ているようでございますけれど、琢也もやはり中年を過ぎてから愛人をつくって、池の端にかこっていたんですのね。それもこれもわたしが悪いんです。わたしが女だてらに家を外にとびまわっているでしょう。主人としては落ち着いた|憩《いこ》いの場がほしかったんでしょうね」 「いつごろのことなんです、それ……?」 「昭和の初期のことなんです。わたし|迂《う》|闊《かつ》|千《せん》|万《ばん》にもちっとも気がつきませんでした。主人に愛人ができてるってこと。それが昭和七年うちに由香利がうまれた年、むこうさん、お冬さんというひとなんですけれど、そのひとの腹にやはり女の子がうまれたんですね。それではじめて打ち明けてくれたんですけれど。主人はそのとき五十一歳でございましたから、とてもはにかんでましたわね」  金田一耕助は内心の驚きを押し包んで、 「するとその女のお子さんは、由香利さんの叔母さんになるわけですね」 「そういうことでございますわね。万里子にとっては腹違いの妹になるわけですから」 「それでその愛人というのはどういうひと……いや、なにをしていたひとなんです?」 「それがとても気の毒なひとで……と、いっても、これは主人の受け売りなんですけれど、大工さんの娘さんで|佐《さ》|藤《とう》|冬《ふゆ》|子《こ》というんだそうです。それがいろいろな事情があって、|継《まま》|子《こ》がひとりある、相手は日本画家だとかいってましたが、山内なにがしさんのところへ嫁いだんですね。だいぶん年のちがったご夫婦だったそうです。ところが相手の旦那さまというかたが、継子をのこして亡くなられたんだそうです。旦那さまがお亡くなりになればその継子は、お冬さんにとっては縁もゆかりもないひとですわね。ところがその継子……主人がよく|敏《とし》ちゃんとかビンちゃんとかいってましたが、男の子なんですね、その子がとてもお冬さんになついていたうえに、お冬さんというのが主人の実母に似た気質のやさしい、まあ、いじらしいほど気質のやさしいひとだったらしく、結局、男というものは自分の母に似たひとに心が|惹《ひ》かれるんじゃございませんでしょうか。お冬さん、敏男という継子をかかえて、銀座のカフェで女給さんかなんかしていたところを主人が、まあ、好きになったというわけらしいんです。そこで昭和五年ごろから自分の育った池の端にかこっていたらしいんですけれど、なにしろそれまで疑わしい外泊などいちどもしたことのないひとですから、わたしもつい……これでは奥さま業失格でございますわね」 「それで、敏男というのも引き取られたんですか」 「そうそう、主人はその敏男という子が、かわいくて仕方がなかったらしいんですね。敏男とか|敏《びん》|公《こう》とか呼んで、なにしろ自分に男の子がないものですから」 「それで、奥さんはそのひとたちに、いちどもお会いになったことがないんですか」 「はあ、いちどは会わせてくださいと、主人に頼んだんですけれど、相手に恥をかかせるものじゃない、貧しく育ったひとなんだからと、こう申しますものですから、|強《し》いてともいえず、でも、せめて|小《こ》|雪《ゆき》ちゃん……というのがお冬さんの腹にうまれた娘なんですけれど、その子にはいちど会っておきたいとせがんだんですが、主人がなにかとことばを濁しまして……これはわたしの邪推かもしれないんですけれど、その子とても|醜《みにく》い子らしいんですの。顔に大きな赤|痣《あざ》があったりして。いつかその子の話が出たとき、あれは|呪《のろ》われた子だ、あんな顔にうまれついてと、溜め息をついていたことがございますの。それでわたしのほうでもつい遠慮してしまって……わたしってよっぽど女らしくない女なんでしょうねえ」 「それでは奥さん、お冬さんという女性が自殺したいきさつをお伺いいたしましょうか。奥さんのことですから、その間の事情は調査していらっしゃるんでしょう」      四  弥生はちょっと呼吸をととのえるように、片っぽしかない眼で軒の風鈴を|眺《なが》めていたが、やがてその眼を金田一耕助のほうに戻すと、 「わたしさっき、言い訳がましいことをいうのは好まないほうですと申し上げましたが、これはやっぱり言い訳になりますわね。その新聞によりますとお冬さんの遺体が発見されたのは、昭和二十二年の六月十五日ということになっておりますでしょう。しかも、死後数日たっているということになっておりますわね。そうするとお冬さんがそこで自ら生命を断ったのは、六月八日か九日、十日ということになりますわね」 「ああ、ちょっと」  金田一耕助は手をあげて相手を制すると、 「お話中ですがここでちょっと念を押させてください。お冬さんというのはほんとに自ら|縊《くび》れて死んだんですか。だれかに殺害されたあとで、自殺と擬装されたというような疑いは……?」 「まあ、怖いことおっしゃる。しかし、いいえ、わたしもそれを考えないではございませんでした。ですからお冬さんが|縊《い》|死《し》なすった正確な日付けをしりたいと思ったとき、この件を扱った高輪署の刑事さんにきていただいて、その点についても念を押してみたんです。刑事さんたしか|加《か》|納《のう》さんとおっしゃいましたが、いまでも高輪署にいらっしゃるんじゃないでしょうか。その加納さんのおっしゃるのに、死因はたしかに縊死だったそうです。警察のほうでもこの|家《うち》が一枚かんでいるらしいとわかったので、とくに入念に調査してくだすったんですね」 「なるほど、わかりました、それから……」 「はあ、それからお冬さんが亡くなられた正確な日は、六月九日ごろじゃないかということになってるそうですが、なんと、それより四日まえの六月五日には、お冬さんはこの家へきて万里子に会っているんでございますね」 「それを、奥さん、ご存じなかったんですか」 「全然。その時分わたしは二週間ほど関西へ旅行していたんですが、ばんじはそのあいだの出来事なんですね。しかし、これはやっぱりわたしの責任でございますわね。万里子にどういう不実な言動があったにしても」 「万里子さんはお冬さんのこと……お冬さんという女性の存在をご存じだったのですか」 「問題はそこなんですの。あらかじめ打ち明けておけばよかったんですのね。主人もいずれは打ち明けるつもりだったんでしょう、ああいう死にかたをしなければ。わたしはわたしで主人の爆死でございましょう。お冬さんのことどころじゃなかったんですの。でも、ひょっとするとお葬式には顔を出してくださるんじゃないかと、心待ちにしていたんですけれど。少し落ち着いてから池の端へ手をまわして調べてみたんですけど、お冬さんの住んでいたと思われるあたりは、いちめんの焼け野原になっていたそうで、お冬さん親子三人、全然行方がわからないんですね。戦後もちょくちょく心当たりを捜してみたんですが……。そういうわけで万里子にはぜんぜん打ち明けてなかったんですの」 「それじゃお嬢さんさぞ驚かれたでしょう。とつぜん見ず|識《し》らずの女が現われて、わたしはあなたのお父さんの愛人だった女ですなどと名乗りをあげられちゃ……」 「なにか言いがかりか|強請騙《ゆすりかたり》とかんちがいしたらしいんですのね、はじめは。でも、お話を伺っているうちにわかってきたと思います。しかし、わかってきたらわかってきたで、裏切られた気持ちが強かったんじゃないでしょうか、自分の父に。万里子も自分の父が法眼鉄馬の妾腹の子だということはしっていました、主人の書いたものやなんかを読んで。万里子はそのことをとても外聞を悪がっていました。お父さま、なにもあそこまでお書きになることはないんじゃないかと、憤慨していたことがございましたからね。しかし、その父はいたって品行方正な紳士だとばかり思いこんでいたところへ、そういう女性が現われたもんですから、いま、先生がおっしゃったようにさぞ驚いたことと思います」  弥生は偽眼でないほうの眼をくもらせて、 「わが子を|論《あげつら》うのは心苦しいことですが、万里子というのが醜い子でした。われわれ夫婦のどちらに似たのだろうと思われるくらい無器量な娘でした。色こそ白うございましたが、|鰓《えら》の張った子で、すがたも|鳩《はと》|胸《むね》|出《で》っ|尻《ちり》というんですか、いかついからだをした子で……本人もそれを意識してるもんですから、自分の容姿にはつねに劣等感をもっていたようです。そこへ自分より年下の、自分よりはるかに美しい父の愛人としょうする女性が現われては、あの子の気性としてはカッとせずにはいられなかったのだろうと思います」 「つまり嫉妬なすったんですね。琢也先生のお嬢さんとしても、一個の女性としても」 「女の子というものはどうしても母よりも父親のほうを慕うものですが、万里子にとっては、父は神聖にして|冒《おか》すべからずくらいの存在だったのでございましょう」 「それで、お冬さんというひとを|侮辱《ぶじょく》なすったわけですか」 「そうとう|小《こ》っ|酷《ぴど》くね。光枝さんなんかもその時分まで、お冬さんのことは全然しらなかったそうですが、この応接室で万里子がそうとう大きな声で|罵《ののし》るのをきいて、はじめてようすがわかったらしいんですね。一時間くらいここで応対していたそうですが、万里子があまり大きな声を出すので駆け着けてくると、お冬さんが眼にハンケチを押し当てて、逃げるようにここを出ていくところだったそうです」  弥生の眼はかわいていたし、語りくちも落ち着いていたが、さすがにその語尾には|呻《うめ》くような悔恨のひびきが深かった。 「それが六月五日のことで、それから四日のちにお冬さんなる女性は、病院坂の空家のなかで自ら|縊《くび》れて亡くなられたわけですね」 「そのことなんですの、金田一先生。お冬さんがあの家へきて自分の生命を断たれたということについて、わたしはとやかく申しません。お冬さんはとっても主人を愛してたんでしょうし、主人はお冬さんにとってたったひとりのひとだったんでしょうからね。ですから主人の|終焉《しゅうえん》の地ともいうべきあの家へきて、主人のあとを追っていかれたそのお気持ちはわからないでもございません。しかし、お冬さんをお恨みするのは、なぜわたしにいちどでも会ってくださらなかったのかと、それがくやしゅうございますわね。なるほど、琢也亡きあとは三郎が法眼家の当主でしたし、万里子は三郎の家内です。しかし、あの子になにがわかりましょう。気性だけはたけだけしゅうございましたが、いたって思慮の浅い子でございました。この家をいっさい取りしきっているのはこのわたしでございます。お冬さんもそれを知らなかったはずはないのにと、そればかりが残念でなりません」  それはこの才女にとっては無視された悔しさでもあり、無念さでもあったろう。しかし、金田一耕助はそういう感情はいっさい無視して、機械的にメモを引っ繰りかえしながら、 「ところが、そのおなじ昭和二十二年の八月二十五日に、三郎さんと万里子さんのご夫婦が軽井沢からの帰途、自動車事故で死亡していらっしゃいますね。このふたつの不幸な出来事のあいだに、なにか因果関係があるのではないかと考えられませんか」  弥生は見えるほうの眼をまるくして、いくらか語気を強くすると、 「金田一先生、そんなこといままでいちども考えてみたこともございません。あれは万里子の過失なんです。それともあの日の霧のせいだったかもしれません。しかし……こうしてお話してくると、なるほど、ふたつの事件になにか因果関係があるように聞こえますから不思議ですわね。でも、これは偶然の一致なんです。不幸な偶然の一致でした」 「ああ、そう、それじゃいまの質問は取り消すとして、昭和二十二年当時で小雪さんというお嬢さんはおいくつでした。こちらのお孫さんとおないどしだとおっしゃいましたが」 「由香利のほうがひと月ほどお姉さまなんですわね。その由香利がことし二十二歳でございますから、昭和二十二年ではふたりとも十六歳ということになりましょう」 「山内敏男君というひとは……?」 「小雪ちゃんと四つちがいだと聞いておりますから当時二十歳、ことし二十六歳になってるはずでございますわね」 「奥さんはそのきょうだいの消息を、ご存じないのでございますね」 「ですから、その新聞記事に気がつくのが遅過ぎたのでございますわね。わたしはそれによってはじめてこの事実をしり、あらためて万里子や光枝さんを|糾明《きゅうめい》してやっとあの子の不始末をしったのでございます。わたしはお冬さんの遺体がどうなっているか気になりました。そこでおそらくこの事件を担当なすったであろうと思われる、高輪署へ連絡申し上げたんですの。そしたらさっき申し上げた加納刑事さんが来てくださいました」 「加納刑事ですね」 「はあ、ところが加納さんのお話では、その日のうちに……つまりお冬さんの遺体が発見されたその日の午後おそく、加納さんがこの家へいらして万里子にお会いになったそうです。ところが万里子があくまで知らぬ存ぜぬ、どうせ生活に困った宿無しが、世をはかなんで首をくくったのであろう、そんな女とかかりあいにされたらこちらが迷惑すると、|居《い》|丈《たけ》|高《だか》になって刑事さんを追い返したそうです。まあ、たいそうな剣幕だったと加納さんも苦笑していらっしゃいました」 「それで遺体のほうは……?」 「敏男さんと小雪ちゃんが引き取りにきたそうです。警察のほうでは引き取りてがなくて弱っていらしたんですね。そしたらその新聞が出た翌日とおっしゃってましたから、六月の十七日のことでございますわね、新聞で見たが、もしやというのできょうだい揃って高輪署へ出頭し、遺体に対面なすって、お母さんにちがいないということになったんですね。死後数日経過しているとはいうものの、生前の面影はまだ多分にのこっていたそうですし、衣類やなんかからして、お冬さんにちがいないということが確認されたんですね。加納さんのお話によると、敏男さんのほうは黙って男泣きに泣いてたそうですが、小雪ちゃんのほうは|亡《なき》|骸《がら》に取り|縋《すが》って、ひた泣きに泣いてたそうです。無理はございません、まだ十六ですものね」 「すると、警察ではその縊死婦人とこの家の関係をしったわけですね」 「はあ、ですから加納さんがまたやって来られたんですね。そしたら万里子が香典にと五千円包んだそうです。しかし、それは敏男さんが突き返したので、加納さんが三度この家に足を運んで、若奥さんにお返ししましたと笑ってらっしゃいました。まったく外聞の悪いお話で……」 「それで、三人はそれまでどこに住んでたんですか」 「千葉県の|木《き》|更《さら》|津《づ》だったそうです。そこに敏男さんのお父さんのお|識《し》り|合《あ》いのかたがいらして、そこへおもな荷物やなんか疎開してあったんですね。しかし、自分はやっぱり池の端に頑張っていらしたそうです。ところが二十年春の空襲で焼け出されたとき、親子三人で病院坂へやって来られたそうです。ところが病院坂のほうもあのとおりでございましょう。しかも法眼琢也も爆死したといううわさをお聞きになって、おそらく絶望の思いを胸に抱いて、木更津へ疎開なすったんでしょうね」 「あなたその木更津のほうへは……」 「それなんですの、金田一先生。加納さん、さいわいに木更津のところをひかえておいてくださいましたので、すぐ手を打ったんですが手遅れでございました。なんでもそのとき警察のほうでも|不《ふ》|愍《びん》がられて、火葬のお世話までしてあげ、|僅《わず》かずつながらも香典もつつんであげたそうです。それは敏男さんもよろこんでお受けになり、お|骨《こつ》を抱いて木更津へかえっていったんですね。それから一週間ほど、きょうだいでなにやらヒソヒソ相談していたそうですが、突然東京へいってくると出たっきり、消息がいまだにわかりませんの」 「お冬さんてひと、財産は……?」 「それは主人のことですから、相当のことはしてあったと思いますの。しかし、戦後のあの状態ではねえ。二十二年のその時分にはすっかり底をついていらしたと思いますの。しかも、お冬さんにはお冬さんでそうとうのプライドがおありだったでしょうから、この家へ訪ねていらしたのはよくよくのことだったんでございましょうね」 「お冬さんに遺書は……?」 「それはなかったそうです。あのひととしては、この家に対する|怨《うら》みがましいことは書きたくなかったんでしょうね。途方に暮れて、|二進《に っ ち》も|三進《さ っ ち》もいかなくなって、ただもう主人のそばへいきたかったんじゃないでしょうか。それを思うといっそういじらしくって……、憎いのは万里子のほうでございますわねえ」  このひとは自分の過失をばんじ、いまは亡き娘に転嫁しようとするのであろうか。そうは聞こえなかった。お冬という幸薄き女性をいとおしむ声は真実のように受けとれた。と、同時に娘のことを語るとき、この高貴な婦人のことばには、同情や愛情は|微《み》|塵《じん》もかんじられなかった。この才色兼ね備わった稀代の才女にとっては、両親のどちらにも似ぬ無器量な娘は、ただうとましい存在でしかなかったのではないか。 「ところで、奥さん、この詩集は……?」  金田一耕助は眼のまえのテーブルのうえから「病院坂の首縊りの家」を取りあげて、二、三ページを繰ってみた。 「ああ、それ、奥付のところをみてください。昭和二十六年三月十五日発行とございますでしょう。それから一週間ほどして、わたし宛てに送られてきたものなんですの。差出人のところには御存じのものよりとあるだけで、住所も名前もございませんでした。消印は中央郵便局とありましたが、わたし愚かにもその封筒を紛失してしまったのでございます」  金田一耕助は第一ページからゆっくりと眼を通していった。  それは六十四ページの小冊子だし、十二ポイントくらいの大きさの活字で、一ページに八行くらいの密度の|粗《あら》い組み方だから、読もうと思えばすぐ読めただろうが、金田一耕助は五、六ページ読むとバッタリ本を閉じてしまった。弥生のような女性のまえで読むには、あまりにもエゲツないように思われたからである。  この詩集の全文をここに掲げることはひかえよう。  金田一耕助はのちにそれを何度も読み返してみたが、一貫してそこに描出されているのは、綿々たる|怨《えん》|嗟《さ》と|呪《じゅ》|詛《そ》と|復讐《ふくしゅう》の精神であった。  全体が三部によって構成されていて、第一部が「風鈴のある娼婦の宿」第二部が表題の「病院坂の首縊りの家」第三部が「|蛆《うじ》|虫《むし》」になっているのだが、パラパラとページを繰ってみただけでも、やたらに子宮だの卵巣だの、陰部だの陰茎だの、精子だの卵子だの、あるいは近親|相《そう》|姦《かん》だのという活字が並んでいるのが眼についた。この天竺浪人という詩人は、「悪の華」のボードレールの影響を多分にうけているのではないかと思われた。 「奥さんはこの天竺浪人という男にお心当たりでも……」  弥生はちょっと|逡巡《しゅんじゅん》の色をみせたのち、 「それ、敏男さんではないかと思うんですけれど……と、申しますのは、主人がとっても敏男さんのことをかわいいように申しますでしょう。ですからわたしいつか聞いたことございますの。あなたその子をやっぱり医者になさるおつもりって。そしたら主人が申しますのに、いや、あの子は医者にはむかない。あいつはおやじの血を引いてやはり芸術家ではないかと。なんでもスケールの大きな、|茫《ぼう》|洋《よう》としてつかみどころのない性格だといってましたけれど」 「奥さんはこの出版社から、天竺浪人のことを|手《た》|繰《ぐ》ってみようとはなさいませんでしたか」 「それはやってみました。しかし、やっぱり途中で糸が切れてしまって……あのひとたち先手先手を打って、わたしの捜索から身をかくしているんじゃないかと……」  弥生は|慄《りつ》|然《ぜん》として肩をふるわせた。この怖れをしらぬ才女にして女傑なる女性を、こうも怯えさせるというには、この詩のなかによほど無気味な|韻《いん》|律《りつ》があるのだろう。 「奥さん、この詩集しばらくわたしにお預けねがえませんでしょうか」 「金田一先生にはなにかお心当たりが……?」 「いや、これ、三百部限定版とあるでしょう。その一部がこちらへ送られてきたとしても、あとの二百九十九部はどう処分されたのでしょう。おそらく高名な詩人や批評家のもとへ贈呈されたのではないでしょうか。そっちのほうから手繰っていけば、なにか|手《て》|懸《が》かりがつかめるんじゃないかと思うんですが」  金田一耕助がそのとき|脳《のう》|裡《り》にえがいていたのは私のことである。私は詩のほうはサッパリだが、私の友人に張潮江君がいることを金田一耕助はしっている。張潮江君は探偵作家仲間であると同時に、「ジュエル」という探偵小説専門雑誌を主宰しており、私はしばしばその雑誌に、金田一耕助の功名談を寄稿してきた。張潮江君はべつに張嘉門というペン・ネームを持っており、詩の雑誌も持っている。そっちのほうへもこの詩集が、送られてきているのではないかと思いついたのである。そして、あとから思えば金田一耕助のそのカンは当たっていたのだ。 「ときに、お嬢さん……由香利さんのお写真でもございませんでしょうか」 「はあ、それならここに用意しておきましたけれど……」  かたわらにある手文庫から取り出したのが、まえに述べた革の鞭を抱いた少女の写真であった。たぶんアルバムにでも貼ってあったのを、このときのために用意しておいたのであろう。 「これ、去年の夏、軽井沢でわたしが撮影したものなんですけれど」  と、その|旨《むね》万年筆の走り書きで記しながら、 「それにしても金田一先生。わたし不思議に思うことがひとつございますの」 「はあ、どういうことでございましょう」 「さっき申し上げたと思いますが、小雪ちゃんという子のことでございますけれど。わたしがどんなに会わせてほしいと頼んでも、主人はどうしても会わせてくれませんでした。その理由というのがあれは呪われた子だ、あんな顔にうまれついてと、たしかにそう申しましたのよ」 「はあ、奥さんはさっきもそうおっしゃいました」 「ですからわたしてっきり顔に大きな赤|痣《あざ》でもあるか、それともとても無器量な子にちがいないと思いこんで、むしろこちらのほうから会うのを遠慮していたくらいなんですの。ところが二十二年の事件のとき、加納刑事さんにお聞きしたら、とんでもない、とってもきれいなお嬢さんですよとおっしゃるでしょう。器量といい、姿といい、ちょっと申し分のないお嬢さんですよとおしゃいますでしょう。と、すると、なぜ主人がわたしに会わせたがらなかったのかと、それが不思議でなりませんの。では、これを……」  金田一耕助は手渡された写真に眼をおとして、お世辞でなくこう呟いた。 「おお、これはきれいなお嬢さんですね」 「ありがとうございます。万里子のような無器量な子に、どうしてそんな娘がうまれたのでございましょうね」  それはたしかに美人といえる容貌だった。勝気らしいさえざえと輝く瞳をもっていて、革の鞭を輪にまげて、にっこり笑っているところはいくらか|驕慢《きょうまん》な印象をひとに与えるが、それは法眼家のひと粒ダネとうまれて、およそ怖いもの知らずに育てられた境遇からくるものだろう。  金田一耕助はその写真をノートに|挟《はさ》むと、 「奥さん、それでは及ばずながらご期待にそえるよう努力いたしますが、ただ……」 「ただ……?」 「たいへん申し上げにくいところですが、由香利さんはもう|無《む》|疵《きず》ではいらっしゃらないかもしれませんよ。相手の目的がそれだとすると……」  弥生はもういちど|呻《うめ》くように溜め息をついて、 「やむをえません。それは覚悟しておきましょう。それにいまの若いひとたち、わたしどもの時代とちがって、それほど純潔ということにこだわらないようです。しかし、……」 「しかし……?」 「あの子は法眼鉄馬のたったひとりの|曾《ひ》|孫《まご》でございます。鉄馬の血をあとに伝えなければならない娘でございます。そのことだけはよく|憶《おぼ》えていてくださいますように」  法眼鉄馬の肖像をふりかえったとき、弥生のおもては誇りに輝き、このうえもなく|毅《き》|然《ぜん》として美しく見えた。     第四編 [#ここから4字下げ] 耕助首縊りの家を探検すること  |蛆《うじ》|虫《むし》を|噛《か》みしめる美少女のこと [#ここで字下げ終わり]      一  金田一耕助は|品《しな》|川《がわ》駅で国電から降りると、駅前のタクシーを拾って、|魚《ぎょ》|籃《らん》坂下と運転手に行先を告げた。昭和二十八年九月七日午後六時二十分ごろのことだから、大森の割烹旅館松月の玄関から、本條直吉を送り出してからまだ半時間とはたっていない。 「君、このクルマ高輪台町をとおるかしら」 「いえ、泉岳寺まえをとおって、|伊《い》|皿《さら》|子《ご》から魚籃坂へ出るつもりなんですが……」 「ああ、それじゃ、君、多少廻り道になってもいいから、高輪台町をとおってくれないか。バックしなきゃいけないかな」 「いえ、それは大丈夫です。高輪北町のところから左折すればいいんですから」 「じゃ、そうしてくれたまえ」  高輪北町はすぐ目と鼻のあいだにあった。そこを左折するとまもなく高輪警察である。金田一耕助はこのあいだ等々力警部の紹介で、高輪署を訪れて加納刑事に会っている。その警察のまえを右に曲がると高輪台町の通りである。本條直吉の話によるとかれの本條写真館は、こちらからいくと右側にあるらしい。  まもなくそれらしい建物が見えてきた。なるほど二階建ての本建築は本建築だが、横に張った板に青ペンキをぬたくった粗末な建物である。建物の正面二階に当たる部分に「本條写真館」と、横書きにかいた殺風景な看板があがっている。間口の広さに比較して、不似合いなほど大きなショウ・ウインドウがあり、なかにいろいろ写真が飾ってあるらしいが、まだ灯がついていないので、おりからの|逢《おう》|魔《ま》がときの薄暗がりのなかで、いやに陰気なたたずまいにみえた。 〈やっこさん、あれからまっすぐこの家へかえったかな。それともどこかへ廻り道でもしたのか。たんまり|脹《ふく》らんだ紙入れを持っていたが、悪どいヤミでもやっているのではないか〉  金田一耕助が心のなかで呟いているとき、まえの運転台から声がかかった。 「旦那、どこかこのへんへお寄りになりますか」 「いや、いいんだ、いいんだ。このまままっすぐに魚籃坂下までやってくれたまえ」  そこから魚籃坂下まではひとっ走りである。金田一耕助がクルマから降りると、さっと吹きおろしてきた一陣のつむじ風が、耕助の|袴《はかま》の裾をすいくあげ、かれはあわてて頭のうえのお釜帽をステッキの握りでおさえつけた。  金田一耕助はさりげなくあたりを見廻して、尾行の有無をたしかめると、軽くステッキを振りながら、目的の場所へむかって歩き出した。東京都のどこへいってもおなじことだが、ここでもいたるところに破壊と建設が同時に進行している。いっぽうでは相当の広範囲にわたって家並みがごっそり消えているかと思うと、いっぽうでは大きなビルでも建つのか、暮れなずんだ空にむかって鉄骨がくろぐろと|聳《そび》えている。路面のいたるところに道路工事の標識灯が立っていて、歩くところはごく|僅《わず》かしかない。そこを自動車がひっきりなしに行き交うのだから、歩行者はそのたびに標識灯に身をよせて、頭から|砂埃《すなぼこり》を浴びなければならなかった。  金田一耕助は多少道を|迂《う》|廻《かい》して裏坂のふもとに出た。あたりはもうすっかり暮れていたが、本條直吉もいったとおり、坂の下に街灯がついてるので、そう暗くはなかった。右側に広い学校のグラウンドがあり、グラウンドの奥に仮り建築らしい校舎がくろぐろと|蹲《うずくま》っている。坂の左側はほぼ平行に走っている表の病院坂へむかって、かなり急な傾斜になっているが、まだほとんど焼け跡のままで、表の病院坂はもうあらかた復興しているのに、こちらのほうはだいぶん遅れているらしく、見上げた坂には人影もない。  金田一耕助はその裏坂をゆっくりと登っていった。果たして坂の途中に道がT字型になっているところがあり、そこの電柱にも街灯がついている。左側の道をのぞくとそこにちょっとした|崖《がけ》|崩《くず》れのあとがあり、土砂が道のはんぶんくらいを埋めて盛りあがっている。どうやら本條直吉の話を信用してもよさそうである。  金田一耕助はそこを通りすぎると、まもなく旧法眼邸の門のまえまで|辿《たど》りついたが、そこでおやというふうに足をとめ、思わず大きく眼をそばだてた。  金田一耕助はまえにもいちどこの家へきているのである。      二  八月二十一日の午後田園調布の家へ招かれて、由香利の行方捜索のことを依頼されたかれは、当座の運動費として手の切れるような千円札を百枚提供されたうえ、無事に由香利が救出されたあかつきは、その倍額を謝礼として支払うであろうと持ちかけられては、金田一耕助たるもの|俄《が》|然《ぜん》ハリキラざるをえなかった。  かれは田園調布の家を出るとまっすぐにこの家へきてみたのである。時刻はきょうより一時間くらい早かったろう。陽はまだ高かった。来てみると空襲のあとの惨状を、そのまま保存してあるかにみえる、廃墟そのものという家だった。|大《おお》|谷《や》|石《いし》を組み合わせてつくったふたつの門柱はそのままで、|蔦《つた》がいちめんに|絡《から》みついているが、屋敷を取りまいている大谷石の塀には、いたるところに亀裂ができて|崩《くず》れており、人の出入りも自由自在で、門などもあってなきがごとしであった。  この家は背後の崖にむかって、階段式に建っていたのだろうが、左奥にあったらしい洋館はあとかたもなく崩れ去っており、平家建ての日本家屋のほうも、屋根が一部こわれてかしいでいるところがあった。  玄関の風雅な格子のはまった戸は二枚ともふしぎに残っていた。もっともこんな幅の広い戸を、持っていったところでふつうの家では使いみちはなかったろう。なんなく開いた格子戸のなかへ入ると、そこは|礫《こいし》をちりばめたひろい|研《と》ぎ出しになっており、大きな三波石が|沓《くつ》|脱《ぬぎ》として|据《す》わっている。玄関に畳はなかった。だれかに持っていかれたのであろう、床がむき出しになっている。  金田一耕助は|草《ぞう》|履《り》ばきのままでうえへあがった。玄関は畳敷きだったらしいが、そこから奥には四尺ばかりの縁側が縦に走っており、左側にはふしぎに雨戸がしまっているが、右側の障子は一枚もなく、障子のなかの各座敷には畳が一枚ものこっていなかった。みんな戦後のどさくさまぎれに持っていかれたのであろう。  しかし、金田一耕助はこのうちを探検にきたのではない。かれは弥生から聞いてきたので、この家のだいたいの見取り図が頭のなかにできていた。廊下を突き当たって右へ曲がるとドアがあり、ドアを開くと十畳敷きくらいの洋間になっている。その洋間とドアひとつで、さらにその倍くらいもあろうと思われる広い洋間につながっていた。  金田一耕助の用事があるのはその部屋だった。この部屋でお冬はみずから|縊《くび》れて死んでいたのだ。  この部屋はおそらく日本家屋と洋館の中間に位置していたのであろう。広さは二十畳敷きか、あるいはもっと広いかもしれない。高い|格天井《ごうてんじょう》の中央が直径五尺くらいの円型の|枠《わく》でくぎられており、むかしはそこに豪華なシャンデリヤがぶらさがっていたにちがいない。シャンデリヤはむろんそこになかったが、天井の中央に乳房のような円型の金具がとりつけてあり、その金具から太い金属製の鎖がぶらさがっている。その鎖の環のひとつずつは|扱帯《し ご き》をとおすぐらいの大きさを持っている。お冬は一番|尖《せん》|端《たん》の鎖に扱帯をとおし、それを輪結びにするとそこへ自分の首をおいて、足下の木箱を|蹴《け》ったのだろう。彼女の縊死体が発見されたとき、そこに大小ふたつの木箱がころがっていたという。  金田一耕助はまもなくその家を出たが、ふりかえってみると平家建てとはいえ、累々層々たる|甍《いらか》のたたずまいは、いかさまご大家のあとと|偲《しの》ばれ、もしそれが完全な|容《かたち》として残っていれば、威風堂々としてあたりをはらっていたにちがいない。  金田一耕助はゆっくり坂を登って、病院坂のほうへまわってみた。ふと気がつくと病院坂のうえに派出所があり、派出所のとなりに電話のボックスがある。金田一耕助は急に思いついてそのボックスへとび込むと、公衆電話のダイヤルをまわして警視庁の捜査一課、等々力警部を呼び出してみた。  警部はいた。  金田一耕助はいま高輪署のちかくにいるのだが、これから同署の加納という刑事を訪ねていきたい、あらかじめ電話をしておいてもらえないかと|懇《こん》|請《せい》した。警部は承諾した。加納刑事と連絡がとれたら、どちらへ電話をしたらよいかという質問に、自分はいま公衆電話のなかにいるのだが、三十分もしたらもういちどここから電話をするから、結果をきかせてほしいと要請すると等々力警部は了承した。  金田一耕助はボックスを出ると相変わらず、ステッキを振りながら病院坂をなかばまでくだってみた。裏坂とちがってこちらはだいぶん繁栄を取り戻している。ここも道路の幅が拡張されるらしく、右側の家並みが一間半ほど後退していて、道路の補修はまだ十分ではないが、洋品店だの本屋兼文房具店だのがボツボツ開店していて、店先にはもう灯がついている。  左側は坂の下まで全部法眼病院である。坂のうえの三分の一くらいは仮り建築の病院になっているらしいが、下のほうの三分の二はいま本建築が進行中とみえ、コンクリート・タワーが空に|聳《そび》えていて、|目《もっ》|下《か》基礎工事の段階らしい。道路に面した鉄骨に張られた広いズックのシートの表面には風間建設と丸ゴチックで。  風間もずいぶん大きくなったものだが、それにしてもこの病院、完成するとさぞ見事だろうと思われた。ここでも破壊と建設が同時に進行していて、ある部分では、ショベル・カーが土を掘り起こしているかと思うと、ある部分では鉄組の枠のなかに、コンクリートを流し込んでいる部分もある。  それからまもなく公衆電話のボックスへかえってくると、ちょうど三十分たっていた。電話のむこうに等々力警部が出て、高輪署へ連絡しておいた、さいわい加納刑事が在署中であるから、すぐ出向いていくようにとのことである。金田一耕助は厚く礼をのべて、電話のボックスを出ると、うまいぐあいにタクシーの空車が通りかかった。      三  加納刑事は三十そこそこ。このひとは後年「悪魔の百唇譜」や「夜の黒豹」の事件で金田一耕助と行動をともにすることになり、その時分は警部補に昇進していたが、昭和二十八年当時ではまだヒラの刑事であった。  金田一耕助は法眼弥生から山内敏男とその妹、小雪という娘の行方捜索を依頼されているものであるがと前置きをして、お冬という女性が|縊《い》|死《し》をとげた前後の事情をお伺いしたいと申し入れた。 「ああ、あの事件……」  と、加納刑事はおもてをほころばせて、 「あの一件ならよく憶えていますが、そうするとあのきょうだい、いまだに行方がわからないんですか」 「はあ、それで法眼先生の未亡人も心を痛めておられて、きょうわたしにご依頼があったのですが、あのふたり、きょうだいといっても、全然血のつながっていないことはご存じでしたか」 「それはしっていました。事情聴取をしているうちにわかってきたんです。しかし、あのふたり、ほんとのきょうだいといっても、だれも疑うものはなかったでしょうね。ほんとに仲のよいふたりでした。兄は妹をいたわりつ、妹は兄を慕いつつ……」  加納刑事は浪曲のような文句を口ずさんで、自分でくすぐったそうに苦笑しながら、 「いや、いじらしいほどの仲よしでした。それでわたしも救われたんです」 「と、おっしゃると……」 「いや、この兄がついている限り、小雪という娘も大丈夫だろうと思ったんですね。なにしろあの当時コユちゃん……と、兄貴の敏男が呼んでましたが、コユちゃんまだ十六でしたからね。ところが兄の敏男というのがたしか|二十《は た ち》でしたが、からだも大きくガッチリとして、口数は少ないほうでしたが、いかにも頼もしそうにみえたもんで、この青年なら戦後のこの風雪にも耐えていくだろうし、妹もりっぱに守り育てていくだろうと思ったんです。なにしろ法眼家からああも冷酷につっぱなされちゃ、全然うしろ|楯《だて》のないふたりですからね」 「あなたが主として|折衝《せっしょう》されたのは、若夫人の万里子さんのほうだったそうですね」 「あれゃひでえ女でしたね。いや、これは失礼、あなたの依頼人のことをとやかくいって……」 「いや、それはいいんです。わたしの依頼人は未亡人のほうですから。未亡人もその件に関するかぎり、万里子さんのやりくちがだいぶん心外のようでしたよ」 「そうそう、わたしものちに未亡人にお眼にかかりましたが、あのひとがあの当時、旅行中だったのがあのきょうだいの不幸でしたね。未亡人のほうはさすがにあれだけの大物だけあって、ものわかりのよさそうな女性でしたが、若夫人のほうはどうも……」 「ところで、その小雪という娘ですが、あなたのお話ではたいへん器量のよい子だったそうですね」 「そうそう、未亡人もわたしからそれを聞くと、たいそう不思議そうになんども念を押しておられたが、あれにはなにか訳があるんですか」  金田一耕助がかんたんにその間の事情を説明すると、 「呪われた子……? あんな顔にうまれて……? 法眼先生がそうおっしゃったんですって。とんでもない、あれなら非常な美人でとおる顔ですよ。|凜《り》|々《り》しげで、さわやかで……それは境遇が境遇ですから、どっか暗い影みたいなものがあったことはありましたがね」  結局、この刑事からはなんのうるところもなかったも同様だった。それでも金田一耕助はあつく礼をのべ、もしきょうだいの消息がわかったら、ここのところへ知らせてほしいと、松月の所番地と電話番号を書きおいて警察を出た。  金田一耕助がそのつぎに訪ねていったのは、赤坂のナイト・クラブ、K・K・Kであった。そこの用心棒をしている多門修を呼び出して、近所の喫茶室へつれこむと、天竺浪人という名の詩人の捜索を依頼した。|手《て》|懸《が》かりとして神田神保町一丁目七番地の松山書店を挙げておいたが、かれがわざと山内きょうだいのことを伏せておいたのは、法眼家に累がおよぶことを恐れたのと、じっさいまた、天竺浪人が山内敏男であるという確証はまだどこにもなかった。もしふたりが同一人物ならば、シュウちゃんがそれを発見するであろう。なまじっかの先入観を持たさないほうがよいと考えたからである。  それから二日ほどのちに金田一耕助は成城へ私を訪ねてきたが、かれのこの件に関する活動はそこまでであった。かれとてもあせらないではなかった。いちにち遅れれば遅れるほど、由香利という娘の|疵《きず》がふかくなるばかりである。と、いって、ことは家人ですら知らぬ極秘事項なのだ。そうたびたび法眼家を訪問するわけにはいかなかった。      四  かれはたびたび「詩集 病院坂の首縊りの家」を読み返してみた。そこからなにか発見出来るのではないかと。読み返せば読み返すほど、金田一耕助はその行間からにじみ出ている、おどろおどろしき|怨《おん》|念《ねん》と妖気に|慄《りつ》|然《ぜん》たらざるをえなかった。そこに描かれている構想はいたって単純なものだった。  ある|薄《はっ》|倖《こう》の女がはるかに年上の男に愛されかつ愛し、ついにその男の二号におさまった。男にはべつに妻も子もあったが、それにもかかわらずその女は、全身全霊をあげて男を愛し、そのあいだに一女をもうけた。  男はあるとき南部風鈴を買ってきて軒に吊るした。風鈴は四季をわかたず妾宅の軒に吊るしてあったので、成長し、物心がつき、やがて少女になった女の子にとってその風鈴は父の象徴のように思われた。  父は妾宅へめったに泊まっていくようなことはなかった。十一時になるとさっさと女のからだを放し、着物を|着《き》|更《が》えてかえっていった。やがて成長した女の子は、自分の境遇がどういうものであるかをしるにいたった。  父にはべつに家があり、そこにもおなじ父の血をひく女の子がいることをしった。しかも、その女の子は自分とおないどしであることを聞いて、あるときはその子を慕い、あるときはその子を|羨《せん》|望《ぼう》し、あるときはその子に嫉妬した。  しかし、女の子はべつに自分を不幸だとは思っていなかった。父はその女の子を深く愛していたし、女の子も父を敬慕してやまなかった。父は毎日くるとは限らず、くる日よりこない日のほうが多かった。  父のくる日の母のよろこびようはこのうえもなく大きく、軒端の風鈴も母の心を象徴するかのように威勢よく鳴りはためいた。父のこない夜、母は打ち沈んで用をたす動作さえもの憂そうで、そんな夜、軒の風鈴も鳴りをしずめて|潮《しお》|垂《た》れてみえた。  以上が第一部の「風鈴のある娼婦の宿」の大要だが、そこにはさきに述べたような露骨なことばがふんだんに使われているものの、調べは淡々として穏やかで、むしろどこか|惻《そく》|々《そく》として哀感をおびているように思われる。  それが第二部の「病院坂の首縊りの家」になると、|俄《が》|然《ぜん》、調子が変わってしだいに荒々しくなってくる。  戦争が|苛《か》|烈《れつ》になって、母と子の生活がしだいに窮乏していくさまが、はじめは乾いた|語《ご》|彙《い》をつらねて語られていく。女の子の父は大きな病院を経営していたが、その一部が軍に接収されたので、身辺|俄《にわ》かに多忙をきわめ、女の子の家へ顔を出すこともしだいに|間《ま》|遠《どお》になってきた。  やがてある夜突然秋の天に舞う|蜻《せい》|蛉《れい》のごとく、B29が空をおおうと、町々はいちめんに|炎《も》えあがった。高射砲の音が鳴りひびき、ひとびとは炎上する町の中を逃げまどうた。女の家もごたぶんに|洩《も》れず焼けくずれたが、焼け跡のなかから発見された風鈴だけは|無《む》|疵《きず》であった。女は片手に風鈴をぶらさげ、片手に女の子の手を引いて、痛む足を引きずり引きずり愛する男の経営する病院へむかった。  やっと目的の地に|辿《たど》りついた女は、わが眼を疑って|茫《ぼう》|然《ぜん》として自分を見失った。かつて荘厳を誇っていたその病院は跡形もなく崩れ去り、焼けただれて曲がりくねった鉄骨だけが、まだくすぶっている焼け跡の中に立っていた。しかも愛人であるそこの院長も病院と運命をともにしたという。  風鈴を|携《たずさ》え、女の子の手を引いた女はそれから三日ののち、船に乗って南方の農家へ疎開してきた。農家の軒には風のあるとき風鈴がチロチロ音を立てていた。  やがて戦争がおわり一年と経ち二年と過ぎた。愛する男に身をゆだねる以外、|生計《た つ き》のみちをしらぬ女は、しだいに窮乏が深刻になってきた。  ある日女は意を決して疎開先の家を出ると、いまは亡き愛人の宅の門を叩いた。しかし、そこで得たものは、|痛《つう》|罵《ば》と|侮辱《ぶじょく》と精神的|拷《ごう》|問《もん》以外のなにものでもなかった。愛人の娘と称する心|驕《おご》れるその貴婦人は、女を目して|強請《ゆ す り》と|罵《ののし》り、|騙《かたり》と|貶《へん》した。|揚《あげ》|句《く》の果てにはヒステリックな声をあげて笑い、女を|売《ばい》|女《た》と|嘲弄《ちょうろう》し、この世の|疫《えき》|癘《れい》と称してはばからなかった。  女は哀しみに耐えかねて愛する男の住んでいた、廃屋へ|赴《おもむ》いてみずから|縊《くび》れて世を終わった。  以上が第二部の構成だが、この詩人はできるだけ冷静に事実を叙そうと試みているようだが、それでもときおり激越な調子が頭をもたげているのは、この詩人がまだ年若く、感情の|昂《たかぶ》りを制御するすべをしらなかったのであろう。  第三部の「|蛆《うじ》|虫《むし》」にいたって沈潜した詩人の怒りが、突然爆発したようにみえる。それは極めて短い章であった。  田舎の農家におきざりにされた幼い女の子は、母を求めて町にさまよい出たが、ついにその母を捜し出したとき、母の肉は|腐《くさ》り果て、その全身をおおうていたのはおびただしい蛆虫の群であった。|蠢動《しゅんどう》する蛆虫の群のために母の体がまだ生きていて、のたうちまわっているようにさえみえた。女の子は|嗚《お》|咽《えつ》しながらその蛆虫をひとつずつ取って口に入れた。母の分身として、かつまた母の怨念のしたたりとして、嗚咽しながら蛆虫どもを噛みしめた。  やがて女の子は母のからだを|荼《だ》|毘《び》に付し、|骨《こつ》を抱いて田舎へかえり、骨壺のうえに風鈴をかかげたが、いまや風鈴は愛情のシンボルではなく、黒い|呪《じゅ》|詛《そ》のかたまりのように見えた。  金田一耕助はこの最後の章を読むたびに、五体を走る戦慄を制することができないのだ。そこには詩人の感情の昂ぶりをそのまま示して、感嘆詞や詠嘆詞|沢《たく》|山《さん》に、呪詛だの怨念だのということばがふんだんに使われている。  この詩には詩人そのひとはどこにも顔を出していない。たぶんそれは出来るだけ客観的に母と娘の運命を、叙述し、語りたかったのだろう。それだけにこの詩の背後にひそんでいる、詩人の呪詛と怨念が黒いかげろうのように立ちのぼるのを覚え、金田一耕助は肌の寒くなるのを禁ずることが出来ないのだ。  床脇の電話のベルが鳴り出したのはそのときだった。金田一耕助は悪夢から|醒《さ》めたような顔をして、電話のそばへにじりより受話器を取った。  お清さんの声で、 「ご婦人からお電話でございます」 「どなた?」 「いいえ、お名前はおっしゃいませんの。取り次いでくださればわかるとおっしゃって……とてもお上品なおことばづかいで、そうとうお年を召したかたのようですけれど……」  金田一耕助にはすぐにそれがだれだかわかった。果たして相手は法眼弥生であった。 「金田一先生でいらっしゃいますね。名前を申し上げなくてもわたしがだれだかわかっていただけると思いますけれど……」  弥生の声はあいかわらず落ち着いており、電話を通すとその声はいっそう高貴なひびきをおびていた。 「ああ、いや、これはどうも……奥さん、いまどちらからこのお電話を……?」 「いいえ、それはご心配いりませんの。さるデパートの公衆電話でございますから。ところがねえ、金田一先生」 「はあ、はあ……?」 「このあいだのご用談のことでございますけれど、あの話、いっさいなかったことにしていただきたいんですけれど。つまりあの件はキャンセルさせていただきたいんですの」 「それはまたどういう……?」 「あのものがきょう無事にかえってまいりましたの」 「えっ、由香利さんが……?」  と、いいかけて、金田一耕助はあわてて|唾《つば》をのみくだすと、 「それでそのものは|無《む》|疵《きず》でしたか」 「さあ、そこまでは……わたしあまり深く|詮《せん》|索《さく》したくございませんし、あの子……いえ、あちらもなにもいおうとはいたしません。ですから、当分そおっとしておいたほうがよいのではないかと思いまして……」 「それはごもっともです。ですけれど、いちど会わせてくださいませんか。ぼくとしてはご無事なところを拝見しておきたいんですが……」 「それは|堪《かん》|忍《にん》してやってください。あなたにお願いしたことすら話してないのでございますから。それにわたしあのものを当分どこかへ預けようかと思っております。幸いアメリカに識り合いのかたもいらっしゃいますから」 「ああ、それもひとつの方法ですね」 「それでございますから、この件に関する限り、あなたに|一《いっ》|切《さい》身を引いていただきたいんです。大変ご無礼なことを申し上げるようでございますけれど」 「いえ、いえそれは当然でございましょう。大事なものが返ってくれば、ぼくに用事がなくなるのは当然ですから」 「わかっていただけてありがとうございます。それで念のためにお訊ねするのでございますけれど、あなたどなたにもこのことは……?」 「いいえ、だれにも。その点はどうぞぼくを信頼してご安心ください」 「ありがとうございます。それからお約束申し上げたあとの謝礼のことでございますけれど、きょう書留小包みにしてお送り申し上げましたからお納めくださいまし。受取りは頂戴しなくともよろしゅうございますから、それも念のために」  弥生の声はあくまでも落ち着いていて、混乱しているふうは|微《み》|塵《じん》もかんじさせなかったが、そのことは逆に彼女がいかに混乱しているかということを意味していないだろうか。  由香利が帰ってきた。しかし、おそらく姿を隠すまえの体ではなくなっているだろう。しかし、由香利はおそらくそのことについて語ろうとはしないであろうし、弥生もまた聞くことを避けているのであろう。周囲のひとたちには白馬へ登っていたことにして、取り|繕《つくろ》ってあるのであろう。  卓上カレンダーを見るときょうは八月二十九日、由香利が誘拐されてから十一日目である。犯人が由香利を解放したとすると、思うぞんぶん目的を遂げたであろうことが想像され、金田一耕助はおもわず身ぶるいをせずにはいられなかった。  その翌々日書留小包みが届いた。差出人の名は金田一耕助のぜんぜん知らぬ人物であった。菓子折りのなかから出てきたのは、手の切れるような紙幣がしめて二十万円。弥生のつもりではこれで金田一耕助の口を封じたいのであろう。  金田一耕助は相手の信頼を裏切るつもりは毛頭なかったが、さりとてこのままこの調査から手を引こうとは思っていなかった。矢はすでに|弦《つる》から放たれているのだ。天竺浪人を追跡している多門修からは、近日吉報をお耳に入れることが出来るだろうといってきている。  金田一耕助はいちど由香利という少女に会っておきたいと思った。その念願は偶然のことから果たされた。  九月四日の夕刻五時ごろ、金田一耕助は銀座のほうに用事があって、その帰途日劇のまえからガード下をとおって、|日《ひ》|比《び》|谷《や》のほうへ歩いていた。左側には東宝劇場をはじめとして、映画館が数軒ある。ちょうどいま、どこかの映画館の第何回目かの興行がおわったところとみえ、おびただしいひとの群が吐き出されてきた。そのなかにデブの滋がいた。デブであるがゆえに群集のなかにいても眼につきやすいのである。滋は気がつかなかったようである。その滋には連れがひとりあった。若い女性である。サン・グラスを掛けていたけれど、金田一耕助にはすぐそれがだれであるかわかった。法眼由香利である。革の鞭を持った写真で顔を憶えている。  由香利は背が高かった。五尺四寸はあるだろう。おまけにハイ・ヒールをはいているので、滋よりだいぶん上背がある。由香利はむろん金田一耕助をしらない。混雑のなかをすれちがうとき、由香利がきつい顔をしてこういっているのが、金田一耕助の耳にはいった。 「滋ちゃん、あんたのいってることはようくわかってるのよ。だけどあたしはそのまえに決着をつけておきたいことがあるのよ、決着をね」  写真で見た乗馬服の少女の幸福そうな笑顔はもうそこにはなかった。冷たい、堅牢な金属的な決意を秘めた声音であった。歯と歯のあいだから血の|滴《したた》るようなひびきがそこにあった。      五  九月七日の夕刻、金田一耕助が裏坂の法眼邸の門のまえへ立っておやと眼をそばだてたのは、そこがこのまえ来たときといくらかようすが変わっているからである。八月二十一日の夕方金田一耕助がこの家に潜りこんだとき、そこに見られなかったバリケードがいたるところに構築されている。まえにはひとの出入りも自由自在とみられた大谷石の塀のくずれも、内部の両脇に木柱が立っており、荒削りの板が隙間なく横に張られて、おまけに上部に鉄条網さえ張ってある。門も同様だった。  金田一耕助は眼をそばだてながら、門のまえを通り過ぎて坂を登っていった。入れなければ強いて入らなくてもいいのである。まえにいちど内部のようすは見ているのだから。しかし……と、それからまもなく金田一耕助がおやと首をかしげたのは、このバリケードがまだ半分くらいしか、完成していないことに気がついたからである。門のまえを通りすぎて坂を登っていくと、まもなく左側の大谷石の塀に、ひとの出入りができるほどの大きな崩れが眼についたが、そこにはまだバリケードが施工されていなかった。そこから坂のうえまでには何か所かおなじような崩れがあるはずだが、こう見たところ、そのどれにもまだバリケードは構築されていないようである。と、いうことはこのバリケードの構築に着工されたのはきょうだということではないか。それを完成するには時間が足りなかったということなのだろう。  金田一耕助ははじめてビンちゃんなるヒゲの花婿が、なぜわざわざ専門家を招いて記念写真を撮影させたのか、その理由がわかってきたような気がした。花婿はそれを弥生に送りつけたのではないか。  ヒゲ男が本條写真館に出来上がった写真を取りにきたのは、九月三日の午後四時ごろだったという。その翌日速達で発送したとすると、遅くとも六日の午前中に法眼家へ着いたはずである。自分ですらすぐそれがお冬さんなる女性が首を|縊《くく》った、あの洋間にちがいないと気がついたくらいだから、弥生もそれと察したにちがいない。彼女はあの記念写真撮影のあとで、どのようなことが演じられたかを覚ったのであろう。弥生がこの家へきてみたかどうかは疑問としても、至急バリケードを構築しておく必要をかんじたのもむりはない。  もうあたりはすっかり暮れなずんでいた。金田一耕助は万年筆ほどの大きさの懐中電灯を取り出して、委細構わずこの廃墟のなかへ踏みこんだ。このまえ来たときとちがって、今度の行進はかなり困難であった。あたりには膝も没する雑草が生い茂っていたし、雑草の底にはコンクリートのかけらや瓦がころがっていた。しかも、やっと|辿《たど》りついた玄関には、厚い荒削りの板が十文字に打ちつけてあり、おまけに鉄条網が張りめぐらせてあった。  このことはあらかじめ予想出来たことなので、金田一耕助はべつに驚きもしなかった。懐中電灯を振りかざしながら、建物の左のほうへまわっていくと、雨戸のうえにいたるところに板が打ちつけてあったが、たった一か所無理すれば潜りこめそうな隙間を見つけた。  金田一耕助は|袂《たもと》の|綻《ほころ》びも委細構わず、その隙間からなかへ潜り込んだ。それからまもなく大広間へ入ってゆくと、懐中電灯で四方の壁や天井を照射しながら、やっぱりここにちがいないと思わざるをえなかった。この部屋は正方形にできているのではなく、四分六のわりで縦の長方形になっており、短いほうの一辺に観音開きの大きなドアがついていて、それが正面入口になっている。そして奥まったところの左右の壁にむきあって、それぞれドアがついているのだが、いま金田一耕助が入ってきたのはむかって右側のドアである。  金田一耕助は懐中電灯の光りを天井にむけながら、この部屋の中心部にぶらさがっている、シャンデリヤの鎖の下までやってきた。  そうなのだ。問題はこの鎖なのだ。この鎖の環に|扱帯《し ご き》をかけてお冬はみずから縊れたのだ。そのおなじ鎖の環にお冬遺愛の風鈴をぶら下げて、あの呪わしい結婚記念写真の撮影が行なわれたのであろう。その鎖より少し奥まったところに金|屏風《びょうぶ》を立てると、ちょうど写真の角度になる。  このホールに関するかぎり金田一耕助は満足した。しかし、かれにはもうひとつ確かめておかねばならぬところがあった。ホールの正面から向かって左側にあるドアの奥なのだ。八月二十一日の晩ここへきたときは、そこまで確かめることを|怠《おこた》っていた。  金田一耕助がそのドアを開くと果たしてそこに|隘《せま》い廊下が走っており、廊下のむこうに日本座敷の|襖《ふすま》が半分開いていて畳が敷いてあるのがみえる。  金田一耕助は腹立たしそうに舌打ちした。八月二十一日の晩には、おそらくそこに畳はなかったであろう。二十八日の夜の奇妙な結婚式のためにその畳が用意されたのであろう。ほかの諸調度類は二十九日の朝引き取っていたが、畳のような重いものは、そのまま放置されたのであろう。  だが、花嫁を犯した夜具蒲団の類は……?  金田一耕助が踏みこんで、四方の壁や襖に懐中電灯の光りをむけると、そこは思ったより粗末な六畳で、部屋の一隅に半間の押し入れがあり、ドア式になった襖が半分開いていたが、押し入れの上の段も下の段も空っぽであった。  いや、いや、いや!  金田一耕助はとつぜん一歩あとじさりすると、体を少しまえかがみにして、押し入れの下段のおくに懐中電灯の光りをむけた。そこにだれかいるのである。押し入れの下段のすみにだれかが|蹲《うずくま》っている。薄汚れたよれよれの|浴衣《ゆ か た》を着て、|兵《へ》|児《こ》|帯《おび》を猫じゃらしに結んだ男が背中をまるくして、膝のあいだにはさんだステッキにしがみつくようにして蹲っているのである。 「だ、だれ……? そこにいるのは……?」  相手がおびえているらしいので、金田一耕助も急に気が強くなったのか、できるだけ|優《やさ》しい声を出した。それに相手は浴衣がけの着流しである。ステッキ以外には凶器など持っていようとは思えない。 「いいからこっちへ出て来たまえ。君のほうに害意がないなら、こっちも危害を加えようとは思わないよ……あれ!」  金田一耕助のその声に、おやというふうにこちらを振りかえったその男は、真正面から懐中電灯の照射を浴びて、|眩《まぶ》しそうに片手をあげて眼をシワシワさせていたが、それがだれであるかわかったとたん、金田一耕助はおもわず吹き出しそうになった。闇のなかでうれしそうにもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、そのことばは|慇《いん》|懃《ぎん》丁重をきわめていた。 「これはこれは成城の先生、あなたにはどうしてこの家がおわかりになったのですか。ここが病院坂の首縊りの家だということが……」    第五編 [#ここから4字下げ] ジャズ・コンボ「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」のこと  本條直吉ふたたび風鈴を撮影すること [#ここで字下げ終わり]      一  昭和二十八年には私はかぞえ年で五十二歳であったが、こんなに器量をさげたのはうまれてはじめてだと自分で自分に立腹して、|腋《わき》のしたに冷や汗のかきっとおしであった。  私はたしかにふるえていたのだ。押し入れのすみにちぢこまり、|籐《とう》のステッキにしがみついて眼をつむりふるえていたのだ。しかもそういうダラシない私の姿を、情け容赦もなく照射したのは、ひともあろうに金田一耕助の懐中電灯なのだ。その時分から私は|砧《きぬた》の隠居を気取っていたのだが、隠居には隠居としての虚栄心もあれば意地もある。こうもみごとにおのれの弱点を見すかされては、自分で自分に腹を立てるのもむりはなかったであろう。  だから、それから半時間ののち、西銀座のひさごという上方料理の二階の個室におさまったときも、私はむやみやたらにタバコを吹かし、腋のしたの汗を|拭《ぬぐ》うことしきりであった。四畳半の狭っ苦しい座敷である。その時分はまだクーラーがそれほどいきとどいておらず、扇風機が静かに廻転しているのだけれど、それはただ座敷にこもった空気をひっ掻きまわすだけにしか役立たない。  階段のほうに足音がして女中のお|妙《たえ》ちゃんがお茶とお|絞《しぼ》りと、黒塗りの板のうえに朱で書いた献立て表を持ってきた。 「お妙ちゃん、ぼくの連れはどうした」 「いまお帳場でお電話をかけてはります。せんせ、お料理はなににしやはります」 「ああ、いや、それなら連れが来てからにしようよ」  と、いっているところへ金田一耕助があがってきた。かれはいまにも吹き出したいのを|噛《か》み殺しているような顔色で、私のまえへきて|餉台《ちゃぶだい》のむこうへ坐ると、適当に料理を注文しておいて、 「先生、酒はなにになさいます。ビール? それとも日本酒?」 「じゃ、ビールにでも願いましょうか」 「しかし、先生はもうそうとう飲んでいらっしゃるんじゃないんですか」  と、金田一耕助は私の座蒲団のそばにおっぽり出してある水筒に眼をやりながら、白い歯を出してニコニコしている。その水筒に一杯つめると五合の酒が入るのだけれど、むろんいまは空っぽである。私がひどい乗物恐怖症で、タクシーに乗るのもハイヤーに乗るにも、一杯ひっかけなければダメであるということを、金田一耕助はよく知っている。 「うん、でも、あんたがあんまり|脅《おど》かすもんだから、酒の酔いもいっぺんに吹っとんじゃった」 「あっはっは、ではビールを二本、まとめて持ってきておいてください」 「ああ、そうそう、お妙ちゃん、すまないがこの水筒に日本酒を一杯つめておいてくれないか。冷やでいいんだ。一級酒でいいよ。特級を飲むとカミさんに叱られるから」 「先生、まだ召し上がるんですか」 「ううん、護身用さ。こう酒の酔いが|醒《さ》めっちまっちゃ、怖くて自動車にも乗れやあしない。そう飲みやあしないから安心してらっしゃい」 「ああ、そう、じゃこちらの先生のおっしゃるようにしてあげてください」  お妙ちゃんも私の病気をよくしっている。吹き出しそうな顔色で、空っぽの水筒を持ってひきさがると、金田一耕助はあらためて私の姿を見上げ見下ろしながら、 「先生は悪いひとですね」 「なにが……?」 「だって、奥さんがさんざんご心配だったじゃありませんか」 「あれ! あんたどうしてそれを……ああ、そうか。あんたさっきお帳場で電話をかけているといったが、うちへかけてたの」 「そのお|服装《み な り》じゃ無断外出だと思わざるをえないじゃありませんか。それに外出のときはいつもご夫婦連れだとうかがっていたのに、きょうはおひとりのようですからね」 「それで女房のやつなんていってた?」 「お腹がよじきれるほど心配したとおっしゃってましたよ。気がつくとお台所の水筒がなくなっている。日本酒がだいぶん減っている。紙入れもない。月々極まりの原稿は二、三日まえに渡したばっかりで、いまは雑誌記者から逃げ出す必要はない時期だのにと、ふしぎがってらっしゃいましたよ」  いったい金田一耕助はことしいくつになるのだろうか。私はこの男の正確な生年月日をまだしらない。私がこの男にはじめてあったのは昭和二十一年の秋のおわりごろのことである。当時私はまだ、疎開先の岡山県|吉《き》|備《び》郡岡田村字桜というところに住んでいたのだが、そこへひょっこり訊ねてきた金田一耕助のことは、「黒猫亭事件」のなかでそうとう詳しく書いてある。そのなかで私はこの男の年齢を三十五、六と踏んでいる。当時はまだ満でかぞえる習慣がなかった時代だから、むろんかぞえ年である。昭和二十一年では私はかぞえで四十五歳であったから、この男は私より十くらい年少ということになる。その後かれの口から断片的にきいた生い立ち経歴からしても、だいたいそういうところらしい。  そうすると昭和二十八年では四十二、三というところだが、およそいつ会っても変わらないのがこの男である。私は初対面のこの男の印象をつぎのように書いている。 「別にどこといって取り柄のない、どっちかというと、貧相な|風《ふう》|貌《ぼう》の青年であった。着物も羽織も、かなりくたびれているようであった」……と。  昭和二十八年当時私がはじめてこの男に会ったとしても、やはりおなじことを書いたであろう。四十二、三にもなるとそろそろ中年肥りの徴候がみえてもよい年頃だが、金田一耕助にかぎって、いっこうその|兆《きざ》しがない。小柄で貧相なところは旧態依然たるものであるが、東北の産だけあって色だけは白いほうである。ただしその白さも|冴《さ》えない白さで、いつも徹夜で|麻雀《マージャン》をやったあとの三文文士みたいな顔色をしている。と、いうことはいつまでたってもこの男が、青年という感じを失わないということである。その若さを象徴するものがかれの頭髪である。やたらに多くてくろぐろとして、一本一本縮れて|絡《から》みあい、|縺《もつ》れあって、雀の巣然として頭のうえにのっかっている。  この取りつくろわぬ風貌と、いつもくたびれたような|風《ふう》|采《さい》が、接する相手にくつろぎとやすらぎを与えるのである。「黒猫亭事件」のなかでも書いているが、私は初対面のときから十も年少のこの友に甘えていた。私はいつごろからこの男を、耕ちゃんと呼び出したのだろうか。はじめは金田一さんと呼んでいたのだが、それでは舌を噛みそうだし、よそよそしくもあるので、いつのほどよりか耕ちゃんと呼びならわすようになったのだが、それをあえてとがめようともせず、いつもニコニコしているところをみると、この男よほど寛容の精神にとんでいるらしい。  やがて餉台のうえに料理もならび、お妙ちゃんも引きさがっていくと、金田一耕助は私のコップにビールを注ぎ、置き酌で自分のコップも満たすと、 「さあ、先生、泥を吐いていただきましょうか。どうして先生にあの家がおわかりになったのですか」  と、開きなおった。そう開きなおられると私はテレざるをえない。ひと息にビールを飲み干すと、投げやりな調子で答えた。 「なあに、張君に聞いたんだよ」 「張君とおっしゃいますと、張潮江先生でいらっしゃいますね」 「そうそう、同時に詩人の張嘉門さ」 「張先生があのうちをご存じだったんですか」 「いや、それはそうではない。まあ、聞いてくださいよ、耕ちゃんこういうことなんだ」  金田一耕助が天竺浪人のことについて私のところへ聞きにきたその翌日、私は用事があって銀座へ出た。もちろん家内同伴であった。ところが夜の八時ごろ松屋のまえでバッタリ会ったのが張潮江君であった。なにしろ張君ときたひには、五十ヅラさげていまだに一日にいちどは、銀座の灯のもとを歩いてこなければ、寝つきが悪いという人物なのだから、バッタリ会ったといっても、必ずしも偶然とはいえないかもしれない。そこで張君のなじみのビヤー・ホールへ連れていってもらって、天竺浪人のことを切り出してみたのである。 「そしたらね、耕ちゃん、張君とこへも送ってきたそうだよ、この詩集を……」  と、私が女房手製の鼻紙袋のなかから、「病院坂の首縊りの家」を出してみせると、金田一耕助はさもありなんという顔色でうなずいている。 「張君この詩を|賞《ほ》めてたよ、ボードレールの亜流は亜流だが、なかなかひらめきがあるって。だけど張君自身は天竺浪人もしらなければ、病院坂ってのも見当がつかなかったんだ。かれは大田区の住人だからね」 「なるほど」 「だけど、これ、実在の家くさいとは思ってたそうだ。そこへもってきてぼくの意味ありげな質問でしょ。そこで二、三識り合いの詩人諸君に当たってみてくれたんだ。そしたら、あの家のすぐちかくに住んでいる詩人先生があの家をしってたんだね。なんでもその詩人先生、昭和二十二年か三年にあの家でご婦人の|縊《い》|死《し》|体《たい》が発見されたとき、大いにヤジウマ根性を発揮して、わざわざ見物に出かけたそうだ。ところがその詩人先生のところへもこの本が送られてきたんで、その人ははじめっからこれがじっさいにあった事件に基づいた詩だってことを知ってた……と、いうことを張君がこの詩集といっしょに手紙で報らせてくれたんだ。この詩、読んでみるとそうとう薄気味悪いね」 「それで先生が奥さんにも無断で、探検に出向いて来られたというわけですか」 「そういうこと。だけどオレつまんないの」 「なにが……ですか」 「だって、耕ちゃんもあの家しってたんだね」 「ああ、そ、そ、そうだったんですか」  金田一耕助はうれしそうにもじゃもじゃ頭を掻きまわしながら、白い歯を出して笑っている。こういうときのこの男にはひどく魅力があるのだが、私はわざとふてくされて、 「なにが、そ、そ、そうだったんですかだい」 「先生はいちおうあの家をたしかめておいて、しかりしこうしてのちに、わたしに注意してくださるおつもりだったんですね」 「そうだよ、だってあんたにはいつもお世話になりっぱなしだろ、たまにはお役に立ちたいと思ったのさ。それだのに懐中電灯で|脅《おど》かされたあげく、女房に無断外出だなんて叱られちゃわりにあわないやね」 「それで、先生はなにか発見なすったんですか、あの家で……?」  金田一耕助はさりげなくいったのちに、急に大きく眼をみはり、その反対ににわかに声を小さく落として、 「先生、なにか発見なすったのならわたしに教えてください。いったい先生はなにをあの家で……」  そう詰めよられると私は急に、はにかみを覚えずにはいられなかった。柄にもなく探偵みたいなまねをやったということに対してである。 「いやね、耕ちゃん、あんたがいま関係している一件に、由香利……というから女性の名まえだろうが、そういう女性が一枚噛んでるウ?」 「先生はどうしてそれを……?」 「いや、それを話すまえにもうひとつ質問させてください。由香利という女性がさいきん危地におちいった……たとえば助けを呼ばなきゃならないような……」 「先生、たしかにいまあなたがおっしゃったような状態にあるんですが……残念ながらこの段階では、それ以上申し上げるわけにはいかないんですけれどね」 「いいよ、わかったよ。だけどこれいくらか耕ちゃんの捜査に役立つんじゃないかしら」  私が鼻紙袋のなかから取り出して、餉台越しに手渡したのは一枚の短冊であった。  金田一耕助はたしかにハッとしたようである。ちらっと私のほうにむけた眼を、あらためて短冊に落とすと、 「先生、あなたこの短冊をどこで……いやにあちこち破れているじゃありませんか」 「それゃそうだよ、耕ちゃん、|鼠《ねずみ》の穴からひきずり出したんだもの。じゃその短冊を発見した|顛《てん》|末《まつ》からお話しておこう。わたしがあの家へ潜り込んだのは、耕ちゃんよりはだいぶん早かったから、家の中はまだ明るかったんだが、あの広間なんでしょう、女性の首吊り死体が発見されたってえのは……」  金田一耕助はうなずきながら短冊の裏面に眼をやって、大きく眉を吊りあげた。しかし、私は委細かまわず、 「ぼくもそうじゃないかと思ったんだ。首を吊るにはお|誂《あつら》えむきの|頑丈《がんじょう》な鎖が天井からぶらさがっていたからね。そこへ鼠がチョロチョロ出てきた。ぼくはまさかキャッと叫んで跳びあがるほどじゃないが、鼠ってあんまり好きじゃない。そこでシッ、シッと鼠を追いながらあちこち逃げまわっているうちに、ネズ公のほうでも驚いたらしく、さんざんそこらを駆けずりまわった|揚《あげ》|句《く》、穴のなかへ逃げこんだんだ」 「その穴、どのへんにあるんですか」 「あの部屋、観音開きの大きなドアがあるでしょう。あそこが正面入口だと思うんだが、その反対側の壁のむかって右の隅に、ほんの小さく開いている。ぼくがいったとき、いかにまだ明るかったとはいえ、ネズ公が教えてくれなければおそらく気がつかなかったろうね」 「それをあなた|覗《のぞ》き込まれたのですか、鼠の穴を……」 「まさか、……ぼくだってそれほどの好奇心はない。ただ鼠がとび込んだ拍子にガサッと音がして、その短冊のはしが跳び出してきたので、あれッと思ってステッキでほじくり出してみたんだ。それ八つに折れてるでしょ。だからそれ、ネズ公がくわえ込んだんじゃなく、だれかが……たとえば由香利という女性が突っ込んだんじゃないかと思うんだが……いやあ、こういう推理は耕ちゃんの領分で、ぼくなんか|嘴《くちばし》を|容《い》れる柄じゃないかもしれないけれど……」 「先生、これ短歌のようですね」 「ところどころ破けているけれど、読もうと思えば読めぬことはないな。池の端池を渡りて吹く風に、鳴る風鈴の音ぞ哀しく……琢也、とあるところをみると法眼琢也さんの歌らしいが、そういえばあのひとの歌集に『風鈴集』というのがあったね」  金田一耕助はまじまじと私の顔を見ていたが、裏を返してもういちど喰い入るようにそこを見ている。そこにはつぎのような走り書きが朱色の線でおどっているのだ。   助けて 由香利 「耕ちゃん、それ棒紅で書いたんじゃないのかね。少し変色しかけてるけどさ」 「先生、これ、どう考えたらよろしいんでしょうね。なるほど八つに折りたたまれて、鼠の巣のなかに突っ込まれていただけあって、そうとう汚れたり、端っこをかじられたりしていますが、そうかといって、これ、最近までまだ真新しい短冊だったと思われる。それがどうしてああいう空家の、しかも、鼠の巣のなかなんかにあったんでしょうね」 「いやね、耕ちゃん、ぼくが思うのにここに由香利なる女性がある。年齢はどのくらいかわからんが、小説のイメージとしちゃ若いほうがいい。若くて美人だということにしておこう。その由香利なる女性がどういう理由があったのかわからんがあの空家へ監禁された。身辺にはげんじゅうな監視の眼が光っている。しかし、由香利女史はなんとかして自分がここにいることを、外部のものに報らせたい。通信したい。しかし、書くものがない。いや、筆としては棒紅がある。いかに監禁中とはいえ、若い女性ならコンパクトや棒紅くらい所持することは許されたろうじゃないか」 「いや、ごもっともです。それから……」 「だからさ、筆そのものはなんとか棒紅でまにあうが、さて棒紅を走らせるべき用紙がない。と、思っているとき眼についたのがその短冊、いや、短冊が眼についたので、棒紅が筆の代用をなすということを思いついたのかもしれん」 「しかし、先生、ああいう空家にどうしてこの短冊があったんでしょう。さっきも申し上げたようにこの短冊、鼠の穴へ押し込まれるまではまだ真新しかったように思われるんですが……」 「それだよ、金田一さん、いやさ、耕ちゃん、わたしがこの貧弱な灰色の脳細胞を駆使して、大いに推理の精華を発揮したのは……その歌のなかに風鈴ということばがあるだろ、それが推理のヒントになったね。ここは法眼琢也先生の旧邸である。琢也先生には『風鈴集』という歌集がある。と、いうことは、琢也先生はよっぽど風鈴というものに、愛着を持っていられたにちがいない。しかも、その短冊、うえのほうのまんなかが縦に裂けてるだろう。だから、これ、風鈴にぶらさがっていた短冊じゃないか。それを由香利なる女性が、むりやりに引きちぎったのではないか……」 「なるほど、なるほど」  と、金田一耕助、内心はうかがいしるべくもないが、表面は感心したように真顔になってうなずきながら、 「しかし、それにしても、先生、ああいう空家にどうして風鈴があったのでしょうね。いかに法眼琢也先生が、風鈴にふかい愛着を持っていられたにしてもね」 「それだよ、耕ちゃん、ぼくの推理にはふたつの弱点がある。ひとつはいまあんたの指摘した事項だが、もうひとつは風鈴というものはしばしば雨ざらしになる場合がある。したがってそこにぶらさがっている短冊は、薄い金属片みたいなもので、そこに書いてある文字も、墨だと雨に流れてしまうから、印刷してあるのがふつうだろう。それにもかかわらず、ぼくが風鈴説を捨てきれないのは、その短冊、|錐《きり》で穴をあけたような跡があり、そこから縦に裂けている。だからなにかにぶらさげてあったのを、むりやりに引きちぎったとしか思えないのだが、七夕にしちゃ季節はずれだしね」  金田一耕助はなにかに驚いたようにまじまじと私の顔を凝視している。その真剣な表情を見ていると、私の愚かしい幻想的推理が当たっているのではないかと、私は改めてドキリとした。 「金田一さん」  私はおもわず声をひそめて、 「それじゃ、ぼくの推理が当たっているの。あの空家のなかに風鈴があったのかい。ぼくはあの鼠の穴のある壁の裏っかわはどうなっているのか、それともうひとつ、どっかに風鈴がぶらさがっちゃいないかと、家の中をマゴマゴしているところを耕ちゃんにとっつかまって、醜態をさらけ出しちまったのだが……」 「ああ、いや、いや!」  金田一耕助は夢からさめたような顔をして、 「風鈴のことはいまここで申し上げるべき段階ではないんですが、すると由香利という女性が、風鈴にぶらさがっている短冊をひきちぎって、裏面に棒紅でこういうことをしたためた。それからどうするつもりだったんでしょう」 「むろん塀の外へ投げ出して、自分がここに監禁されているということを、ひとにしらせようとしたんじゃないか。ところがそこへ邪魔が入った……」 「邪魔とおっしゃいますと……?」 「監視のだれかがやってきたんだね。由香利ちゃんは監視者にその短冊を見られたくなかった。そこで短冊を八つ折りにして、鼠の穴へ突っ込んだ。その後由香利なる女性がどうなったか、わたしには知るよしもないが、短冊だけはあとに残ってわたしに発見された……と、いうのがぼくの推理なんだが、耕ちゃん、あんたこれをどう思う」 「いや、まあ、当たらずといえども遠からずというところでしょうか」 「それにしても、耕ちゃん、あんたこのオレにお礼をいってくれないのか」 「いや、それはもちろん、この短冊を発見してくだすったということについては、心中大いに感謝しているんですが……」 「そのことじゃないよ、耕ちゃん、白ばっくれないでほしいな。その短冊うっすら指紋がついているだろう。それに|紅《べに》|色《いろ》に染まっているところをみると、その棒紅を使った女性、即ち由香利なる女性の指紋にちがいないね。そのこと、耕ちゃんにとって重大なことじゃないの」  金田一耕助は白い歯を出してニッコリ笑うと、 「あっはっは、いや、先生のこのご発見にケチをつけるつもりは毛頭ございませんが、由香利なる女性の指紋を|採《と》ろうと思えばいつでもとれるんです。だから、これはそれほど重要なこととは思えないんですが、まあ、いちおうお礼を申し上げて、この短冊は当分わたしにお預けねがえませんか」 「ああ、いいよ、それは耕ちゃんに進呈するよ」 「ところで、先生、ここで先生にひとつお詫び申し上げなければならないことがあるんですが」 「どういうこと?」 「さっき先生にきょうの無謀な冒険についてご意見申し上げましたが、わたしとしてはあそこで先生にお眼にかかれたということは、非常にありがたいことだったんです。と、いうのは、いちおうあの空家を見ておいて、そのあとで成城のお宅へお伺いするつもりでいたんです。ところが、いっぽうわたしは今夜この銀座|界《かい》|隈《わい》で、八時にひとに会う約束があるんです。だから、成城へ往復する時間が|捻出《ねんしゅつ》できるかどうか、それを心配していたんです」 「はっはっは、そうなの。それじゃオレの冒険もまんざら無意味じゃなかったわけか。で、ご用というのは……?」 「当分、これをお預かり願いたいんですが……」  餉台のしたから押しやられた風呂敷包みを見て、 「なに? これ?」 「風呂敷を解いてごらんください」  風呂敷の結び目を解いてみて私はおもわず眼をみはった。|嵩《かさ》|張《ば》った大きな茶色の封筒の表には、墨くろぐろと金田一耕助の筆跡で、 「法眼一家に関する調査覚書」 「ああ、そうだったの。わかりました。ときに耕ちゃん、この封筒、封がしてないが、わたしが中身をあらためてもいいのかい」 「かまいませんというよりは、いちおう読んでおいてください。そうすれば由香利という女性が法眼家で、どういう地位をしめているかおわかりになるでしょう」 「なるほど、こいつはなんだか面白そうな事件だね」  ちょうどそこへお妙ちゃんが、女房を案内して上がってきたので、私のその夜の冒険は残念ながらそれで幕にならざるをえなかった。      二  ジャズ・コンボ「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」のメンバー  ピアノ [#地から2字上げ]フロリダの風ちゃんこと |秋《あき》|山《やま》|風《ふう》|太《た》|郎《ろう》  ドラムス [#地から2字上げ]テキサスの哲ちゃんこと |佐《さ》|川《がわ》|哲《てつ》|也《や》  トランペット [#地から2字上げ]サムソン野郎のビンちゃんこと 山内敏男  テナー・サックス [#地から2字上げ]マイアミのまあちゃんこと |原《はら》|田《だ》|雅《まさ》|実《み》  ギター [#地から2字上げ]|屁《へ》っぴり腰の平ちゃんこと |吉《よし》|沢《ざわ》|平《へい》|吉《きち》  ソロ・シンガー [#地から2字上げ]コユちゃんこと 山内小雪  金田一耕助のテーブルのうえにはいま五人のジャズ・マンとひとりの女性シンガーのニック・ネームと名前をかいたメモがおいてある。ナイト・クラブ、K・K・Kの備えつけのメモ用紙で、ボール・ペンの走り書きはシュウちゃんこと多門修の筆跡である。  これを要するにそれはジャズのフル・バンドではなくて、五人編成の|五重奏団《クインテット》、ジャズ・コンボである。  私が金田一耕助から断片的に聞いているところによると、かれがアメリカへ渡ったのは世界的大不況の最中であり、禁酒法がまだ施行されていた時代だというから、一九二九年から三〇年代の初期ということになるだろう。  アメリカの禁酒法は三三年の暮れに廃止されているが、それまで約十四年間つづき、その間酒の密醸密売からギャングの|擡《たい》|頭《とう》を招くいっぽう、アルコールを取りあげられたアメリカ人の多くが麻薬に走った。いわばアメリカの退廃時代であったが、当時まだ年若く、心情幼かりし自分は、つい時代の風潮に染まって麻薬の味をおぼえたのであると、金田一耕助はいつか私に語ってくれたことがある。  だが、そうするとそれはジャズの|勃《ぼっ》|興《こう》期と、時代をおなじゅうするのではないか。  私はここにジャズの歴史を語るつもりはないし、またそれだけの知識も素養もないものだが、一九〇〇年代にルイジアナ州のニューオーリンズで、黒人たちによって創造されたこの軽快な大衆音楽は、一九二〇年代に入ると広くアメリカ全土を|風《ふう》|靡《び》していたようである。ことに一九三〇年代に入るとラジオの普及によっていっそう、その軽快なリズムや強烈なビートは拡散をはやめられ、ついに全欧諸国や日本まで|席《せっ》|捲《けん》したのであると、私はなにかで読んだことがある。  その三〇年代の初期にアメリカで放浪生活を送り、あちらのナイト・クラブ、こちらのキャバレーで皿洗いやなんかやっていたという金田一耕助は、ジャズの歴史にのこる名プレーヤーの名演奏を聴いているにちがいないが、それにもかかわらず、いや、それだけにいま舞台で演奏されている「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」を聴いていると、つい微笑に|口《くち》|許《もと》をほころばせずにはいられなかった。  昭和二十八年九月七日の夜、金田一耕助は、ひさごの二階の個室で私たち夫婦といっしょに食事をとると、そこにわれわれ夫婦をのこしておいて、八時ジャスト、和光のまえでシュウちゃんこと多門修と落ちあった。  金田一耕助よりさきにそこへきていた多門修は、相手のすがたを見ると、黙って新橋の方向へむかって歩き出した。耕助も五、六歩おくれてそのあとについていく。八時といえば銀座はいまや人出のピークである。しかし、どのような雑踏のなかにいても、金田一耕助は相手のすがたを見失うようなことはなかった。五尺八寸はあるだろうと思われる多門修は、雑踏のなかにいても首半分はぬきんでている。  長身で、スマートで、いかにも運動神経の発達していそうな男である。まだ一般的には長髪のはやっていなかったこの時代のことだから、多門修はいつも髪をキチンと左分けにしていて、自分のクラブにいるときは、純白のワイシャツに黒い蝶ネクタイをしめている。金田一耕助がさっき本條直吉に会ったとき、バーかキャバレーのバーテンではないかと思ったのも、風采からして多門修を連想したからである。  しかし、きょうの多門修のイメージはだいぶんちがっている。髪をくしゃくしゃにして額に垂らし、着ているものは派手なアロハである。それに大きなサン・グラスをかけているところはちょっとしたグレン隊である。それがぴったり板についているのは、ついこのあいだまでこれがこの男本来のすがただったからである。  資生堂の角を右へはいるとまもなくつぎの通りを左へはいった。狭いその通りの両側はバーや食べ物店がギッチリ並んでいて、色さまざまなネオンの看板が、道行くひとを五色に染めわけんばかりである。多門修はその左側に「パリス」と看板のあがっている店のドアを、肩で押しあけてはいっていった。  なかは|菫《すみれ》色の半照明になっており、左側のカウンターのまえの止まり木には、もう四、五人の客がとまっていて、カウンターのなかにいる二、三人の女とダベリながら酒をのんでいる。右側にはむかいあって四人坐れるボックスが、五つ六つ奥へつづいているが、どれもほとんど満席なのは、よほどよくはやる店とみえる。  多門修がはいっていくと、とっつきのレジのなかにいたここのマダムとおぼしき女がいちはやく眼をとめて、 「あら、シュウちゃん、あんたなによ、その服装は。あんたまさかまたもとの……」  と、いいかけてハタと口をつぐんだのは、ひと足おくれにはいってきた、金田一耕助のすがたに気がついたからである。  ああ、そうだったのと|頷《うなず》きながら、 「いらっしゃいまし。シュウちゃん、いちばん奥のボックスが空いてるわよ」  と、みずからはカウンターを抜け出してきて、 「さあ、さあ、どうぞこちらへ」  なるほどいちばん奥のボックスと、ひとつ手前のボックスが空いていたから、密談するには打ってつけの場所である。マダムは手早くテーブルを拭きながら、 「シュウちゃん、あんたからいつもお|噂《うわさ》をうかがっているのはこのかたなんでしょ。先生、この子がいろいろお世話になりまして」 「いやだなあ、この子だなんて。オレもう子どもじゃねえぜ。だいいちマダムといくらもちがわないじゃないか」 「だってまだ子どもじゃないか。ついこないだまでチンピラだったくせに、ナマいうもんじゃないよ。このごろやっと大人っぽくなったのは、みんなこちらの先生のおかげでしょ。先生、いろいろご面倒をおかけしてるようですけれど、突っ放さないで、かわいがってやってくださいね」 「いや、面倒をかけているのはこちらなんだがね。いろいろ助けてもらっています」 「それごらんなさい、シュウちゃん、こちらいいことおっしゃるわ。あんたこういうかたに見放されちゃ駄目よ。ときにお飲みものはなににいたしましょう」 「いや、ところがマダム、われわれもう一軒いかなきゃならないところがあるんだ。ここではちょっと作戦会議をしようと思ってよったんだが……」 「いいよ、いいよ、マダム、ぼくにハイボールをください。シュウちゃんもそれにしておきなさい」  マダムはさすがに|弁《わき》まえていて、注文の品を持ってくると、 「それではごゆっくり」  金田一耕助はニヤニヤしながら、 「シュウちゃんは東京のいたるところに、ああいう心優しきシンパを持っているんじゃないの」 「いやだなあ、先生ったら。だいいちあの|阿《あ》|魔《ま》生意気ですよ。いやに|姐《ねえ》さんぶりやがって。あれでぼくと二つか三つしかちがわないんですからね」 「だからさ、姉さん女房的心情をもったシンパかパトロンかしらないが、そういうのをいたるところに配置してあるんじゃないの」 「いやだなあ、あんまりからかうとぼく|憤《おこ》りますよ。それより、先生、ショウバイ、ショウバイ」  と、多門修がアロハのポケットから取り出したのが、この章の冒頭にかかげた「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」のメンバー表である。  金田一耕助はその表に眼をとおしながら、 「シュウちゃん、このサムソン野郎のビンちゃんこと山内敏男というのが、問題のひと、天竺浪人にちがいないんだね」 「ええ、それゃもうまったくまちがいなし。あの詩集の出版元、松山書店を振り出しに追跡調査していった経過を、いちおうここでご報告しておきましょう」  多門修の話を聞いて気がついたことは、ビンちゃんなる男がたびたび住居を変えていることと、もとの住居を引き払い、新しい住居に移るとき、それをもとの住居の家主やなんかにいっておかない場合が多いらしいということである。多門修はむしろ相手がジャズ・マンらしいと気がついて、そこから逆に|手《た》|繰《ぐ》っていっているのである。これでは弥生の捜査の糸がいつもぷっつり途中で切れているのもむりはない。 「そこで、いまの住居は……?」 「ここに五人のメンバーとソロ・シンガーの住所をひかえてきましたがね、そのコユちゃんこと小雪というのは、敏男の妹だか|情《い》|人《ろ》だかわからんという正体不明の女なんですが、このふたりは一緒に住んでます」  金田一耕助はメモ用紙にかかれた住所録に眼をとおしながら、 「|五《ご》|反《たん》|田《だ》だね、これどういうところ」 「ギャレージの跡なんですね、タクシー会社かなんかの。それが倒産したもんだから、その跡を格安に借りうけて、ふたりはその二階に住んでるんです。なにしろ連中トラックを持ってますからね」 「トラックを……? どうして……?」 「さっきアマに毛の生えたような連中と申し上げましたが、なかなかどうして、もうそうとう売れてるんだそうです。よく米軍のキャンプをまわって歩くんですが、そんな場合メンバーや楽器をトラックに乗せて、小雪という娘が運転するんだそうです。ほかの連中もだいたい免許証を持ってますが、野郎はどうしても飲みますからね」 「ところでさっき、君、妙なことをいったね。敏男という男と小雪という娘、きょうだいだか愛人関係だかわからんとかなんとか。それどういう意味?」 「いや、それがね、メンバーの連中、はじめはそのふたりをきょうだいだとばかり思いこんでいたんです。ところが最近になってふたりが結婚しちまって、それ以来夫婦気取りでギャレージの二階に住んでるんです。それで目下メンバーのあいだでだいぶん物議を|醸《かも》してるそうですがね」 「じゃ、君はふたりの素性をしらないんだね」 「どうもすイません。なにしろ戦争というもんがあったもんですから……お|定《さだ》まりの戦災孤児らしいんですが、ふたりとも戦前のことはひた隠しに隠しているらしいんですね。ただこういうことはわかってます。戦後ジャズが解禁になって大流行の|兆《きざ》しをみせてきた。あちこちにフル・バンドや、ジャズ・コンボが雨後の|筍《たけのこ》のごとく発生してきたでしょう。昭和二十二、三年ごろ、そういうコンボのなかにハングリー・スケルトンズ、即ち飢えたる骸骨たちという妙な名前のやつがあったんです。ぼくもこのハングリー・スケルトンズならいちど見参したことがありますが、そこへ見習いとして転げこんできたのが、兄貴のビンちゃんなんですね」  多門修はそこでハイボールでちょっぴり|咽《の》|喉《ど》をうるおすと、 「当時ビンちゃん|二十《は た ち》か二十一、二。お会いになればわかりますが、これがすごくいい体をしていて力も強い。楽器運びなどにも便利ですし、当人も骨身を惜しまず働くうえに、なにをいわれてもニコニコしている。それでついビンちゃんとかビン公とか呼んで可愛がっているうちに、ビンちゃんあるとき妹の小雪というのをつれてきた。小雪は当時十五、六だったそうですが、これが|滅《めっ》|法《ぽう》かわいいうえに、唄わせてみると子どものくせにハスキーでちょっと変わった声をしている。そこで仕込んでみるとリズム感もいいし、それに凄く頭のいい子で、聞いてみると小学校もまんぞくに出ていないのに、楽譜のよみかたなどすぐ憶えちまった。そこでソロ・シンガーとして唄わせてみると、なかなか評判がよろしい。そこでコユちゃんとかコイちゃんとか呼んでメンバーのアイドルみたいになってしまったが、とってもビンちゃんを慕っていて、ビンちゃんのいうことなら、なんでもハイハイと素直にきいていたそうです」 「なるほど、そうしてふたりの戦災孤児が、ジャズのおかげで|生計《た つ き》のみちには困らなくなったというわけだね」 「そうです、そうです、そういうこってす。それまでビンちゃん港の荷揚げ人足みたいなことまで、やってたらしいってこってすからね。そのうちに『|飢えたる《ハングリー・》|骸骨たち《スケルトンズ》』が解散になったもんだから、いろんなバンドやコンボを渡りあるいているうちに、ビンちゃん、これまたなかなか才能のある男だとみえ、たいていの楽器をこなすようになったが、そのうちにもトランペットがいちばん性に合ったというわけなんでしょう」 「『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』が結成されたのはいつごろのこと?」 「ちょうど一年になるそうです。ビンちゃんてえのが口数は少ないが太っ腹で包容力もあり、リーダーシップを持ってる男らしいんですね。そいつが呼びかけていまのメンバーを|掻《か》き集めて、評判も悪かあねえんですが、ちかく解散すんじゃねえかという噂がもっぱらですね。あの連中離合集散常ならずですからね」 「そうそう、君はさっききょうだいとばかり思ってたふたりが夫婦になったんで、メンバーのなかで物議を醸してるといってたようだが……」 「それなんですよ。みんなコイちゃんに気があったんですね。なかでいちばんご執心だったのがドラムを叩いてるテキサスの哲ちゃんこと佐川哲也。こいつがコイちゃんをつかまえて、すでにこうよというところへビンちゃんがとびこんできて、大喧嘩のあげく哲ちゃんとうとう左眼を叩きつぶされちまった。それまでは仏のビンちゃんと呼ばれてたほど穏やかなビンちゃんが、そんな怪力の持ち主だとはだれも気がつかなかったんですね。それ以来、仏のビンちゃん変じてサムソン野郎のビンちゃん。サムソンの意味はご存じでしょう」 「去年かおととし、アメリカ映画の『サムソンとデリラ』というのが日本にも来たね」 「あれ旧約聖書にある物語なんだそうですね。あれでビクター・マチュアのサムソンがすごい怪力ぶりをみせたでしょ。それで仏のビンちゃん変じてサムソン野郎のビンちゃんです」  するとさしずめサムソンを誘惑し、サムソンを|欺《あざむ》いて、かれから怪力をうばったデリラはいったいだれだろうと、金田一耕助はひそかに心の中が寒くなっている。 「なるほど、それで仲間にひび割れが生じたんだね」 「だいたいドラムの哲というのがドラマーとしては傑出していて、以前からビンちゃんと主導権争いを演じていたそうですが、ビンちゃんがハッキリコイちゃんを、自分の|情婦《お ん な》にしちまったところから、|確《かく》|執《しつ》が表面化してきたんですね。だけどこいつも根はいいやつだという噂ですが恋の恨みは恐ろしい。年齢はビンちゃんとおないどしだそうです。他の連中もだいたい似たり寄ったりの年恰好で、ほかにひとり若い見習いがいるそうですがね」 「前身はなんなんだね。この連中……?」 「そうそう、佐川哲也というのは自動車の修理工をやってたそうです。ピアノの秋山風太郎ってのは、山藤って歌舞伎の小道具をあつかう有名な店があるでしょ。あそこの次男か三男でこれは穏やかな性格でいまのところビンちゃん派」  なるほど、歌舞伎の小道具を扱う店の坊っちゃんなら、金屏風や|衝《つい》|立《たて》障子のほかに、花嫁の衣裳かつら、男の紋付|袴《はかま》なども工面がついたろう。それにかれらはトラックを持っているのだ。 「それからテナー・サックスのマイアミのまあちゃんこと、原田雅実ってのはもと電力会社の配線工をやってたそうです」  なるほど役者が|揃《そろ》っていたのだ。 「こいつもいまんところビンちゃん派とみられていますが、怪しいのはギターの屁っぴり腰の平ちゃんこと吉沢平吉って野郎で、こいつはもと銀行員だったそうですが、いわゆる利につくというやつで、だいたい佐川哲也派とみられています。それから、そうそう、もうひとり見習いに|加《か》|藤《とう》|謙《けん》|三《ぞう》、ケンタッキーの謙坊というのがいるんです。こいつも五反田のギャレージにいたんですが、ビンちゃんとコイちゃんが夫婦になってから、ある夜こっそりふたりが|喃々喋々《なんなんちょうちょう》の最中を、|覗《のぞ》きをきめこんでいるところを、ビンちゃんに感づかれ、例の怪力ではったおされたばかりか、|塒《ねぐら》を追われてテキサスの哲のところへ転げ込んでるって話ですから、こいつも謀反組のひとりとみていいでしょうね」 「ところでシュウちゃん、この連中、しょっちゅう集まって練習をやるんだろ。ジャズの練習をやられたら、近所合壁さぞご迷惑だろうと思うんだが、それ、どうしてるの」 「ああ、それ、五反田のギャレージというのが、もとは自動車が四、五台も入るという大きなやつで、その入口に事務所があって電話で客の注文をさばいていたんですが、その事務所のあとにケンタッキーの謙坊が寝泊まりをしてたんですね。だからそこ、トラック一台おいてても五、六人のコンボなら、十分練習できる余地があるわけです。そこに防音装置がほどこしてあるんだそうで、ビンちゃんて男、|茫《ぼう》|洋《よう》たる性格のなかにそういう細心さも持ってるんですね」  これでだいたいわかったようである。由香利が連れ込まれたのはそのギャレージであろう。弥生はいっていたではないか。天竺浪人の電話のあとで由香利と話をしたが、なんの雑音も入らなかったと。      三  そこは新橋にちかい焼けビルの地下にあるキャバレーである。このビルもちかく取りこわされて、新しく八階建てかの高層建築になるそうだが、いまは戦前の四階建てのままで、ビルの表面にはいちめんに|焼夷弾《しょういだん》をうけて焼けただれた跡が、いまも醜く残っている。しかし、爆弾でぶっこわされなかったのが|儲《もう》けもので、戦後しばらくこういう焼けビルが重宝がられたものである。  多門修にきくと、いちじこの地下室のキャバレーはヤミ屋の溜まり場になっていて、警察の手がはいったことも一度や二度ではないという。いまはそれほどではないにしても、あんまり客種のよろしくない店だから、警戒したほうがよろしかろうということだった。  正面入口の両脇に地下室へおりる階段があり、その両階段は階下で合流していて、そこに大きな観音開きのガラス戸がある。ドアのうえには金色の横文字で、キャバレー・サンチャゴと書いてあり、ドアのまえには真っ赤な詰め|襟《えり》に真っ赤な縁なし帽子をかぶった男が立っていた。服装はホテルのボーイ然としているが、顔を見ると三十くらいの年齢で、そうとう|獰《どう》|猛《もう》な面構えをしている。うさん臭そうに金田一耕助の風体をみていたが、多門修がなにか耳打ちして、チケットみたいなものを出してみせると無言のままドアをむこうへ押し開いた。  ドアを入ると一間くらいのところに、内側に真っ赤なカーテンを垂らした一枚板のガラスのドアがあり、多門修がそれを押すと急にジャズの喧噪と場内のどよめきが、|潮《しお》|騒《さい》のように鼓膜にとびこんできた。  ドアのなかは壁に沿ってコの字型の|雛《ひな》|壇《だん》になっており、そこから一段さがったところにフロアがみえるが、いまはジャズの演奏中なので、フロアにはひとの姿は見えなかった。雛壇の幅は二間くらい、交互に円いテーブルがおいてあるが、大小さまざまなのは、大勢さん向きと、アベックさん向きとに用意されているのであろう。金田一耕助は多門修に眼くばせすると、入口に近い小テーブルに腰をおろした。そこだとステージが真正面に見えるからである。  ステージは雛壇とフロアの中間ぐらいの高さのところにあり、いまアングリー・パイレーツのメンバーが、強烈なリズムとビートで場内をゆるがせていた。多門修の話によるとこのコンボの持ち時間は九時から九時半までだそうだが、時計を見ると九時五分、いま演奏がはじまったばかりなのだろう。  ふたりがテーブルにつくとすぐ女の子がやってきた。 「シュウちゃん、万事君にまかせるよ」  多門修は引き受けて女の子とやりとりしていたが、その物慣れた調子は昔とった|杵《きね》|柄《づか》ともいうべきか。  金田一耕助はステージに眼をやるまえに、雛壇のほうをひとわたり見まわしたが、テーブルの八分どおりは客で埋まっていて、どのテーブルもそうとう喧噪をきわめている。女給とはべつにダンサーがいるらしく、きらびやかな洋装をしたのや派手な和服に脂粉をこらした女が、あちこちのテーブルの客のあいだに割り込んで、ステージはそっちのけで|傍若無人《ぼうじゃくぶじん》にさんざめいている。クーラーがもうひとつ十分でないのか、場内はむんむんとするようなひといきれとアルコールの匂いのなかに、半照明の雛壇のなかをタバコの煙が充満している。  金田一耕助はさておもむろにステージのほうへ眼をうつした。  サムソン野郎のビンちゃんは、本條直吉の写真で見ているのですぐわかるのだが、あいかわらず神武天皇みたいなもじゃもじゃの長髪を、獅子のたてがみのようにうしろへなびかせ、顔中ヒゲのなかに埋まっているところはあの写真と同様である。ただ今夜の服装が写真とちがっているのは当然として、いまステージにいるビンちゃんは、上半身はもののみごとに裸である。|臍《へそ》の部分まで露出している。  なるほど、ビクター・マチュアに比較されるだけあって|眩《まぶ》しいくらいよい体をしている。|衝《つい》|立《たて》のように広い肩幅、厚い胸板、トランペットをたかくかかげているその腕は、ふつうの人間の|太《ふと》|股《もも》くらいはあるだろう。しかも、臍から咽喉のあたりまで胸いちめんをピッチリ覆うているのは|羆《ひぐま》のような密毛である。  下半身にはさすがにジーパンみたいなものをはいているが、そのジーパンは真っ赤な色をしているのみならず、肉に喰いいらんばかりのタイツ式になっているので、股間の巨大なふくらみは、金田一耕助のような男でさえ眼のやり場に困るくらいである。頭にはイギリスの海軍提督のかぶるような帽子をのっけているが、その正面にはお定まりの大腿骨のぶっちがいに|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》の紋章、すなわち海賊のシンボル・マークである。 「シュウちゃん、あのビンちゃんてえ男はいつもああいう|服《な》|装《り》で演奏するのかい」 「あれがあいつの売りものなんだそうです。また世の中にゃ、ああいう体や胸毛に、シビれる女がたくさんいるらしいんですね」  ジャズのはげしいリズムと動きに、ビンちゃんの羆のような胸毛はいまやぐっしょり汗にぬれていて、ビクター・マチュアよりはるかに肉感的である。半照明に馴れてきた眼で、金田一耕助がもういちど雛壇を見まわすと、意外に女性の客が多かった。年増もいるが若いのもいる。みんなビンちゃんの濡れた胸毛にシビれているのであろう。 「じゃビンちゃんそうとうご乱行ってわけか」 「あの連中にとっては、ひもじければおマンマを食うのとおんなじで、かつえれゃ女を抱く、相手はだれだって構わねえとはいいませんがね。まあ、男女七歳にして席をおなじゅうせず時代とは、世の中コロッと変わってますからね」 「ジャズやなんかの連中には麻薬をたしなむのが多いときくが、あの連中はどうだろう」 「それくらいのことヘッチャラじゃないですか。みんなアウト・ローですからね。だけどビンちゃんてえ男、あんまり|阿《あ》|漕《こぎ》なことはやらねえんで、ジャズ仲間じゃなかなか人望があるそうです。だけど、金田一先生の調査してらっしゃるのは、麻薬関係のこってすか」 「いや、そうじゃないけど、いまちょっと思いついたんでね」 「いまビンちゃんのかぶってる帽子ですね。あれがアングリー・パイレーツのリーダーシップを意味してるんです。それをドラムの佐川哲也がほしがってるんですね」  ドラムの佐川哲也のみならず、ピアノの秋山風太郎やテナー・サックスの原田雅実、ギターの吉沢平吉もみんな外国映画に出てくる中世期の海賊衣裳である。色とりどりのターバンみたいなものを頭にまいて、腰には剣をぶらさげている。みんな長髪であるのみならずそれぞれ珍妙なスタイルのヒゲを生やしているが、なかに異彩を放っているのはテキサスの哲こと佐川哲也で、左の眼に眼帯をはめているのは海賊として迫真性がある。  いまかれらが演奏しているのは「マンハッタン」らしいが、元来この曲は美しいメロディーを持った抒情的な作品としてしられているのに、いまこの連中の演奏をきいていると、非常にパンチのきいた激情的なものになっている。卓上にあるプログラムに眼を落とすと、山内編曲となっており、ああ、ビンちゃん編曲もやるんだなと、金田一耕助も感心している。  このひとたちは米軍キャンプをまわっているうちに、いろんな曲を耳からおぼえ、楽譜とレコードで練習するのである。  そのあと Over The Rainbow があり、その終わりごろ、多門修が|肱《ひじ》で金田一耕助を小突いた。 「さあ、今度はいよいよコイちゃんの出番ですよ」  金田一耕助がプログラムに眼を落とすと、  It's Only A Paper Moon  と、あり、やがて万雷の拍手といいたいが、まばらな拍手に迎えられて上手から、裾の長い黒いドレスを着た女性シンガーが現われたが、その顔かたちを見た瞬間、金田一耕助ははげしいショックをかんじ、全身に電流を通されたような戦慄をおぼえずにはいられなかった。  法眼由香利……?  いや、いや、それが由香利であるはずがない。これはビンちゃんの妹にして情婦なる山内小雪なのだ。少なくとも仲間やここの常連からは、そういうふうに扱われているにちがいない。  ここにいたって金田一耕助は卒然として、いまは亡き法眼琢也が生前いちどもその妻弥生に、小雪を会わせなかった理由がわかるような気がした。また琢也が弥生に洩らしたという|謎《なぞ》のことば、 「あの子は呪われた子だ、あんな顔にうまれて……」  と、いったということばの意味も、また由香利が祖母の弥生に電話で、 「おばあちゃま、とっても不思議なことがあるのよ、おばあちゃまはいままでそのことをご存じなかったんですのね」  と、いったという、これまた謎のような言葉の意味も、すべてこれで理解されるのではないか。  由香利と小雪は|瓜《うり》ふたつにうまれついたのだ。法眼琢也のひと粒ダネの内孫としてうまれた由香利と、法眼琢也の妾腹の子としてうまれた小雪は、|顔貌《かおかたち》、なにもかもがそっくりにうまれついたのだ。いや、いや、声までそのままなのではないか。いまステージで唄っている小雪はハスキー・ヴォイスで売っているという。金田一耕助は先日有楽町ではからずも由香利に会い、しかも、ゆくりなくも由香利の声をきいているのである。 「滋ちゃん、あんたのいってることはようくわかるのよ。だけどあたしはそのまえに決着をつけておきたいことがあるのよ、決着をね」  歯と歯のあいだから血の|滴《したた》るような声だったが、その声は恐ろしくハスキーだったではないか。  いったいこれはどういうことなのか。顔貌、プロポーションからその声まで、そっくりおなじにうまれついたふたりのうちのひとり由香利は、法眼家のひと粒ダネの娘として、おそらく|栄《えい》|耀《よう》栄華のなかに育ち、欲しいものといえば手に入らざるはなく、怖いものしらずのたけだけしく、驕慢な性格としてはぐくまれていったのであろう。  それに反して小雪のほうは、池の端の妾宅でうまれ育ち、あくまでも日蔭の身として、肩身も狭く生い立ったにちがいない。揚句の果てには母なるひとは、由香利の母に娼婦と|罵《ののし》られ、|蔑《さげす》まれ、それがもとで縊死をとげているのだ。その母の遺体にむらがる|蛆《うじ》|虫《むし》を、ひとつひとつ噛みしめたという小雪の胸に、そのときどういう想いが去来したことか。  金田一耕助は二度三度、こみあげてきそうになる戦慄を、抑えるのに苦労しなければならなかった。 「先生、どうなさいましたか」 「いやあ、いやに暑いじゃないか、君、そう思わない」 「ほんとうですね、クーラー設備が完全じゃねえんだな。うちのクラブはこんなことありませんぜ」 「それにあの子の唄もあんまりうまくない」 「いや、あれでテクニックはしっかりしてんですよ。だけど、ちっとも味のないのがあの子の大きなマイナスなんです。性格的に芸人として吹っきれないんですね。あれでパッと吹っきれたら、素晴しいジャズ・シンガーになれるんだが……」  ちょうどそのとき入口のところで、ちょっと|小《こ》|競《ぜ》り合いの気配がきこえ、赤い制服の門衛を突きはなすようにして、女がひとり駆け込んできた。ステージにいる小雪とおなじように裾の長い黒いドレスを着ていて、修道女のかぶるような、これまた真っ黒なかぶりもので鼻から下をかくし、大きなサン・グラスをかけているのだが、金田一耕助はひとめその姿を見たとたん、あなやとばかり両手をつよく握りしめた。  法眼由香利!  由香利は小走りにテーブルのあいだを駆け抜けると、雛壇のいちばん前列へ出て、|手《て》|摺《すり》に沿うて立つと昂然として胸をそらした。それから黒いかぶりものをとり、サン・グラスをむしりとった。  気脈が通じたとでもいうのか、そのとき小雪がひょいとステージからこちらを見た。四つの瞳がかちあったとき、小雪はちょっとたじろいで、唄のリズムが少し狂った。  敏男がそれに気がついて、トランペットを小雪にむけた。小雪もそれで気を取りなおしたのか、これまた昂然として胸をそらして唄いつづけた。だから小雪のこのわずかなトチリは専門家以外には気がつかなかったであろう。いや、それに気がついた専門家といえども、いまステージと客席とで、まったくおなじ顔貌をしたふたりの女と女のあいだに、憎悪と怨念の火花が散っていようとは思いもよらぬことだったであろう。  敏男はトランペットを由香利にむけた。そのハスキーがかったトランペットのひびきは由香利を|嘲《あざけ》り、せせら笑っているように激しく高らかだった。  由香利は怒りに体をふるわせているようだったが、やがてサン・グラスをかけなおし、かぶりもので鼻をおおうと、くるりと|踵《きびす》をかえして、足音荒くその雛壇から出ていった。  金田一耕助は一瞬|躊躇《ちゅうちょ》したのちに、 「シュウちゃん、君はここにいてくれたまえ。すぐかえってくる」  金田一耕助はさりげなく、しかし、いくらか急ぎ足で二重のドアを|排《お》して外へ出ると、手のなかで千円札をかぞえていた門衛が、あわててそれをポケットへ突っ込んだ。 「君、いま若いご婦人がここからとび出してきたろ。あのご婦人どっちへいった」  門衛はムッツリとした顔でとりあわない。金田一耕助は口の中で舌打ちすると、袴の裾を乱していっぽうの階段を駆けのぼった。  外は|沛《はい》|然《ぜん》たる雨になっていた。宵から吹きつのっていた風のなかに、雨脚が狂ったように踊っている。舗装道路から|濛《もう》|々《もう》たる湯気が立ちのぼっていた。稲妻が紫色に街を掃き、雷鳴があとからとどろいた。  しかし、法眼由香利の姿はどこにも見えなかった。      四  その年の東京は八月一杯降雨らしい降雨に見放されて、東京砂漠のような惨状を呈していたが、もうそろそろ九月の中旬もすぎようとしているのに、ひとびとはまだ真夏の衣裳のままで、ちょっとした激しい身動きにも、滴り落ちる汗をぬぐわなければならなかった。  ところが九月十八日の夜、今度は本格的な大型台風にまっこうから襲撃されて、東京地方も大いにお湿りにあずかったのはよいとして、そのかわり関東地方大荒れに荒れて、よいことはふたつとないものだとひとびとの肝を冷やさせたものだが、あとから思えばその台風の荒れ狂うさなかだったにちがいない、あの一世を|震《しん》|撼《かん》させた、世にもおどろおどろしき惨劇が演じられたのは。  その台風は宵の六時ごろから勢いをましてきたのだが、それが一番猛威をふるったのは、夜の九時から十時へかけての一時間くらいのことだったろう。その間多くのひとびとは雨戸を閉め切った家の中で、襲いかかる猛暑にあえぎながら、飛散する瓦の音、倒壊する塀のひびき、裂けて飛ぶ樹木の枝のけはいなどに、終夜眠れぬ夜を送らねばならなかったが、あとから思えば、あの|酸《さん》|鼻《び》をきわめた事件の演出者たちにとっては、これこそ、|究竟《くっきょう》の舞台装置であったろう。  それはさておき、台風は真夜中の三時ごろ北関東から東北地方へ抜けたようだが、十九日の夜が明けても台風一過の秋晴れというわけにはいかなかった。あとから思えばこの台風こそ、夏と秋をわける境界線の役割りを果たしたらしく、新しく発生した秋雨前線が、日本列島の南方海上にベッタリとへばりついているとやらで、気温が急降下したのはありがたかったにしても、翌日からベショベショと陰気な雨が降りつづいたのは、台風の|罹《り》|災《さい》|者《しゃ》にとってはダブル・パンチともいうべきで、頭の痛いことであったろう。  芝高輪台町の本條写真館の殺風景なドアを排して、あの奇妙なもじゃもじゃ頭のうえに、これまた奇妙なお釜帽をのっけた男が入ってきた、九月二十日の夕方も、朝から降りみ降らずみという陰気な天候だった。つい数日まえまでならば、考えもおよばなかったであろう合いの二重廻しをその男が着ていたとしても、少しも怪しむに足りないような肌寒いいちにちだった。  そのとき本條徳兵衛は弟子の房太郎をあいてに古いアルバムや乾板の整理によねんがなかった。  徳兵衛の胸はちかごろ希望にふくらんでいる。本條写真館のまえの道路は旧幕時代街道筋に当たっていた。江戸時代|参《さん》|覲《きん》交代にあたる西国筋のお大名が、|毛《け》|槍《やり》ふりふり往来をした道である。|由《ゆい》|緒《しょ》にかけては申し分なかったが、なにしろ幅員のせまいのは困りものである。  ところがちかごろ都が決定したところによると、このまえの道も三〇メートルくらいに増幅されるらしい。しかも、この決定にしたがって立ち退きを命じられるのは、道路のむこうがわだけで、こちらにはほとんど影響がないらしいとわかったとき、徳兵衛は天にも昇る気持ちであった。お見合い写真なら本條写真館どころではない。結婚式なら本條会館へと、徳兵衛の夢はふくらむばかりである。  資本はなんといっても創業明治二十五年という古い|暖《の》|簾《れん》である。徳兵衛は口数こそ少ないが、重厚で物に動じぬ人柄から、同業者のあいだでも一目も二目もおかれている。機を見るに敏なることは、近所の連中がまだ焼け跡の防空壕生活をしている時代に、いちはやく、粗末とはいえいまの写真館を、復活させた手腕によっても|窺《うかが》われるだろう。  徳兵衛の年齢をまえにかれこれ六十だろうと書いたが、正確にいうとことしかぞえで五十六歳である。しかもかれの父の|紋十郎《もんじゅうろう》は七十八歳、本條写真館の創始者|権《げん》|之《の》|助《すけ》ですら七十二歳まで生きたという。代々長寿の家系であるという自負も持っている。 「旦那、これはまた古い乾板ですね。ここに明治三十九年五月二十五日撮影とかいてありますが、このあとなんと読むんですか」 「どれどれ、これ、気をつけないか。取り落としちゃもとも子もない。はてな」  と、房太郎の手から乾板を受け取った徳兵衛も、眼鏡をかけなおしてそこに貼りつけてある紙に眼をやったが、その紙自体が渋茶色に変色していて、毛筆でかいたあとの文字はかすれて、黒ずんで徳兵衛の老眼では読めなかった。改めてデスクのうえの強烈なスタンドに透かしてみて、 「二百三高地に結ったお嬢さんだな。それとも奥さんかな」 「旦那、二百三高地ってなんですか」 「そのころ流行した髪かたちだ。房太郎、おまえももっと勉強しなきゃならんな。こういう古い乾板が保存してあるということが、この本條写真館の財産なんだからな」 「旦那、よくわかりました。このあいだもどこかの雑誌社から、明治・大正時代の資料を借りにきましたね」  戦災孤児の兵頭房太郎は眼から鼻へぬけるという、利口そうな眼玉をクリクリさせている。 「房太郎、よく聞いておけ。明治三十九年時分といえば、いまとちがって写真一枚撮るにも容易なことではなかったんだ。だからこのお嬢さんか奥さんかしらんが、このご婦人もそうとう身分のたかいお方にちがいない。よしよし、あとで明治三十九年五月二十五日の日記を調べてみよう。どこのどういうおかたかわかるだろう」  明治三十九年といえばこの写真館の創始者、即ち徳兵衛の祖父権之助の時代にちがいないが、権之助、紋十郎、徳兵衛と三代にわたって|几帳面《きちょうめん》で克明な性格なのだ。  徳兵衛はその乾板の貼り紙に赤インキで?をつけると、 「ほら、房太郎、ていねいにもとの箱へしまっておけ。大事にしろよ、落っことしたりするんじゃねえよ」  房太郎がだいじそうにその乾板を黄色い布にくるんで、古びた桐の箱へしまっているところへ、あのもじゃもじゃ頭に|苦《く》|茶《ちゃ》|苦《く》|茶《ちゃ》に形のくずれたお釜帽、襟のすりきれた合いトンビの下から、ヨレヨレの袴をのぞかせた奇妙な男が入ってきたのである。 「あ、いらっしゃいま……」  と、いいかけて、房太郎の舌は口のなかでサボタージュを起こした。どう踏んでもまし[#「まし」に傍点]のし[#「し」に傍点]まで発音する必要のない相手であることは、房太郎のごとき眼から鼻へ抜けるような若者でなくてもわかるであろう。  しかし、そこはさすがに徳兵衛はものなれていた。デスクを離れてカウンターのほうへくると、 「いらっしゃいまし。お写真のご用でございましょうか」 「はあ、ぼ、ぼく、金田一耕助というもんですが、こちらに本條直吉さんいらっしゃいましょうか」  金田一耕助はデスクのうえの強烈なライトが|眩《まぶ》しいのか、眼をパチクリとさせている。時刻はまさに夕六時、そろそろ日が短くなるころおいのうえ、降りみ降らずみという天候のこととて、店内は幽然と暗くなっているのだが、仕事に夢中になっていたふたりは、いままでそれに気がつかなかったのである。徳兵衛は天井の電灯にスイッチを入れたついでに、門灯とショウ・ウインドウの照明にも灯を入れた。あたりが|煌《きら》びやかな照明のなかに浮かびあがると、金田一耕助のショボクレた風采がいっそうショボクレてみえ、いよいよ房太郎の|憫笑《びんしょう》をかった。  徳兵衛はふたたびカウンターのまえにもどってくると、 「直吉はわたしの|倅《せがれ》だが、あんたあれの識り合いかな」 「ああ、いや、ぼく、識り合いというほどではありませんが、ご令息にちょっと頼まれたことがあるもんですから」 「頼まれたこと……? あの子になにを頼まれなすったのかな」  徳兵衛の目つきは警戒的であり、房太郎の顔色は|胡《う》|散《さん》臭そうである。 「そうそう、あなた直吉さんのお父さんでしたね」 「それはさっきもいったとおりだが……」 「それじゃ聞いていらっしゃらないかな」 「どういうこと」 「あれは先月の二十八日の晩だったそうですが、直吉さん若い娘さんに頼まれて、このむこうの病院坂の首縊りの家という、|芳《かんば》しからぬ|綽《あだ》|名《な》のある家へ出向いていって、奇妙な結婚式の記念写真を撮影されたそうですが……」  徳兵衛と房太郎はハッとしたように顔見合わせた。房太郎がなにかいいたそうにするのを、徳兵衛はすばやく眼顔で制すると、 「そうそう、そういうこともあったが、それがあんたとどういう関係……?」 「いやね、ご令息にはどうもそれが、合法的な結婚式とは思えなかったとおっしゃるんですね。なにか麻薬のようなものをつかって、花嫁さんの理性と知覚をうばい、非合法的に犯したんじゃないかという疑いを、ご令息は強く持たれたんですな」 「いや、その話ならわたしも直吉から聞いている。あとで変ないざこざに|捲《ま》きこまれなきゃいいがと気を|揉《も》んでいたんだが……」 「それであなたがいちおう警察のほうへ届けておくようにと、ご注意なすったんじゃないですか」 「そうそう、それで倅も高輪署のほうへ出向いていったんだが、署のほうでいっこう取り合ってくれなかったって、ブリブリしていたようだが……」 「いや、警察のほうで取り合わなかったというわけではないんです。ちょどほかに厄介な事件があって、こっちのほうまで手がまわりかねたんですね。そこでおりあたかも高輪署へ来合わせていた等々力警部、本庁の捜査一課所属の警部さんですがね、そのひとがそういう一件なら金田一耕助、即ちわたしですがね、金田一耕助のところへ話を持っていったらよかろうと、そういうアドバイスがあったそうで、あれはたしか今月の七日の夕方ですが、ご令息がわたしのところへ話を持ってこられたんですね。その話、お父さんのお耳に入っていなかったようですね」 「それはわたしには初耳だが、それであんた警察とはどういう関係……?」 「いや、そのことならご令息はそうとう詳しくご存じなんですが……わたしこういう仕事をしているもんですから」  と、そこであらためて差し出した名刺を横合いから覗き込んだ房太郎は、|素《す》っ|頓狂《とんきょう》な声を張りあげた。 「えっ、あんた、それでも私立探偵……?」 「あっはっは、坊や、あんたにはどうみえる? 私立探偵というやつは、もっと|獰《どう》|猛《もう》な面構えをしているか、それとももっとスマートで、片眼鏡をかけ、いつもマドロス・パイプでもくわえていなきゃいけないかね」 「う、う、う、う」  と、眼をシロクロさせている房太郎を|尻《しり》|眼《め》にかけて、徳兵衛の態度はにわかに改まった。 「思い出しましたよ、金田一先生、六本木の|椿《つばき》子爵家に起こった殺人事件(註−「悪魔が来りて笛を吹く」)……戦後起こったあの最大の事件をみごと解決なすったのは先生でしたね」 「いやあ、あれは|怪《け》|我《が》の巧名。ただ等々力警部にご協力申し上げただけのことですがね」 「それにしても倅は先生になにをお願いにあがったのですか」 「いや、そのご令息ですが、いまお留守で……?」 「はあ、今夜は結婚式がふた組かち合いましてな、そっちのほうへ出張しておりますんで、帰りはちょっと遅くなります。わたしではいけませんか」 「いやあ、結構ですよ。つまりご令息は連中に一杯|嵌《は》められたような気になられたんですな。それで相手がどういう連中なのか調査してほしいと、そういうご依頼をうけたんですね。ここにご令息の名刺もあります」  金田一耕助の差し出した名刺のうえには、二八・九・七、御来訪と耕助の筆跡で書き込んである。 「先生のようなご高名なかたでも、こんな詰まらん調査もお引き受けになるんで?」 「あっはっは、いや、これもショウバイですからね。で、きょうやっとその連中を突き止め、全部確認できたもんですから、ここにご報告書を持参したわけです。女性ひとりをまじえて全部で七人でした。ご令息もいってらっしゃいましたが、やはりジャズの連中でした。ここに七人の住所氏名を書きとめてきましたから、どうぞ」 「はあ、いや、これはどうも。あいにく倅が不在なもんですから、もうひとつ勝手がわからんのですが、お礼のほうはどうなってるんでしょうか」 「はあ、ご依頼をうけたとき内金として五千円頂戴してるんですが、あと二万円もいただけたらと思ってるんですが……」 「なあんだ、こんなつまらん調査に二万五千円も払うんですかあ」 「房太郎、おまえは黙ってろ。金田一先生、こいつのいうことを気になさらないで。それではここに二万円ございますからどうぞ」 「いや、これはどうも。それではここに領収書を用意しておきましたから」  金田一耕助は千円紙幣を二十枚、だいじそうに紙入れのなかにしまいこむと、房太郎のほうにニコニコと白い歯をむけて、 「房太郎君といったね、君はいまこの仕事をつまらんといったね。しかし、一見つまらんようにみえるこういう仕事にも、そうとう危険は伴うもんなんだよ。ねえ、ご主人」 「はあ、はあ」 「ご令息からこの調査を依頼されたのは、九月七日の夕方だと申し上げましたね。ご令息を送り出したのはちょうど六時でした。それからまもなくわたしも外出したんですよ。帰宅したのがかれこれ十二時でしたが、かえってみると部屋のなかが無茶苦茶に荒されてましてね、見るも無残なていたらく。房太郎君、こういうこともあるんだからよく憶えておきたまえ」 「金田一先生」  徳兵衛はちょっと厳しい眼つきになって、 「それ倅がご依頼申し上げた調査ごとと、なにか関係があるとおっしゃるんで」 「いや、それはわかりません。わたしこれでも、ほかにもいろいろ手掛けてる一件がございますからね」 「それで、なにか紛失ものは?」 「いや、それがなかったから不思議じゃありませんか。ご令息はよくご存じですが、わたし友人の風間俊六……ご存じかどうですか、いま病院坂に法眼病院を建設してる風間建設のボスなんですがね、その男の二号さんの経営してる大森の割烹旅館、松月といううちの離れに寄寓してるんですが、その晩は虫がしらせたというんですか、重要な調査資料はいっさいがっさい、そっちの金庫へ保管しておいてもらったもんですから、危く難をまぬがれましたがね。|空《あき》|巣《す》としてはよっぽど|頓《とん》|馬《ま》な、おそらくズブの|素《しろ》|人《うと》のやったことでしょうな。あっはっは、いや、これは失礼。なにね」  と、金田一耕助はまた白い歯を出してニッコリ笑うと、 「そこにいらっしゃる房太郎お兄さんが、わたしどものショウバイを、濡れ手で|粟《あわ》のつかみどりみたいに考えていらっしゃるようなんで、ちょっとひとこと申し上げたまでのことで。では、失礼」  金田一耕助は合いトンビのボタンを掛け直し、もじゃもじゃ頭に苦茶苦茶に形のくずれたお釜帽をかぶりなおし、|飄々《ひょうひょう》として出ていきかけたが、ドアのところまでいくとふと立ちどまって振りかえった。 「あの、ちょっとお訊ねいたしますが、さっき表のショウ・ウインドウを覗かせていただいたんですが、ずいぶん古い写真が並んでいますね。まるで明治・大正・昭和の風俗史みたい」 「うちは創立が明治二十五年ですから、ことしで創業六十二年目になるんです」  房太郎が得意そうに胸をそらせた。 「創業六十二年目……?」  と、金田一耕助は眼をまるくして、 「それじゃまるで風俗画報もんですな」 「だからよくそういう雑誌社から写真を借りにくるんですぜ」 「創業が明治二十五年とおっしゃると、旦那のお父さん、いやお祖父さんの代からですかね」 「そうですよ。旦那のお祖父さんの権之助さんというひとが、横浜で写真技術を修業してきて、ここで開業したのが明治二十五年なんです。だから東京でいちばん古い写真館ってことになってるんです」 「そうですか、そうですか。わたしゃ|寡《か》|聞《ぶん》にしてこういうところに、こんな古い写真館があるとはしらなかったもんですから、さっき表のショウ・ウインドウを拝見して驚いたんです。道理で法眼病院三代の写真が並んでいてもふしぎはないわけだ」 「えっー」  と、徳兵衛はあきらかに、虚をつかれたのである。ちょっと絶句したあとで、すぐ落ち着きをとりもどして房太郎のほうを振りかえった。 「房、おまえがそんなもん、ショウ・ウインドウのなかに飾っておいたのか」  べつに|咎《とが》めるような調子ではなく、持ちまえの穏やかなことばつきだが、それにもかかわらず|咽《の》|喉《ど》のおくに小骨でもひっかかったような、かすかな|翳《かげ》りがあるのを金田一耕助は聞きのがさなかった。 「旦那、いいじゃありませんか。法眼病院もいまに立派なやつが建つんでしょう。そしたらまた撮影させていただこうじゃありませんか」 「あれ、さっきはショウ・ウインドウが暗かったのでよくわからなかったんですが、最初のは創立時代、二枚目のが改築後、三枚目のは戦災にやられたあとらしいですね」 「どれどれ。終戦直後のはわたしが撮影した記憶があるが……」  徳兵衛はカウンターのなかから出てくると、みずからドアを排して外へ出ていった。  |煌《こう》|々《こう》たる電灯に照明されたショウ・ウインドウのなかは、なるほど明治・大正・昭和風俗史である。まえにもいったとおりこれが徳兵衛の自慢の種なのだが、きょうはなぜか浮かぬ顔をしている。それらの風俗史的写真の中央に、わざと眼につくように飾ってあるのが、法眼病院三代の写真である。いずれも横二〇センチ、幅一四、五センチくらいに引き伸ばされた写真である。さっきは暗くてよく見えなかったのだが、いちばん左にあるのが創立時代の写真で、明治四十二年撮影と、画用紙のような紙を短冊型に切ったのに、ゴチック活字みたいな書体で書いたのがおいてある。 「房太郎、おまえがあんな名札を作ったのかい」 「このひとなかなか器用なんですね。もっとも写真屋さんに無器用なのがいては困りもんですが」  明治四十二年といえば法眼病院の創立された年であることを、金田一耕助はしっているが、そういうことはオクビにも出さず、 「なるほど、これでみると法眼病院もさいしょはふつうの病院に、ちょっと毛の生えたていどだったようですね」 「まあ、どこでもはじめはそんなもんじゃないですか」 「明治四十二年といえば、これはあなたのお祖父さんの撮影ですね」 「そうでしょうねえ。わたしは明治四十一年うまれですから、わたしのうまれた翌年のことになりますな」  道理で写真も古色|蒼《そう》|然《ぜん》として、色も薄褐色に変色している。  さて、その左側に並んでいるのは、創立時代からくらべてずいぶん大きくなっている。建築様式も創立時代のそれが赤|煉《れん》|瓦《が》を多くつかった、くすんだ明治調なのに反して、こっちのほうは|白《はく》|堊《あ》の殿堂とでもよびたげな、明るい、健康的な建物になっている。例のゴチック式な書体で書いた名札によると大正十年撮影とある。 「これはどなたが撮影されたんですか」 「大正十年といえばわたしはまだ十四、五の小僧っ子ですし、|爺《じい》さんはもう隠居同様でしたから、おそらくこれはおやじが撮影したもんでしょうな」  さて、最後の一枚には「昭和二十年九月五日撮影」という名札がついているところを見ると、これはあきらかに徳兵衛自身の撮影であろう。 「これを見て思い出しましたが、戦争中はうっかりこんな場面をとっちゃいられません。憲兵にでも見つかるとすぐちょっと来いで、ブタ箱入りですからな。敵性国家のスパイ扱いでさあ。そこへ二十年の八月十五日の終戦でしょう。当時わたしは食うや食わずの防空壕生活でしたが、東京中を無我夢中で撮り歩きましたね。これもわれわれ写真屋の義務だと思ったもんですからな」 「そういえばそこに関東大震災当時の写真がありますが、それはご先代の撮影なんでしょうね」 「まあ、爺さん以来代々の血なんでしょうな。爺さんの撮った日清日露の戦勝祝賀記念の|提灯《ちょうちん》行列の写真もありますし、日比谷の焼き打ちの写真もありますよ」 「おたくではそういう写真を、全部保存していらっしゃるんですか」 「写真だけじゃありませんや。乾板からフィルムまで、全部年代順に整理してあるんです。旦那はとても几帳面なひとですからね」  房太郎はいよいよ誇らしげに胸をはった。 「それじゃますます重要文化財もんだ」  金田一耕助はニコニコしながら、 「そうするとお父さんは法眼家と、かなり親しいご関係なんですね」 「とんでもない」  徳兵衛は眼をシロクロさせて、 「むこうさんはああいうご大家、こっちは古いといってもたかが写真屋。まあ、最初あそこへ病院ができたとき、うちがわりにちかかったもんで記念撮影を頼まれて、それが縁になったということでしょうな。それより先生こそいま法眼病院を建てている風間建設の社長さんのご友人だとすると、法眼さんのお宅とはおつきあいが……?」 「あっはっは、それこそとんでもないこと。風間は風間、わたしはわたし。仕事の性質がまるでちがいますからね。わたしは、まあ、このとおり風来坊みたいな男ですから、風間の友情にあまえて、二号さんのうちへころがりこんで、そのまま根が生えちまってるって男です。おや、どうやらまた降り出してきたようですね」  なるほどいったん|歇《や》んでいた細かい雨が霧のように降ってきた。金田一耕助は合いトンビの下から|洋傘《こうもりがさ》を取り出して、パチッと音をさせてそれを開くと、 「では、ご令息によろしく」  と、軽く|会釈《えしゃく》しておいて、もうすっかり暗くなっている道を|飄々《ひょうひょう》として立ち去っていった。  昭和二十八年九月二十日夜七時ごろのことである。      五  それから三時間ほどして本條直吉がかえってきたころには、雨はすっかり本降りになっていて、傘も持たずに外出していた直吉の着くずれたバーバリーのレーン・コートは、ぐっしょり雨をふくんでいる。直吉はもう写真館という稼業にすっかり見切りをつけているのだ。それよりも労少なくして実り多き仕事を求めて、きょうもショボふる雨のなかを奔命これ努めた|揚《あげ》|句《く》、矢尽き刀折れてのご帰館というところが、いまの直吉の姿だろう。  直吉はあらあらしく肩でドアを|排《お》して入ってくると、カウンターのなかにいる徳兵衛と房太郎の顔をみて、ちょっと|怯《ひる》んだかにみえたが、すぐチッと舌を鳴らして、 「どいつもこいつもシケた|面《つら》あしやがって」  と、捨て|台詞《ぜ り ふ》をはき、|泥《どろ》まみれの靴のまま左側の階段をあがっていこうとするのを、 「直吉、ちょっと待て」  と、カウンターのなかから徳兵衛が鋭く呼びとめた。 「いいよ、いいよ、|父《とつ》つぁん、意見ならあしたの朝ゆっくり聞かあ」 「意見じゃない。きょうここへ妙な男がおまえを訪ねてきたぜ」  妙な男ということばが直吉の関心をそそったらしい。階段の|手《て》|摺《す》りに片手をおいたまま、 「それ、どんな男だい、おれになんの用があってやってきたんだ」 「金田一耕助という男だ。おまえその名を憶えているか」 「キンダイチコウスケ……? あっはっは、あのもじゃもじゃ頭のヘボ探偵か。あいつがここへやってきたのか。あいつにゃ五千円ふんだくられたが、あれこそ|泥《ど》|溝《ぶ》に金を捨てたようなもんだ」 「五千円じゃない。二万五千円だ」 「二万五千円……? おやじ、それゃどういうことだ」 「きょうここへ請求にきたんだ。おまえが頼んだ調査の報告書を持ってきてな」 「それをおやじが払ったのかい」 「ああ、払ったよ、だいたい完全な報告書だからな」 「そ、そんなバカな。それじゃ泥棒に追い銭もおなじことじゃないか」 「直吉、こっちへ降りて来い。おまえにいってきかせておくことがある」 「若旦那、降りていらっしゃい。旦那の話をようくお聞きになったほうがいいですよ」  房太郎がそばからことばを添えたが、直吉は|洟《はな》もひっかけなかった。 「話ならここでも聞ける。おやじ、いって聞かせることがあるとはどういうことだ。ひとつここで聞かせてもらおうじゃねえか」 「じゃ聞くが、おまえ金田一耕助って男をどう思ってるんだ」 「また、金田一耕助か。あれゃテンからいかさま野郎だ。おやじはまたなんだってあんないかさま野郎に、二万円なんて大金を払やあがったんだ」 「それじゃもうひとつ聞くがな、おまえ金田一耕助という男がいまどこに住んでるかしってるだろう。おまえは自分で訪ねていったそうだから。さあ、いってみろ、どういうところに住んでいるんだ」 「しってるよ、そんなこたあ。大森の割烹旅館、松月といううちの離れに|居候《いそうろう》の|権《ごん》|八《ぱち》をきめこんでいやあがる」 「その松月といううちと金田一耕助と、どういう関係になっているのか、おまえそれもしってるだろうな」  徳兵衛の舌端が鋭くなっていくのと反対に直吉の気力は|萎《な》えてきた。しだいに|怯《ひる》んだ眼つきになって、 「そういえばそこのおかみのパトロンと親友で、その縁でそこの離れに世話になっているのだが、居候ったってバカにしちゃいけないと、本庁から出張してきていた等々力という警部がいってたな」 「おまえその親友という男の名前をきかなかったのかい」 「だれだい、それ、ヤミ屋のボスかい」 「直吉、よく聞け、これはいま房太郎を走らせて調べてきたのだから間違いはない。いま病院坂に法眼病院の本建築が建ちかけているだろう。その鉄骨に張った大きなシートには、風間建設工事場と書いてあるそうだ。風間建設といやあいまや日本でも四大建設か五大建設会社のひとつといわれている。その風間建設の社長の風間俊六というのが松月のパトロンで、しかも金田一耕助という男の親友だそうだ」  |挑《いど》むような眼で徳兵衛の顔をにらんでいた直吉は、しだいに力が抜けてきたらしく、べたんと階段のなかほどに腰を落とした。 「直吉、わかったかね」  徳兵衛もいくらかことばをやわらげて、いつか相手を|諭《さと》すような調子になっていた。 「おまえにわかって欲しいのは、容姿や風采、見てくれだけで相手を評価しちゃならぬということなんだ。おヒゲを生やして威張りかえっている人間だけが偉いんじゃないということを、今度の戦争でいやというほどわれわれは体験させられたじゃないか。一見へなへなしているが、底知れぬ恐ろしさを持ったやつも世間にゃいるんだ。金田一耕助というのがそういう化けもんのひとりなんだ。しかもあいつは風間建設の社長風間俊六という戦後の大物を親友に持っている。風間建設はいま法眼病院を建設中だ。そういう大物をバックに持った凄い男が、なんでおまえみたいなチンピラの持ち込んだ、たかがしれたジャズの連中の調査を引き受けたと思うんだ。わずか二万や二万五千の眼くされがねに眼がくれたと思っているのか」  さすがに年輪の差だけあって、徳兵衛のひとを見る眼はちがっていた。しかも、その観察はおおむね|肯《こう》|綮《けい》にあたっているが、さすがにその徳兵衛も金田一耕助という男が、事件の|選《よ》り好みがはげしく、その結果しばしば仕事にあぶれておケラになり、タバコ銭にも窮したあげく、恥も外聞もあらばこそ、松月の女中に三拝九拝、借用におよぶという、まるで生活無能力者みたいな弱点ももっている男とまでは眼力が及ばなかったらしい。 「それじゃ、父つぁん、あの男は法眼家となにか関係があるというのかい」 「そこまではわからない。おれもさっき探りを入れてみたが、まんまとはぐらかされちまった。しかし、肯定もしなかったが否定もしなかった」 「旦那、あれはやっぱり法眼さんになにか関係があるんですぜ。法眼さんに頼まれてなにか調査していたんですぜ。その調査が|暗礁《あんしょう》に乗り上げて四苦八苦しているところへ、若旦那があの話をもちこんだ。そこで渡りに舟と乗り出したんだ。つまり若旦那はいいカモにされちまったんだ」  房太郎はあいかわらず、眼から鼻へ抜けるような頭の廻転ぶりを発揮している。 「房、てめえは黙ってろ。それよりなあ、直吉、おまえがこの話を持ち込んだのは九月七日の夕刻だってな。あの男のいうのに夕方六時ごろおまえを送り出してから、あの男もすぐに出掛けたというんだ。ところがその夜おそく十二時過ぎにかえってみると、あいつの居間になってる離れがメチャメチャに荒されていて、しかも、被害は皆無だったと笑っていた。おまえまさか……」 「そ、そ、そんなことおれのしったことか。それゃ|濡《ぬ》れ|衣《ぎぬ》だよ。父つぁん、なんぼなんだっておれはコソ泥を働くような、そこまで浅ましい……」 「だから被害皆無だったといっている。しかし、まあ、その問題はそれくらいにしておいて、おまえが金田一耕助という男に、八月二十八日の晩のことを打ち明けているあいだに、相手になにか反応はなかったかな。なにか思い当たるところがあるというふうな……」  それはいくらでもあるのである。あのときでさえ直吉はなにか心にひっかかるものがあり、だからこそその晩こっそり忍び込む気になったのであろうが、しかし、それはここではいえなかった。 「まあ、いいからちょっと降りて来い。ここに金田一耕助の調査報告書があるが、ここにひとつ妙なところがある」 「どれどれ、妙なところというと……」  直吉もどうやら階段をおりる汐時をつかんだらしい。階下へおりてカウンターのなかへ入っていくと、徳兵衛の手から調査報告書なるものを受け取ったが、 「それな、それ『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』というジャズの連中らしいが、五人のレギュラーとひとりの女の子のシンガー、それから見習いがひとりと、つごう七人いるらしい。ところがそのうち五人までは氏素性、年齢から住所、前歴までかなり詳細に書いてあるのに、おまえがいちばん問題にしていたビンちゃん、即ち山内敏男とコイちゃん、山内小雪というのがおそらくそれだろうが、このふたりだけは目下五反田のこれこれしかじかのところで、夫婦気取りで同棲中とあるが、このふたりだけは前歴不詳とある」 「野郎、かくしゃあがったかな」  本條直吉はわめいだが、あの運命の電話のベルが鳴り出したのは、じつにその瞬間であった。徳兵衛が受話器を取りあげて、 「こちら本條写真館でございますが……えっ、いつかのお嬢さんとおっしゃいますと……? ああ、あの結婚記念の写真を撮らしていただいた……はあはあ、たしか八月二十八日の晩のことでございましたね」  徳兵衛が目配せをするまでもなく、直吉と房太郎のおもてが緊張にこわばった。 「はあ、はあ、倅ならうちにおります。ちょうどいま仕事からかえってまいりましたところで……少々お待ちください。すぐ呼んでまいりますから」  徳兵衛は送話器の口をおさえて、 「例の女からだ。だけどおまえコイちゃんだの小雪だのと、名前をしってるふうをするんじゃないぞ。ただ黙って仰せごもっともと聞いておけ」 「いいよ、わかったよ。だけどいったいなにをいってきたんだろ」  いいまをおいて徳兵衛から受話器をとると、 「もしもし、こちら本條写真館の倅でございます。このあいだはどうもごひいきに|与《あずか》りまして……」  こういうときの直吉はしごく愛想がいい。これがヤミ商売に眼の色をかえたり、競馬競輪でしょっちゅうすってんてんになっている男とは思えない。 「はあはあ、それでご用件とおっしゃいますのは……なんですって? 今夜もういちどあのお屋敷へ出張するんでございますか。いやあ、遅いといってもまだ十時半、われわれにとっちゃ宵の口もおんなじことでございますから。それで写真に撮らせていただくのは……? なんですって? 風鈴……? ええ、ええ、よく憶えておりますとも。金屏風のまえにぶらさがっていた風鈴でございましょ。あそこにまた風鈴がぶらさがっておりますんで。それを記念写真に撮っておきたいとおっしゃるんですね。わかりました。それじゃさっそくこれから出掛けますから。まいどごひいきに……」  直吉のことばも終わらぬうちに、むこうで受話器をかける音がした。 「直吉、どうした、風鈴がどうのこうのといってたが……」 「なにね。このまえの結婚記念の写真に風鈴が写ってたろう。あそこにまた風鈴がかかっているんだとさ。それを記念に撮影しときたいんだってさ」  直吉はそういいながらもさっさと機材の準備をととのえている。無言のままそのようすを見守っていた徳兵衛は、 「よし、それじゃわしもいっしょにいこう」 「止しなよ、おやじさん、そういうのを年寄りの冷や水というんだ。おれひとりでたくさんだよ」 「バカあいえ。そういうおまえはどうだ。手がふるえてるじゃないか」 「旦那、なにかあったんですか」 「ふむ、少しおかしいんだ。なにがっていまの女の声がよ。いやに|陰《いん》|々《いん》|滅《めつ》|々《めつ》としてるんだ。ちょっと口ではいえねえけどさ」 「旦那、若旦那、それじゃぼくもいっしょにいきます。だっておかしいじゃありませんか。風鈴の写真を撮りに来いって、しかもこの夜更けにさあ。これ、ひょっとするとなにかの|罠《わな》かもしれませんぜ」 「房、おまえはそう思うか」 「だって旦那もそう思ってんでしょ。こんなときにはひとりでも味方が多いがいいにきまってまさあ。さあ、いきましょ、いきましょ」  かくて三人はいっしょに出かけた。  雨はさきほどではないにしても、まだベショベショと降りつづいている。時刻はまさに十時四十五分。      六 「だけどよう、謙公、あの病院坂の首縊りの家が怪しいてえのは、おまえのどういうカンなんだ」 「だってさあ、すべてはあそこから端を発してんでしょ。それまではきょうだいだ、きょうだいだっていってたビンちゃん……じゃなかった、山内さんが急に妹の小雪さんと夫婦になるっていい出してさ。ぼくなんかはじめ冗談だと思ってましたよ」 「そりゃおれだっておんなじこった。哲とのああいういきさつがあったから、|牽《けん》|制《せい》球を投げてんだぐらいに思ってたのさ」 「でしょう。その結果があの大袈裟なご婚礼とおいでなすった。夫婦になるならなるで、なにもあんな大袈裟なことやらなくてもいいじゃありませんか。こっそり内輪で式をあげればいいんです」 「おれもビンちゃんにあんな芝居気があるとは思わなかったな。いかに風ちゃんのうちから衣裳小道具を持ち出させたり、まあちゃんに電気の知識があるにしてもよ、あんな大袈裟なことやるとまでは思わなかったな、あとで聞けゃあのうち、近所でも有名な幽霊屋敷だっていうじゃねえか。昔首縊りがあったりしてさ」 「おまけに写真屋まで呼んできてさ。だからあのご婚礼にゃてっきりウラがあるんですぜ」 「ウラってなんだ、ああ、そうか、あの晩もみんなで|噂《うわさ》してたとおり、あれゃ哲に手をひかせるための見せかけのご婚礼だっていうのかい」 「いや、それはないでしょ。山内さんと小雪さんはほんとに夫婦になってますよ」 「そうそう、おまえその現場に覗きをきめこんで、ビン公に張ったおされたっていうじゃねえか。おまえもよっぽどエロ漢だぜ」 「止してくださいよ。あれはなにも自分で覗きたくて覗きにいったんじゃないんです。わざわざ覗きにいかなくたって二階と|階《し》|下《た》でしょ。ものの気配でわかりまさあ。山内さんたら、佳境に入るとまるでライオンみてえな声で唸りつづけるんですからね。ことに最後のひと声ときたひにゃあね」 「あっはっは、お気の毒さま。それゃサムソン野郎のこったかんな」 「いや、山内さんばかりじゃありませんや。小雪さんだってそうとうのもんですぜ。ふだんあんなに|慎《つつし》みぶかい小雪さんでしょ。それがまるでひとが変わったような声を立てるんですぜ」 「うっふっふ、それでてめえ|耐《た》まらなくなって、こっそり二階へ覗きにいったんだな」 「いやだなあ、平ちゃん、だから、そこ、話がちがうとさっきもいったじゃありませんか」 「なにを、この野郎、平ちゃんたあなんだ。てめえ見習いのくせに生意気だぞ。てめえの口車にのってつきあってやりゃ思いあがりゃあがって。このエロ漢野郎」 「あっ、すイません、吉沢さん、つい調子にのっちゃって。だからゆっくり話を聞いてくださいよ」  会話のやりとりから察するとこのふたり、ジャズ・コンボ「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」のメンバーのうち、ギターを担当している|屁《へ》っぴり腰の平ちゃんこと吉沢平吉と、見習いの加藤謙三、即ちケンタッキーの謙坊らしい。ふたりの脚はいまや「首縊りの家」のある裏坂の|麓《ふもと》にさしかかっていた。 「つまり問題は佐川さんなんです。あのひと小雪さんに未練たっぷり、いかにぼくがふたりがほんとの夫婦になっているといっても承知しねえんです。気配だけじゃわからねえ。ふたりともわざとそんな声を立てて、おまえをゴマ化してんじゃねえかってきかねえんだな。だからなにがなんでも、ほんとにことを行なってるかどうか見届けて来い、でなきゃこのグループからクビだっていわれたら、ぼくにとっちゃ鶴のひと声だもんな」 「そうそう、てめえは哲に拾われて、このグループへ入ってきたんだったな」 「ぼくはいまこのグループを追い出されちゃおまんまの食いあげですからね。それゃ山内さんや小雪ちゃんにも可愛がってもらってますけどさ」 「それで結果はどうだったんだ。演技だったのかい。ほんとに実行してたのかい」 「それは|正真正銘《しょうしんしょうめい》間違いなし。入るべきところへ入るべきものがちゃんと入ってましたかんな。そりゃもう凄いのなんのって、ああなりゃもうケダモンみたいなもんでさあ。それがアンコール、またアンコールでしょ。オレ、とうとう腰が抜けちゃったもんな」 「いっひっひ。バカなやつだ。だけどそれにしてもコイちゃん、いつまでたってもサエないのはどういうわけだろ」 「それゃやっぱりきょうだいでそんなことやってんだから、良心がとがめて、体のほうはそんなでも、精神的にはやっぱり|鬱《うっ》|積《せき》するもんがあるからだろう、だからオレが……と、佐川さんが息巻いてるんですよ。あのふたりタネちがいはタネちがいだけど、おふくろさんはおんなじなんですってね」 「オレもそう聞いてる」 「だからさ、ビンのやつはあのとおり、アウト・ローで、モラルなんか超越してるやつだから、そんなことヘッチャラだろうが、コイはそうはいかねえ。そこが可哀そうだという、佐川さんのことばもまんざら無理もねえんだな」  屁っぴり腰の平ちゃんはよっぽどひとに|舐《な》められる|性《たち》とみえて、見習いの謙坊のことばもつい対等になりがちである。平ちゃんはひと一倍そういうことにプライドを傷つけられやすい性分なのだが、いっぽう好奇心のほうもひと一倍強いのである。 「だけどよう、謙公、哲の野郎のコイに対するご執心はわかるとしても、それだからってなんで今夜オレたちが、あの家を覗きにいかなきゃなんねえんだ。万事はあの家に端を発するというてめえのことばはわかるとしてもさ」 「あれ、じゃ平ちゃん……いや、吉沢さんはまだ気がついてないんですか」 「なにをよう」 「だってさあ、ここ十日ばかりビンちゃんとコイちゃん、いやに険悪だったじゃありませんか。妙に態度がよそよそしいばっかりか、コイちゃんなんざときどき涙ぐんでたりしてましたぜ」 「そうかなあ、そんなだったかなあ」  平ちゃんもとよりそんなことは百も承知である。しかし、この見習いの若僧には、もっと|肚《はら》の大きなところも見せておく必要がある。 「そこへもってきておとといの台風以来、ふたりともバッタリ姿を見せなくなっちまった。五反田のうちへいっても締まりっぱなしなんだな。だから臭いというわけじゃありませんか」 「だけどよう、二人のあいだになにかあったとしてもよう、なにもあのうちと限らねえじゃねえかよう」 「平ちゃんも気がはええな。オレの話をもっとじっくり聞きなさいよ。さっきマイアミのまあちゃんに会ったら、あのひとまえ電力会社の配線工をやってたんでしょう」 「それくれえのことならオレもしってるさ。だから八月二十八日の晩のご婚礼のときも、あいつが電柱にのぼってよう、あの家に電気がつくようにしたんじゃねえか。それがどうした」 「だからさ、そのまあちゃんがまたビンちゃんに頼まれて、おとといの朝、電柱によじのぼって、あの家に電気がつくようにしといたんだってさ」 「なんだとオ!」 「だからさあ、まあちゃんがその話を風ちゃんにしたんです。風ちゃんもだいぶんびっくらしたらしいが、あのひとは落ち着いてるかんな、それならあしたの朝にでも調べにいこうと、ふたり揃ってかえっちまったんです。そんあとへあんたがやってきたってわけ。そいでこうしてつきあってもらいましたのさ。オレひとりじゃなんぼなんでも薄気味悪いもんな」  時刻はまさに十時五十分、本條写真館の三人がこの家目指してやってくる途中である。      七  病院坂上の派出所に配属されている|寺《てら》|坂《さか》|吉《きち》|蔵《ぞう》巡査は、病院坂の首縊りの家にたいしてあるいまいましい思い出をもっている。  さる八月二十八日の夜、かれは受け持ち区域をパトロールして、さいごに裏坂をのぼって自分の派出所へかえってきたのである。裏坂の麓へさしかかったとき、かれは遠くのほうから聞こえるジャズの音を耳にした。しかしかれはべつに気にもとめていなかった。表の病院坂のほうはちかごろ急速に復興してきているし、派出所のある通りにもチラホラ商店街が復活している。だからどこかの商店の開店お|披《ひ》|露《ろ》|目《め》の宣伝くらいに思ったのである。  ところが裏坂をゆっくりのぼってきて、例の道がT字型になっている地点まできたところで、かれはおやと思って足をとめた。ジャズの音はゆくての左のほうから、騒々しく聞こえてくるのである。それまでうつむきかげんに歩いていた寺坂巡査は、そこで足をとめるとはじめて坂のうえを振り仰いだ。  むかって左側の坂のうえにちかいところに、大きな古い空家があり、それは戦前表坂で繁栄していた法眼病院に付属している建物だが、法眼病院が昭和二十年の春の大空襲のさい、手痛い打撃損傷をうけたとき、その家も少なからぬ破壊を|蒙《こうむ》って、それ以来空家になっているのだと先輩から聞かされていた。ところがいま見るとその空家から|煌《こう》|々《こう》と明りがもれていて、その家の奥からジャズの音が聞こえるのである。  もし、そのとき門灯や玄関先の灯がついておらず、ジャズを演奏しているらしい奥の部屋あたりからしか灯が洩れていなかったのなら、寺坂巡査も疑惑をもったにちがいない。しかしこう見たところ家中の部屋部屋から、煌々たる光りが洩れているのみならず、表まで筒抜けに聞こえてくるジャズの演奏ぶりが、あまりにも傍若無人だったし、それにそういえばその日の午後、トラックが出たり入ったりしていたことを思い出しもしたものだから、おやおや、変わった人種が引っ越してきたものだと、むしろ微笑を誘われるくらいの気持ちで、そこを通り過ぎてしまったのである。ひとつにはあたりを見廻したところそのジャズの騒音について、苦情を持ち込んできそうなほど、ちかまわりに住宅もなかったからである。  だからその翌日もおなじ時刻に、裏坂をのぼっていったとき、寺坂巡査は今夜も聞こえてくるであろうジャズの音を、内心いくらか楽しみにしていたのである。かれもまた現代の若者である。優雅な|古典音楽《クラシック》のメロディーより、強烈なジャズのリズムやビートにシビれるほうなのである。ところが案に相違して裏坂へさしかかっても、ジャズのジャの音も聞こえなかったばかりか、急ぎ脚で坂をのぼってみると、その家のどこからも灯の色はもれておらず、門灯はおろか玄関先の電灯も消えていた。寺坂巡査は首をかしげてその家のまえを通り過ぎたが、そのつぎの夜も、さらにまたつぎの夜もおなじ状態がつづいた。たまりかねた寺坂巡査はいちどなど門のなかへ踏み込んでみて、屋敷のなかを調べてまわったことさえあるのだが、どうみてもそれは空家でしかなかった。そこで寺坂巡査もおむかいの学校の宿直員同様、あれは田舎にいるとき年寄りにきいていた|狸《たぬき》ばやしのたぐいではなかったか、そしてまたあのとき視たと思った煌々たる灯の色も、狐火の一種であったかもしれないと、深くおのれに恥じてだれにもそのことをいってなかったのである。  ところが九月のはじめになって、芝高輪台町の写真館から妙な届け出があったところから、あの夜の寺坂巡査の経験が、狸ばやしの幻聴や狐火のあやかしではなかったことが判明したのはよいとして、そのことを上司に報告を怠っていたことに対して、危く|譴《けん》|責《せき》をくらうところであった。だからその後は毎晩そこをパトロールするたびに、問題の家にたいする寺坂巡査のいまいましい思い出は|甦《よみがえ》ってくるのである。  昭和二十八年九月二十日の夜もおなじことであった。問題の家のてまえまで差しかかったとき、奥のほうでなにやら|閃《せん》|光《こう》のようなものが走るのを見て、思わずギョッと足をとめた。稲妻かと空を仰いだが、きょうは宵からベショベショとした雨が、降ったり|歇《や》んだりしているものの雷はなかったのである。もういちど閃光の走ったと思われるあたりに眼をやると、そこから明りがもれているのがみえ、その明りとはまたべつに、ふたたび青白い閃光が走って消えた。 「おのれ、今度はだまされないぞ」  寺坂巡査はかなりこの家の勝手をしっている。八月二十八日の夜の事件があったのち、門柱と門柱とのあいだや、|蔦《つた》のからまった大谷石の塀のくずれた箇所に数か所、バリケードが|施《ほどこ》されたこともしっている。寺坂巡査は数か所のバリケードのうち、いちばん弱点のある箇所をしっている。そこを乗り越えようとして、しまったと口のうちで舌打ちした。あまり急ぎすぎたため、レーン・コートの裾をバリケードの釘にひっかけてしまったのである。マゴマゴしているところへ、奥のほうからバタバタと足音がちかづいてきた。 「だれか!」  と、懐中電灯の照射を浴びせると、それは見習いのケンタッキーの謙坊であった。寺坂巡査にはまだそれがだれであるかわからなかったけれど、およそいままでこれほど強烈な恐怖によじれた顔を見たことはないと思った。謙坊のヒゲだらけの顔面に凍りついた異常な恐怖を懐中電灯の照射のなかで見たとたん、寺坂巡査も背筋が寒くなるような恐怖をおぼえた。 「おい、どうしたんだ、なにがあったんだ」  髪こそ長けれ、ヒゲこそ生やしておれ、相手が自分よりだいぶん年下らしいとわかって、寺坂巡査はバリケードのうえから声をはげました。謙坊は背後を指さしなにかいおうとするらしかったが、舌が完全にサボタージュを起こしていた。そのうち謙坊は相手が奇妙なジレンマに陥っていることに気がつくと、身をひるがえして別のバリケードにむかって突進した。 「逃げるか、待て。待たなきゃ撃つぞ」  しかし、謙坊は年も若く|敏捷《びんしょう》であった。別のバリケードを乗り越えると、文字どおり|脱《だっ》|兎《と》のごとき勢いで坂をくだっていった。そのとき寺坂巡査はやっとあのいまいましいジレンマから解放されると、バリケードをいったん道路のほうへとびおりた。もちろん謙坊のあとを追っかけていくつもりであった。ところがちょうどそのとき、明りのもれている奥の部屋から、またさっと青白い閃光が走った。 「まだだれかいる」  そして、そのことがさっきのチンピラの顔面に、あのような恐怖を|凍《とう》|結《けつ》させたのだと思うと、寺坂巡査は|胴《どう》|顫《ぶる》いせずにはいられなかった。寺坂巡査はまだ若くて功名心にもえている。それにこのまえの失敗をとりかえさねばならぬという意欲もつよかった。  こんどはなんなくバリケードを乗り越えることが出来た。寺坂巡査はバリケードが出来てからも、いちどこの屋敷を探検しているので、あの大広間へ接近するにはどの潜入口を利用すればよいかしっている。寺坂巡査が忍びこんだのはかつての夜、楽器が乱雑に投げ出してあるのを直吉が見た、大広間のつぎの洋間であった。大広間との境のドアが開いていて、そこからひとの声が聞こえてきた。 「房、乾板はあと何枚のこっている」 「ハイ、旦那、もう二枚のこっております」 「それでは、直吉、全部使ってしまおう。あらゆる角度から撮っておいたほうがよいからな」 「承知しました、お父さん」  三人の声以外は妙な静けさがあたりを支配していた。軒を伝い落ちる雨垂れの音さえ数えられるばかりである。  まもなく閃光が走ってシャッターを切るような音がした。つぎの瞬間寺坂巡査はピストルを身構えたまま大広間のなかに躍りこんでいた。 「おまえらそこでなにをしている!」  しかし、聞かでもその場のようすを見ればわかるのである。  若い男が三脚をかかえてカメラの位置をかえていた。それが本條写真館の倅で直吉という男であるということは、このあいだ高輪署で対決しているので、寺坂巡査にもわかるのである。直吉のおやじとおぼしい人物がマグネシュームを|焚《た》く用意をしていた。いちばん若い男が床のうえにしゃがみこんで、直吉からいま受け取った乾板を鞄にしまうと同時に、新しい乾板を相手に渡していた。三人とも厳粛な儀式を|執《と》り行なっているかのように、黙々として態度は|敬《けい》|虔《けん》そのものである。  広間のなかにはもうひとりいた。しかし、そいつがいま厳粛な儀式を執り行なっている三人と、全然人種がちがう人間であることはひとめ見てわかるのである。髪を長くのばしてヒゲをはやしているところを見ると、さっき逃げ出したチンピラの仲間にちがいない。  屁っぴり腰の平ちゃんは壁にもたれて、いまにも床にめり込みそうに、両脚を大きくひろげて投げ出している。両眼をくわっと見開いているのだが、まばたきひとつしないその眼が、いま何物をも見る力をうしなっているらしいことが想像される。その顔に凍りついている世にも深刻な恐怖の彫像をみたとき、寺坂巡査ははじめておのれの使命を思い出した。 「君たちは……君たちはここでなにをしているんだ」  だれもそれに答えず黙々として最後の儀式を執行した。徳兵衛の手でマグネシュームが|焚《た》かれ、直吉によってカメラのシャッターが切られた。黒い布をかぶったカメラは四十五度ほどの仰角をとっている。その角度を眼で追っているうちに、寺坂巡査は巨大な力で下から突き上げられたように床からとびあがった。 「ごもっともでございますよ、お巡りさん。われわれもはじめはあなたさま同様の状態だったのでございますよ。しかし、三人一緒だったという強味が、そこにいる若僧みたいに気も失わさず、さっき逃げ出したチンピラみたいに気も狂わせなかったのでございますよ。そして、これがわれわれのショウバイでございますからね、ハイ」  徳兵衛は身につまされたような調子でしみじみと語りかけたが、果たしてそれが寺坂巡査の耳に入ったかどうかは疑問である。  寺坂巡査はいま金縛りにかかっているのである。|外《はず》そうとも外しえない|呪《じゅ》|縛《ばく》の凝視から一メートルとは|隔《へだ》たらぬところに、世にも無気味なものがぶらさがっているのである。  人間の生首であった。長く髪をのばしているが、男であることはひとめでわかる。顔中がヒゲで埋まっているからである。長くのばした髪を頭上で束ねて黒いリボンで|絞《しぼ》り、それをシャンデリヤの鎖の末端にひっかけた、金属製の|鉤《かぎ》にぶらさげてあるのである。よほど切れない刃物で斬り落としたのか、それとも犯人が|泡《あわ》をくっていたのか、斬り口は見るも無残に滅茶滅茶である。気味の悪い肉塊や、血管や、いろんな腺が血みどろになって赤い|氷柱《つ ら ら》のようにぶらさがっている。生首は頬から|顎《あご》へかけてたくましいヒゲを生やしていた。しかも、その両眼はくわっと見開き、床のうえの人間どもを見下ろしているようにみえる。  それにしてもあれはなんであろう。顎ヒゲのさきにぶらさがっている白いものは。短冊である。犯人がこの短冊を生首の尖端にぶらさげたとき、まだそこからポタポタと血が垂れていたにちがいない。短冊はそうとう血にまみれているが、そこに書いてある短歌を読もうと思えば読めぬことはない。 [#ここから2字下げ] 父来たりぬ母いそいそと子らふたり   心まろやかに眠るなりけり [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]天竺浪人  即ちサムソン野郎のビンちゃんこと、山内敏男の生首である。     暗中模索の章      一  戦後世間を|震《しん》|撼《かん》させた大事件もかずかずあるが、昭和二十八年九月二十日の夜、寺坂巡査によって発見された、病院坂の首縊りの家におけるあの生首風鈴事件ほど、奇妙で、おどろおどろしくて、しかも|酸《さん》|鼻《び》をきわめた事件はなかったであろう。  昭和二十八年といえば朝鮮戦争も終結し、数年間にわたって日本人のうえに大きくのしかかっていたGHQも引きはらい、日米安全保障条約という制約はあるものの、主権が日本人の手に返還され、ようやく人心も安定してきたころおいであった。その年は世間が不景気で、大学の卒業生なども就職に難渋しなければならなかったけれど、それでもなおかつ経済的に自立しうる|目《め》|途《ど》もつき、終戦直後二、三年間のあの|暗《あん》|澹《たん》たる人心の荒廃はもう過去のものになっていた。  それだけに酸鼻をきわめたこの生首風鈴事件の、世間にあたえた衝撃は大きかった。いったいバラバラ事件だの首無し死体事件が、世間に大きなショックを与えるのは、そこに健全な人間の神経を|逆《さか》|撫《な》でするような要素があるからであろう。ましてやこの事件の場合、|挽《ひ》き切った生首を風鈴になぞらえてぶらさげてあったというのだから、ひとびとが|唖《あ》|然《ぜん》たるものを感じたのもむりはない。世間やマスコミが騒然としたのも当然であった。  それにもかかわらずこの事件は、捜査当局の必死の努力もむなしく、未解決のままあとに残されたのである。いや、いちおうは解決を見たことになっているのだけれど、それはいかにも歯切れの悪い、後味のよろしくない種類のもので、あとにはかずかずの疑問が残され、それが真に解決をみるまでには、じつに二十年ちかくの歳月を要したのである。  しかし、ここには昭和二十八年の事件が、どのような経過をたどって、どういう|曖《あい》|昧《まい》な解決で満足しなければならなかったか、その|顛《てん》|末《まつ》をひととおり語っておかねばなるまい。  この世にも驚くべき事件について、寺坂巡査から所轄の高輪署へ電話がはいったのは、その夜の十一時半ごろのことだったが、金田一耕助はちょうどそのときその場に居合わせたのである。  その夜七時ごろ高輪台町の本條写真館を立ち去ったかれは、途中夕食をしたためたのち、ふと高輪署へ寄ってみる気になった。本條写真館と高輪署は目と鼻のあいだといってもよい距離である。ところが八時ごろ高輪署へ立ち寄ってみると、本庁から等々力警部も来合わせていて、署内は沸きに沸いていた。二か月ほどまえ高輪署の管轄内で起こって、しかも捜査の難航を思わせていたさる殺人事件が、急転直下、その夜めでたく解決したとやらで、本庁から等々力警部も駆け着けてきて、ビールで乾盃しているところへ、ひょっこり金田一耕助が顔を出したというわけである。  その事件に金田一耕助は直接関係していたわけではなかったが、本庁での捜査担当者が等々力警部だったので、警部から相談をうけて二、三思いついた点についてアドバイスをしておいたことがある。けっきょくそれが決め手となったとやらで、高輪署の捜査主任真田警部補の感謝感激たるや非常なものであった。おかげで金田一耕助も署内の興奮の|渦《うず》にまきこまれ、うかうかしているうちに十時を過ぎてしまった。  さすがに十時も過ぎると署内の興奮もだいぶん収まり、金田一耕助もそろそろお|暇《いとま》しようとしていると等々力警部が引きとめて、 「それはそうと、金田一先生、混雑にまぎれていままでお尋ねするひまもなかったんですが、いつかついこのさきの本條写真館の倅が、お宅へ訪ねていきやしなかったですか」 「そうそう、あれ、警部さんがわたしのところへまわしてくだすったんでしたね」 「そうそう、病院坂の首縊りの家で奇妙な結婚式があったという話……」  と、真田警部補も話の仲間にくわわってきた。 「あれ、妙な話だと思ったんですが、なにしろこちらは今度の一件で|血眼《ちまなこ》だった時分でしょう。そこで警部さんの発案でお宅へいくようすすめたんですが、あとでわかったところによると、あれはちょっとおかしいと思うんですよ」 「おかしいとおっしゃると……?」 「いや、本條直吉という男の話がおかしいというんじゃなく、あの晩……あれは先月の何日の晩でしたかね」 「八月二十八日の晩のことだそうです」 「ああ、そうするとあの男、ほんとにお宅へお伺いしたんですね」 「ええ、来ましたよ。大森のほうへ。あれは九月の七日でしたから、病院坂の空家で奇妙な一件があってから、十日ほどのちのことですがね」 「あれは当人はどちらでもいいと思っていたのを、おやじが|堅《かた》|物《ぶつ》でこんなこと頬っかむりをしていて、あとでなにか問題が起こったとき、巻き添えをくっちゃかなわないと、倅にすすめて届け出させたらしいんですね。わたしの受けた印象はそうでしたね」 「そういえばわたしの受けた印象でも、写真屋の倅にしちゃいやにふてぶてしいと思ったな。ときどきひとの顔色をチラッチラッと|窺《うかが》うくせがあって……。当人なにかうしろ暗いことでもやっているんじゃないかと思ったもんだが……」  等々力警部も感想をのべている。どちらにしても高輪署における本條直吉の印象はあんまり|芳《かんば》しいものではなかったらしい。 「それにしても真田さん、あれちょっとおかしいとおっしゃったのはどういうことなんですか。それも本條直吉君の話がおかしいというんじゃなく」 「ああ、そうそう、そのこと……あの病院坂へんいったいはわが署の管轄内になっていて、あの坂のうえに派出所があるわけです。そこに詰めてる、あれ、なんとかいったな、あの若い巡査……」 「寺坂巡査でしょう。寺坂吉蔵巡査」  そばからニコニコしながら助け舟を出したのは、金田一耕助もお馴染みの加納刑事である。高輪署の管轄内には四十七士で有名な泉岳寺があるし、寺坂吉右衛門の子孫みたいな名前だから、加納刑事も憶えやすかったのであろう。 「そうそう、その寺坂巡査が問題の晩、あのへんをパトロールしてると、空家のなかから騒々しいジャズの音が聞こえていたというんですね。本来ならばそこで寺坂巡査、なかへ踏みこんで点検すべきです。ところがこう見たところ門灯もついてるし外灯もついてる。それのみならず家中|煌《こう》|々《こう》と明りがついている。それにその日の午後、トラックが出たり入ったりしているのを見ているものだから、おやおや、妙な住人が引っ越してきたもんだなと思いながら、そのままそこを通りすぎてしまったといってるんです」 「ほほう、そんなことがあったのかね」  と、等々力警部は眉をひそめて、 「そうすると本條写真館の倅のいうことも、まんざらデタラメではなかったんだね」 「そうじゃなさそうですね。そこでこちらもなんとか手を打たにゃと思ったんですが、なにせ今度の事件が詰めの段階に入って手一杯でしょ。それでいままでうっちゃらかしておいたんですが、金田一先生はその後調査を進められたんですか」 「はあ、それは調査費として大枚の内金を|頂戴《ちょうだい》したもんですからな、お得意さんは大事にしなきゃいけませんや」 「それでなにか出てきましたか」 「いやね、警部さん、この調査はわりにかんたんだったんです。本條直吉君はジャズの音はきいていないんです。高らかに鳴りわたるトランペットの音は聞いたといってましたがね。しかし、登場人物全体の風貌からして、ジャズの連中じゃないかと、わたしにサジェストしてくれたんです。それも人数の関係からしてフル・バンドではなく、コンボであろうと|狙《ねら》いをつけたんですね。その線で|手《た》|繰《ぐ》っていくとわりにかんたんに割り出せましたよ。そこできょうは本條写真館に調査報告書を提出してきたついでに、こちらへお寄りしたというのは、加納さんにご挨拶しときたいと思ったもんですからね」 「先生、あの一件ですか。山内敏男と妹の小雪……あのふたり、その後消息がわかりましたか」 「なんだ、なんだ、加納君、その山内敏男と小雪というなあ」  等々力警部はわざと目玉をくりくりさせて、身を乗り出すと、 「いやね、加納君、この金田一先生というのは油断がならない。われわれを裏切ったりはなさらないが、ときどきヒョコッとお出しになるヒントを、うっかり聞き流していると、あとでそれが重大な意味を持ってくる、そういうことがしょっちゅうあるんだ。だからこのひとを相手にするときはよっぽど眉毛に唾をつけて、根掘り葉掘り問いただしておく必要があるんだ。で、山内敏男と小雪というのはどういう人物なんだね」 「あれ、じゃ警部さんはご存じなかったんですか。だってわたしに金田一先生をご紹介なすったのは警部さんなんですぜ。いつか、ほら、本庁から電話をかけてこられて、これから金田一耕助という人物がそちらへ出向いていくから、なんでも質問に答えてあげなさいとおっしゃったのはあなたではありませんか。あれは八月の……」 「二十一日でした」  金田一耕助はいとも明快に答えた。  この一件では日付けが非常に重大な意味を持ってくる。だから金田一耕助の脳裡にはそれぞれの日付けが明細に記入されているらしい。その日、金田一耕助は法眼弥生から山内敏男、小雪きょうだいの行方捜索を依頼されたのである。 「そうそう、そんなことがあったな。しかし、おれは金田一先生が君になにを訊きたかったのかそこまではしらんよ。そこまでいうひとじゃないからな、このひとは」 「それにあれは電話でしたからね」  金田一耕助がはぐらかすように笑った。  そこでいきおい加納刑事が話さざるをえない立場に立った。かれは必ずしも雄弁とはいいにくい、ことにこういう上司のまえでは。それでもだいたいの意を尽すと、 「いやね、警部さん、わたしもその話なら加納から聞いていたんです。そのとき変に思ったのは、法眼病院の未亡人がなんだっていまごろになって、そのきょうだいを捜す気になったのかと思ってね」  その疑問は金田一耕助にとっていちばん痛いところである。しかし、そればかりはいえなかった、たとえ相手が等々力警部であったとしても。金田一耕助のような職業に従事しているものにとっては依頼人は神様である。神様を裏切るわけにはいかないではないか。 「いやね、真田さん、あなたのおことばですがね、法眼家の未亡人はいまになって、急にあのきょうだいを捜しはじめたというわけじゃないらしいんですね。二十二年の一件以来、たえずぼくの同業者みたいな人物をつかって、きょうだいの行方を捜索していたらしい。ところがみんなそれに成功しなかったというのは、きょうだいのほうで先手先手をうって、行方をわざと|晦《くら》ましていたらしいんですね」 「ところが、金田一先生はそれに成功されたとおっしゃるんですね」 「さすがはといっていただきたいところですが、そいつがさにあらずでしてね。これひとえに本條直吉先生のおかげでさあね」 「と、おっしゃると……?」 「いえね、法眼未亡人から山内きょうだいの行方捜索を依頼されたでしょう。そのとき未亡人がひとつのヒントを与えてくだすったんです。そのヒントを手繰っていっているうちに、本條直吉君からあの首縊りの家における奇妙な結婚式について、調査を依頼されたでしょう。しかも、当夜の花婿さんの愛称がビンちゃん、花嫁さんのそれがコイちゃんらしいって、これまた直吉つぁんの説なんですがね。ところで法眼未亡人の話によると、戦災で亡くなられた法眼琢也先生は、敏男君を非常に愛していられて、ビンちゃんとかビン公とか呼んでいられたそうです。そのおなじビンちゃんじゃないか。するとコイちゃんというのはコユちゃんの|訛《なま》りで、これ即ち小雪ちゃんのことじゃないかと、これ推理ってほどのことじゃありません、まあ、カンぐってみたんですね。しかもみんなジャズの連中らしいとあっては、捜査の範囲はうんと限定されてまいりましょう。で、とうとう居所を突きとめたってわけです。だからこれすべて本條直吉さんのおかげで、さすがは金田一先生と賞めていただくわけにゃいかないってことは、さっきも申し上げたとおりです」 「そうすると、金田一先生」  と、真田警部補は身を乗り出して、 「山内きょうだい……と、いっても全然血のつながりのないきょうだいということは、さっきの加納君の説明によっても明らかですが、そのきょうだいが年頃になって夫婦になった、と、いうところまではよいとして、なぜまたあんな空家で式をあげ、そこをまたわざわざ写真にとらせたんです」 「それは、主任さん、こうじゃありませんか」  金田一耕助が答えるまえに加納刑事が口を|挟《はさ》んだ。 「小雪の生母のお冬さんという女が、首をくくって死んだおなじ場所で結婚式をあげた、そこを本職の写真屋に写真をとらせたというのは、おそらくその写真を法眼家へ送ったのでしょう。つまりそれが小雪という娘のせめての抵抗、いわば悲しき抵抗なんじゃないですか。お冬さんの死は法眼家にたいする憤死ですからね。金田一先生、そうじゃないんですか」 「もちろん加納さんのおっしゃるとおりでしょう」  諸君もすでにご存じのとおり、金田一耕助は当夜の花嫁を由香利ではなかったかという強い疑惑をもっている。しかし、それはここでいうべきことではなかったし、また多門修をつかって「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」のメンバーの意見に探りを入れてみたところ、みんなその夜の花嫁を小雪だと信じこんでいるようだし、本條直吉もおなじ意見のようである。またその後敏男と小雪が夫婦生活をつづけていることも事実らしいし、そのことがいまだに「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」のメンバーのあいだで、物議を|醸《かも》しているようだという多門修の報告もある。  だいたい、由香利と小雪が|瓜《うり》ふたつだなどとはだれが考え出したことであろうか。あれは自分の錯覚ではなかったかと、金田一耕助はふかく反省している。金田一耕助は由香利をたったいちどだけ、それも日比谷の歓楽街の雑踏のなかで、ゆきずりに|瞥《べっ》|見《けん》しただけのことである。また小雪にだっておなじことがいえるのである。舞台化粧の小雪はふだんの顔とちがっていたかもしれないのである。 「ときに、真田さん、あの本條写真館というのはどういうんです」 「どういうとおっしゃいますと?」 「いえね、さっき報告書を持って立ち寄ったんですけれど、ずいぶん古い店のようですね」 「そうそう、ぼくもときどきあの店のまえを通るんですが、ショウ・ウインドウのなかを|覗《のぞ》くとずいぶん古い写真が陳列してありますね。明治から大正昭和へかけての。まるで風俗画報みたい」  加納刑事が|相《あい》|槌《づち》を打った。 「創業が明治二十五年とかいってましたよ。そうすると東京にあるあの種の写真館としても、一番古い部類に属するんじゃないでしょうかねえ」 「しかし、金田一先生、それがなにか……?」  等々力警部は|訝《いぶか》しそうな眼で金田一耕助の顔をうかがっている。 「いやあ、別にね」  金田一耕助は言葉を濁したが、かれはあの主人にたいしても淡い疑惑をもっている。さっき見た法眼病院のあの三枚の写真は明らかに、主人がしらぬまにあの|賢《さか》しらだった房太郎という若者が、かってに飾っておいたものにちがいない。それが自分の眼にふれたということについて、あの主人は当惑のいろがかくしきれなかった。それでいてあくまで当惑の|表《い》|情《ろ》をかくしとおして、わざと平静をよそおおうとしたのはなぜだろう。  金田一耕助はそこでなにげなく腕時計に眼を落として、 「あれ! もうこんな時間ですかあ」  まさにそのとおり、腕時計の針は十一時三十分を示している。 「いや、こ、こ、これはどうも失礼しました。お疲れのところを話し込んじまって」  そのときである、電話のベルが鳴り出したのは。真田警部補が受話器を取り上げて、 「ああ、こちら高輪署だ。ええ、ぼく? 真田警部補だ。ああ、君かあ、病院坂上の派出所勤務の寺坂巡査だね。いま、君の噂をしていたところだ。えっ、なに……? おい、おい、なにをそんなに興奮してんだ。君のいうことはさっぱりわからんが……えっ、な、な、なんだってえ! びょびょ、びょ、病院坂の首縊りの家に生首がぶらさがっているう!」  とたんに金田一耕助は二重廻しのボタンをはめかけた手をとめて、ギクッとしたように電話のほうをふりかえった。 「おい、おい、君、それほんとうなんだろうね。え、なんだって、……キンダイチコオスケえ……うん、その人物ならよく存じあげている。……それが……な、な、なんだってえ……うん、うん、その生首のぬしは金田一耕助なるひとがよくしってる人物だってえ、……だ、だれがそんなこといってるんだ。本條写真館の倅が……? じゃ本條直吉もそこにいるのか。それで被害者はいったいだれなんだあ……なにィ、ビンちゃんこと山内敏男……うん、よし、すぐいく。しかしこれがデタラメだったら、てめえ|譴《けん》|責《せき》もんだぞお」  受話器をおいたとき真田警部補の額にぐっしょり脂汗がにじんでいたのは、必ずしも密閉された部屋の空気のせいではなかったであろう。 「金田一先生、お聞きのとおりです」  真田警部補は射すくめるような眼を、真正面から金田一耕助のおもてに注いで、 「寺坂巡査のことばは|支《し》|離《り》|滅《めつ》|裂《れつ》で、いっこう要領をえんのですが、それでもだいたいのことはおわかりのことと思います」 「よ、よ、要するに、ビ、ビ、ビンちゃんこと山内敏男が殺害されて、その、な、な、生首が、びょ、びょ、病院坂の首縊りの家に、ぶ、ぶ、ぶらさがってるってことですね」  金田一耕助がかくも|吃《ども》るのは、かれの興奮がいかに大きいかということである。 「金田一先生はその話を信じますか」  金田一耕助のおもてに注ぐ等々力警部の瞳にも、鋭くかつ厳しいものがあった。 「信じます。だって寺坂巡査がぼくの名をしってるはずがないじゃありませんか。ぼくはそれほど有名じゃない。さっそく|支《し》|度《たく》をなすったらいかがですか、出掛けるために」  かくて、金田一耕助は自分が苦しい立場に立たされたことを自覚せずにはいられなかった。かれとしては由香利の誘拐一件は、できるだけ伏せておきたい肚なのである。依頼人の利益と名誉を守るためにも。      二  それから十分ののち、この事件の捜査班の第一陣とともに、そうでなくともあの荒廃した病院坂の首縊りの家へ駆け着けてきた金田一耕助は,荒涼たるホールのシャンデリヤの鎖の尖端に、ただひとつぶらさげられたビンちゃんこと山内敏男の生首を仰ぎ見たとき、恐怖よりもむしろ|粛然《しゅくぜん》として、|襟《えり》を正さねばならぬような深い感動にうたれざるをえなかった。  いかなればこそこの若者は、かくも残酷な運命に遭遇しなければならなかったのか。  この若者は幼にして母を失い、まもなく父のもとに後添いとして入ってきた、お冬なる女性の手によって養われた。幼きかれはお冬なる女性を実母のごとく慕いかつ愛された。まもなくかれは父をうしなった。しかし、お冬なる女性はかれを見捨てようともせず、この血もわかたぬ|幼児《おさなご》を抱いてどのような苦労をもいとわなかった。と、いうことはお冬なる女性の善良さもさることながら、この幼児にもどこか愛らしく、可憐なところがあったのではないか。しかし、不幸にもそのお冬なる女性は生活能力に欠けており、自立心にも乏しかった。そこへ現われたのが法眼琢也である。弥生というひと一倍生活力旺盛な妻をもった琢也は、そういうお冬に心をひかれていったのではないか。まもなくお冬は琢也のために|池《いけ》の|端《はた》へかこわれる身となったが、それでもなおかつこの若者を、突きはなそうとしなかったのは、よほどかれを愛していたからであろう。琢也もまたふかくこの若者を愛したという。まもなく琢也とお冬のあいだに小雪という娘がうまれたが、それでもなおかつ、だれもこの若者を邪魔もの扱いにはしなかったらしい。これほど不幸な星の下にうまれながら、これほど幸福な若者も珍しかったであろう。それが急転直下、このうえもない不幸におちいったのは、ひとつには戦争のせいもあったろうけれど、もっと大きな原因は琢也の優柔不断のせいではないか。琢也はなぜ小雪の立場をもっとしっかりしたものにしておかなかったのか。金田一耕助は卒然として、暗い穴の入口を覗いたような気にならずにはいられなかった。法眼家にはまだまだ自分ごときの|窺《き》|知《ち》しえない、複雑にして怪奇なる事情がどすぐろく沈澱しているのではないか。 「金田一先生、わたしはいまこういう|台《せり》|詞《ふ》を思い出していたんですがねえ、あれはなんの台詞でしたかねえ。人間の胴体から切りはなされた男の生首ほど無気味なものはない……」 「サロメですよ。サロメのヘロド王の台詞です。わたしもいまこの生首をみて、サロメのことを思い出していたところなんですがね」 「そうそう、サロメ、サロメ、わたしは昔松井須磨子で見たことがある」 「あっはっは、ずいぶん古いことをおっしゃいますね。そんなことおっしゃるとおトシがしれますよ」 「違いない。しかし、金田一先生、ヨカナーンの首は銀の|楯《たて》にのってあらわれるんですが、この生首はなぜあんなところにぶらさげてあるんでしょう、まるで風鈴みたいに」 「それはぼくにもわかりません。この男……この生首のぬしなる人物が風鈴なるものに、ひどく愛着をもっていたことは事実のようです。その事実はいずれあとでお話しますがね」 「それでこの男、ビンちゃこと山内敏男なる人物にちがいないんですね」 「それは絶対に間違いありません。いかに生き顔と死に顔とは変わるといってもね」 「ところでさっきは聞き洩らしたんですが、先生はこのこと……山内敏男とその妹の小雪を発見したということを、法眼家へご報告なすったんですか」 「いいえ、まだ」 「どうして? 本條写真館のほうへはきょう報告書を持っていかれたんでしょう」 「それはねえ、警部さん、むこうにいる本條直吉君に頼まれたのは、自分をまんまと一杯|嵌《は》めこんだ|怪《け》しからん連中を調べてほしいということでしょう。わたしはそれを調査し、捜し出したもんですから、さっそくご報告にあがったわけです。ところが法眼家の依頼はそうではなかった。法眼琢也氏の妾腹の娘小雪なる女性と、その女性ときょうだいとして育てられた山内敏男なる人物を捜してほしいということでしょう。わたしはたしかにそれと|覚《おぼ》しいきょうだいを発見しました。しかし、それが果たして法眼未亡人の捜していらっしゃるふたりだかどうか、もうひとつ確証がないんですね。むこうに『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』のメンバーがひとりいます。その男はギターを担当している、屁っぴり腰の平ちゃんこと吉沢平吉君というんですが、吉沢君にきいてごらんなさい。ふたりをタネちがいのきょうだいとばかり思いこんでいるようですからね」  屁っぴり腰の平ちゃんは寺坂巡査の怪力で、往復ビンタを食わされて、やっと|覚《かく》|醒《せい》したそうであるが、まだショックから覚めやらぬとみえ、|壁《かべ》|際《ぎわ》に立ってフラフラしている。少しはなれたところに本條写真館の三人が、いとも厳粛な顔をして|佇《ちょ》|立《りつ》していた。  本庁から応援の捜査員や鑑識が駆け着けるまで、現場には手をつけぬほうがよかろうということになり、屁っぴり腰の平ちゃんが覚醒している以外、そこは寺坂巡査がとびこんできたときのままなのだが、天井からぶらさがっている生首をべつとしても、その部屋全体が凄惨をきわめているのである。大きな血溜まりは生首の真下だけだったけれど、部屋全体に血の飛沫がいちめんに散乱している、床といわず壁といわず。まるで逃げまわるものを何者かが追っかけまわして、小さな刃物かなにかで小突きまわしたかのように。これでみると被害者は全身傷だらけだったにちがいない。 「そうだ、そういえば体のほうはどこにあるんだ。首から下の胴体はどこにあるんだ」  真田警部補が思い出したように、あたりを見廻しながら大声でわめいた。それにたいして答えたのは寺坂巡査と交替に、現場へ駆け着けてきた|葉《は》|山《やま》巡査である。 「ぼくこのひとたちならよくしってるんです。本條写真館ならうちの署のすぐちかくですからね。だから逃げる心配はないと思ったものだから、ひととおり家のなかを調べてまわったんです。ところがどこにも首から下の胴体が見つからんのです」 「なんだとお、首から下の胴体が見つからんとお」 「いや、それはほんとうなんです。ぼくも電話をかけて引っ返してくると、葉山さんといっしょに調べてまわったんですが、どこにも胴は見つからんのです」 「もっともこの暗さですから、庭の隅々まではまだ眼がいきとどきませんけれどね」 「胴がない……? 胴がない……? じゃ、犯人は首だけのこして胴のほうを持ち去ったというのかあ」  真田警部補は堅ぶとりとはいえ肥満型で、血圧の高そうな体質だが、いまや両のこめかみに血管がミミズのように怒張している。満面に朱をそそいでいることはいうまでもない。 「それから、主任さん、この事件には女がからんでいるんですぜ」 「それはどういうこった」 「ちょっとこっちへ来てみてください」  一同が案内されて覗きこんだのは、いつか金田一耕助が私を発見した六畳である。そこには|艶《なま》めかしい夜具が敷いてあり枕がふたつ、しかも掛け蒲団はひんまくられており、敷布が大きく乱れているのは、そこで男と女の大格闘が演じられた証拠であろう。 「あの枕のひとつのカバーをみてください。髪の毛が一本まつわりついているでしょう」 「そ、それじゃこの事件の犯人は女だというのかい。女が男を殺し首を切り落とし、胴だけ持って逃げたというのかあ」  とうとう真田警部補が大雷を落としたが、そのときそばから哲学者みたいな顔をして、もっともらしく|呟《つぶや》いたのは等々力警部である。 「犯人であるかどうかはべつとして、この事件に女がからんでいるのは理の当然だろうな」 「どうしてですか、警部さん」 「だって、あそこにヨカナーンの首がある以上、どこかにサロメがいるはずだからね。わっはっは」  もしそのとき本庁から応援の捜査員や、鑑識の連中が駆け着けて来なかったら、高血圧の真田警部補はこの上司にむかってまっこうから、噛みついていたにちがいない。      三  なるほどヘロド王も指摘したとおり、人間の胴体から切りはなされた男の首ほど無気味なものはない。金田一耕助とてなんの予備知識もなしに、いきなりあの生首をつきつけられたら、おそらく驚倒していたことだろう。屁っぴり腰の平ちゃんみたいに失神とまではいかなくとも、心身ともにバランスを失って相当の醜態を演じていたにちがいない。しかし、寺坂巡査の電話の報告によって、かれはあらかじめいかなる事態に直面しなければならないかを、覚悟することができていたのである。それにもかかわらずかれはあの生首の下にまで歩を運んだとき、寸時たりともあの恐ろしきものから眼をはなすことができず、相当の時間|佇《ちょ》|立《りつ》して身動きすることができなかったのである。  金田一耕助をかくも圧倒し、かれを心身ともに金縛りにしたのは、眼のまえにぶらさがっているその恐ろしきものよりも、そのものをかくも|残虐《ざんぎゃく》な運命におとしいれたその|背景《バ ッ ク》の恐ろしさである。そのときかれの脳裡をかすめてとおったのは、九月七日の夜キャバレー・サンチャゴの雛壇から見た、由香利と小雪の世にも恐ろしい対決である。つぎに耳底によみがえってきたのは、由香利にむかって奏せられたビンちゃんの、あの|嘲《あざけ》るようなトランペットの音色である。ビンちゃんとてもおそらく将来は、ハリー・ジェームスみたいな名トランペッターになりたいと、精進おさおさ|怠《おこた》らなかったにちがいない。  そのビンちゃんはいま生首となって眼のまえにぶらさがっている。なにがビンちゃんの運命をかくも大きく狂わせたのか。金田一耕助はビンちゃんとコユちゃんの出歴を追究するに急なるあまり、その後の三人の|軋《あつ》|轢《れき》を監視することを怠っていたことにたいして、いま|臍《ほぞ》を|噛《か》む想いが痛烈なのである。しかし、さすがの等々力警部もそこまで相棒の動揺を、読みとれなかったのは幸いであった。金田一耕助にはあくまで依頼人との約束を守る義務がある。  本庁から応援の捜査員や鑑識がおおぜい駆けつけてきたのを機会に、一同は隣の洋間へ退いた。さいわい電気はきていたし、椅子テーブルもある。そこでとりあえずそこを取り調べ室として、本條写真館の三人や屁っぴり腰の平ちゃんが、ひとりひとり呼び入れられて訊き取りが行なわれることになった。  まずさいしょに呼び入れられたのは本條徳兵衛だったが、ここで訊き取りの模様を詳しく描写するのは控えておこう。それはさきに述べた事項の繰り返しにすぎないのだから。  徳兵衛は十時半ごろ女から電話がかかってきた前後の模様を語ってきかせ、それはたしかに八月二十八日にやってきた女にちがいないと思われると付け加えた。  徳兵衛といれちがいに呼びこまれたのは直吉である。かれはそこに控えている金田一耕助を見るとかるく|会釈《えしゃく》をしたが、以前のふてぶてしさはもうそこにはなく、ひどく態度が神妙なのが金田一耕助の注目をひいた。今夜のことがよっぽどショックだったのだろうか。  かれもまたことば少なに徳兵衛からひきついだ、電話の内容について語ってきかせ、やはり八月二十八日の夜ここで結婚式をあげた女だと思われると付け加えた。  さいごに房太郎が呼び出されたが、かれは電話に出たわけではないので、その点について言及するわけにはいかなかった。  もういちど徳兵衛と直吉が呼び込まれ、真田警部補から鋭い質問の矢を浴びせられた。 「なるほど、その女の声があまりにも|陰《いん》|々《いん》|滅《めつ》|々《めつ》としていたので……なに? ときどきすすり泣いているのではないかと思われたあ……? なるほどそこへもってきて時刻も時刻、注文の内容も内容なので、いささか薄気味悪く思われたので、三人いっしょにここへやってきたというんだな」 「はあ、そのとおりでございます」 「それで君たちはまっすぐにこの家へきて、隣の部屋で女のいった風鈴なるものが、いかなる種類のものであるかに気がついたわけだな」 「いえ、そのまえにちょっと……われわれがこの家のまえまで来たとき、男がふたりこの家のまえに|佇《たたず》んでおりましたが、われわれが坂をのぼってくると、坂上のほうへ逃げていきました」 「それはどういう風体の男たちだ」 「いえ、その連中だろうと思うんですが、われわれのあとから忍び込んでまいりまして、われわれがなにを撮影しているかと気がつくと、ひとりは気が狂ったようになって逃げ出し、ひとりは恐怖のあまり気絶してしまいまして……それがいま隣の部屋にいる男でございますんで」 「よし、その話ならあとでその男にきこう。では重ねてきくが、隣の部屋で風鈴というのがいかなる種類のものであるかと気がついたとき、君たち三人はどうしたんだ」 「それは驚きましたよ、旦那、肝っ玉がでんぐり返りそうだったといってもいいすぎではございますまい。しかし、三人いっしょだったのでわりに気強かったんでございますね。それでさっそくショウバイに取りかかりましたので」 「ショウバイというのは生首を写真に撮ることかあ!」 「はあ、それがお客様のご注文でございますから。お代のほうも約束どおりちゃんと風鈴……いえ、あの、生首のしたにおいてございましたんで」  徳兵衛はレーン・コートのポケットから西洋封筒を取り出してその場においた。それはどこにでも売っていそうな平凡な白地の西洋封筒であった。封が切ってあるので真田警部補が、指紋に注意しながらも内容を調べると、相当使い古した千円紙幣が十枚。 「そうすると写真の届け先はどういうことになるんですかねえ」  金田一耕助はそばで|仔《し》|細《さい》らしく首をひねっている。 「ですからあとでそのことは、電話ででもお指図があるんだろうと思っていたのでございます」 「馬鹿野郎、あんな|酷《むご》たらしい写真をこれこれしかじかのところへ送り届けてほしいと、あとでいってくると思ったのかい」  高血圧の真田警部補は、いまにも高血圧の発作が爆発しそうな声音である。 「いえ、それはほんとうなんです」  倅の直吉がオズオズとそばから口を挟んで、 「そうでなきゃわれわれに、写真を撮らせた意味がありませんからねえ。そうしたらさっそく警察へお|報《し》らせしようといってたんです」  ここにおいて真田警部補はついに高血圧を爆発させて|喧《わめ》きに喧いた。 「馬鹿野郎、おまえたちにはこれがいかに重大事件だということがわからなかったのかあ。それがわかったらなぜすぐに交番へ届け出ねえんだ」  この警部補の怒りももっともなのだ。いま隣室でさかんにシャッターが切られているのはあの生首を、あらゆる角度から撮影しているのだろう。さいわい電気がきているので、持ち込んできた照明器具で、この廃屋はいまや|煌《こう》|々《こう》たる照明のなかに|晒《さら》しものにされているのである。庭のほうまで真昼のごとく明るくなっているのは、首から下の胴体捜索にやっきとなっているのであろう。 「それでおまえたちは写真を何枚撮ったんだ」 「はい、五枚撮影いたしました。それだけしか乾板の用意がなかったもんで」  徳兵衛が神妙に答えた。 「よし、それは全部こちらへ押収する。いいな、わかったな」 「はあ、それはけっこうでございますが、ご用済みになりましたらお下げ渡しを願いたいんで。わたしどもとしてはせっかくの写真でございますから、記念にとっておきたいんで」 「あっはっは、旦那は|蒐集《しゅうしゅう》癖と整理癖とにとんでいらっしゃる。何年かたつと昭和二十八年秋の大事件の記念写真として、あのショウ・ウインドウにお飾りになるつもりですか」  金田一耕助のこの皮肉はかなり効いたらしく、さすがの徳兵衛もことばにつまって眼をシロクロさせている。 「真田さん、わたしにもひとことふたこと、このひとたちに質問させていただけませんか」 「さあ、さあ、どうぞ。この一件は先生のほうが万事先口でいらっしゃいますからね」 「いや、どうも」  と、金田一耕助はもじゃもじゃ頭をペコリとひとつさげておいて、 「若旦那にひとつお訊ねしておきたいんですが、あなたあの生首をごらんになったとき、ひとめで相手がだれだかおわかりになったんじゃないですか。ああいう異形のもちぬしですから」 「はあ、そ、それはわかりました」 「どういうふうに?」 「はあ、問題の晩、つまり八月二十八日の晩、ここで奇妙な結婚式を挙げた花婿さんのほうだってこと……」 「つまりビンちゃんなる人物ですね。ところでお父さんも房太郎君も二度ビンちゃんなる人物に会ってらっしゃるはずです。八月二十八日の晩、若旦那をお迎えにきたときと、九月三日の夕方四時ごろ若旦那の留守に写真を取りにきたときと……?」 「へえ、そうおっしゃれば……」 「すると三人とも、生首のぬしがだれだかおわかりになったと思うんですが、ひょっとするとあなたがた、ことにお父さんはこのビンちゃんなる若者と、この家の持ちぬし、法眼家との関係をご存じなんじゃありませんか。それでいっそう写真を撮っておこうとなすった」 「と、と、とんでもございません。それはまあ、ここで結婚式を挙げるくらいですから、法眼さんとなにか縁のある連中だろうとは思いましたが、それ以上のことは全然。ただ交番へ届けるまえに写真を撮りましたのは、これまったく商売気のいたすところで、こんな機会めったにないと思ったもんでございますから」  徳兵衛はいけしゃあしゃあとして、いささかも動ずる色がない。 「職業意識というわけですか。あっはっは、それにしても大した度胸でいらっしゃる。ときに直吉君」 「はあ、はあ」 「さっきお父さんをとおしてあんたに、ジャズ・コンボ『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』のメンバーの住所表を渡しておいたはずなんだが、あんたひょっとするとそこに持っちゃいない?」 「ああ、そうそう」  直吉はジャンパーのポケットを|探《さぐ》っていたが、すぐ封筒を取り出して、 「ちょうどおやじにこれを渡されて、読んでるところへ電話がかかってきたもんですから」 「ああ、そう、ありがとう。助かったよ、これで。ぼくもいちいち番地までは憶えちゃいないからね。いえね、真田さん、これが被害者サムソン野郎のビンちゃんこと山内敏男君のひきいるジャズ・コンボの全メンバーの住所氏名とニック・ネームなんですがね。ひとつ所轄警察へ電話をなすって、この連中をいちおう押えておかれたら。ただしギターの屁っぴり腰の平ちゃんこと、吉沢平吉君は隣の部屋にいるから大丈夫」 「やあ、こいつはありがたい。被害者の山内敏男と妹の小雪は五反田ですね。こいつを一番に手入れしなきゃ」 「それじゃ主任さん、ぼくがいってきます。坂上の派出所から電話をすればいいでしょう。ここは|今《いま》|西《にし》君に代わってもらいます」 「うん、じゃ、そうしてくれたまえ」 「ああ、ちょっと、加納さん」  と、金田一耕助が呼びとめて、 「あなた関係各署への連絡がおわったら、法眼家へ電話をかけておいてくれませんか。どうせこうして大勢マスコミさんが押しかけているんだから、あしたの朝刊でも遅い版には出るでしょう。あるいはマスコミさんが押しかけていくかもしれない。驚かしちゃお気の毒ですからね。なあに、寝ててもかまわない。起き出してくるまで電話をかけつづけるんですね」 「金田一先生は法眼家がこの事件に、何か関係があるとお思いですか」  等々力警部の瞳のなかにふいと|猜《さい》|疑《ぎ》の色がうかんだ。 「だって、ここ法眼家の持ち家ではありませんか。しかもかつてお冬という|薄《はつ》|倖《こう》の女性が、縊死をとげたおなじシャンデリヤの鎖のさきに、今度はこのうえもなくお冬を慕い、お冬に愛された若者の首がぶらさがってるんでしょう。これは二十二年の事件のつづきとみなきゃあなりませんね。法眼家とまんざら無関係とは思えませんよね」 「わかりました。法眼家の反応を試してみろとおっしゃるんですね」 「そうそう、できたら弥生未亡人のね。そのためにはあるていど事実をお話しになるのもやむをえないでしょう。そこはあなたの機転におまかせいたします」  金田一耕助は由香利の動静をしりたいのだが、それはここではいえなかった。時刻はまさに零時半、もう九月二十一日の朝なのである。雨はまだベショベショと降りつづいているが、どうやら今夜は徹夜になるらしい。      四  本條写真館の三人と入れちがいに、この臨時取り調べ室へ呼び込まれた、屁っぴり腰の平ちゃんこと吉沢平吉はすっかり|狂躁《きょうそう》状態におちいっていた。かれは取り調べ室へはいってくるなり、まるで|堰《せき》を切ったように|喋舌《し ゃ べ》りはじめた。|一《いっ》|気《き》|呵《か》|成《せい》といおうか、|一《いっ》|瀉《しゃ》|千《せん》|里《り》といおうか、かれはさながら奔流のごとく喋舌りはじめた。 「オレなんにもしんねえんだよう。オレなんにもしらねえんだよう。ケンタッキーの謙の野郎にそそのかされて、ちょっと様子を見にきただけのことなんだよう。あれはみんなテキサスの哲のやったことにちげえねえ。そおうだとも、そうだともよう。哲よりほかにあんなむげえことだれがすんもんか。哲はまえからビンちゃんを恨んでいたんだ。憎んでいたんだ。|嫉《や》いてやあがったんだ。二重の意味で嫉いてやあがったんだ。うちのコンボのリーダーシップを、ビンちゃんに握られちまったてえことをすごく嫉いてやあがったんだ。そこへもってきてコイちゃんのことがあるだろう。オレたちみんなコイちゃんに|惚《ほ》れてたんだ。すれっからしのスケならワンサといるけど、コイちゃんはべつなんだなあ。|情《じょう》があって、実意があって、だれんでも優しいんだなあ。だからみんなコイちゃんに夢中だったんだなあ。だけどよう、兄貴のビンちゃんがニラミを利かしてんでしょ。だからみんな指ィくわえて控えてたのさ。哲もそこで諦めれゃいいもんを、あいつは意地っ張りだし、コイちゃんに寄せる想いもひといちべえ強かったんだなあ。とうとうコイちゃんつかまえて、怪しからん振る舞いに及ぼうとしやあがった。そこへかのときはやくこのときおそく飛びこんできて、哲の野郎をぶん殴ったのがビンちゃんなんだなあ。あんときは驚いたなあ、おったまげたよう。だってよう、哲の左の目ン玉がトロンと飛び出してんだもんなあ。いつもは仏様みてえにニコニコしててさあ、めったに憤った顔もみせねえのに、いざとなったらあれだもんなあ。そこで仏のビンちゃん変じてサムソン野郎のビンちゃんてえことに相成った。それゃあ、まあ、いいんだが、そんあとでビンちゃんおかしなことをいい出した。コイはおれの女房にするなんてさあ、こちとらみんなアウト・ローだけどさ、まさかきょうでえでツルムなんて、そんなバカなことがと思ってたら、ビンちゃんほんとにやったじゃねえかよう。しかもこんうちでよう、花嫁姿のコイちゃん綺麗だったなあ。美しかったなあ。さすがに恥ずかしがって口もきかなかったけどさ、眼もすわってたけどさ、オレあんな綺麗な花嫁さんみたことねえな。そいでビンちゃんと哲のやつ、いよいよ仲が険悪になりゃあがった。だから、おとといの晩、ビンちゃんと哲、ここで決闘かなんかやりゃあがったにちがいねえんだよう」 「おとといの晩……? おとといの晩とはどうしてわかるんです」  高血圧の真田警部補が額に青筋立てて、ピリピリしているのを尻眼にかけ、金田一耕助が|間《かん》|髪《はつ》を入れず口を挟んだ。ことほどさように平ちゃんは早口であり、立板に水だった。 「だってよう、おとといの晩から三人とも姿をみせねえんだもん。ビンちゃんもコイちゃんも哲の野郎もよう。オレたち来月からまた仕事があるんだ。米軍のキャンプまわりをしなきゃなんねえんだ。だからよう、それまで毎日六時に五反田のギャレージへ集まって、ジャカスカ練習すんことになってたのよう。みっちりコイちゃんをシボロうってことになってたのよう。ところがギャレージ、ぴったり締まってて開かねえじゃねえかよう。そんな場合、一〇〇メートルほど離れたとこに喫茶店があんのさあ、モナミってえんだけど、そこで待ち合わせることになってんのよう。そいでオレいってみたら風ちゃんがきて待ってたよ。あいつは几帳面だからいつでも一番はやえのさ、それからまあちゃんと謙の野郎がいっしょにやってきて、さいごに哲がきたのが六時半ごろだったけどさ、哲のやつあはじめっからすっごく荒れてんのさ。六時半にもなってなぜギャレージが開かねえんだってよう。そいで謙公がなんべんも使いに走ったんだけどよう、七時になっても七時半になっても開かねえだろ。そんうちに台風はだんだん強くなってくるしさあ」 「あ、ちょっと」  またしても間髪を入れず口を挟んだのは金田一耕助である。 「それ、台風の晩のことなんだね」 「だからよう、おとといの晩といったろう」 「ところがいまはもう二十一日の午前一時ちょっと過ぎ。だから、正確にいえばさきおとといということになるね」 「そんなことどっちだっていいじゃあねえかよう。台風の晩のこったから忘れようたって忘れやあしねえよう。そいで七時半になってみんなでギャレージへ押しかけてみたところ、まえとおんなじでシャッターがピッタリ締まりっぱなし、裏へまわってみてもなかからちゃんと鍵がかかっててよう。おまけには雨はザーザー降ってくるし、風はビュービュー吹いてくるしさあ、そいで哲の野郎がすっごく腹あ立てゃあがって、ビンとコイの野郎、われわれをおっぽり出してどっかへシケコみゃあがったにちげえね、ただじゃおかねえ、見つけしだい殺してやる、ふたりとも殺してやるって、嵐の中を駆け出していきゃあがったが、それっきりだれも三人の姿を見たものがねえのさ。いい面の皮はこちとらで、馬鹿正直に毎晩六時にモナミへ集まるんだけどよう、ギャレージは台風の晩から締まりっぱなし、鍵はビンちゃんとコイちゃんが持ってるだけだろ。馬鹿馬鹿しいからオレ今夜は九時ごろちょっとモナミを|覗《のぞ》いてみたら、風ちゃんもまあ公もけえったあとで、謙の野郎がひとりでポカンとしてんだよう。そこで十時ごろまでダベってたんだけど、急に謙の野郎が病院坂のあのうち、つまりここだなあ、ここへいってみようといい出したのよう。オレいやだっていったんだけど、なにがなんでもつきあえ、そしたら途中でおもしれえ話聞かしてやるって。こちとらおケラだし馴染みのうちは借金だらけ、仕方なしに謙につきあったら、謙のいうのにあの台風の朝か昼か、マイアミのまあ公がビンの野郎に頼まれて、また電柱によじのぼって、電気に細工をしといたっていうじゃねえかよう。なるほど、それじゃこの家が怪しいてんで家んまえまでやってきたところが、謙公が急に臆病風に吹かれゃあがって、どうする、どうしようといってるところへさっきの三人づれがやってきやあがった。そこでオレたちいったん三人づれをやり過ごしたら、なんと三人でこの家へ入るじゃねえか。あれっと思って引き返してくるてえと、奥のほうでパッと閃光がひらめくじゃねえかよう。で、あれ、写真撮ってんじゃねえか、それじゃビンちゃんコイちゃんと、またご婚礼のやりなおしをしてんじゃねえかって、こっそり隣の部屋へ忍びこみ、写真屋がなんの写真撮ってんだろうと、レンズのさきを見たところ……」  そこで屁っぴり腰の平ちゃんは、屁っぴり腰をひいてはげしく|身《み》|顫《ぶる》いをしたかと思うと、とつぜんデスクのうえにわっと泣き伏した。 「オレしんねえ、オレなんにもしんねえんだよう。あれは哲がやったことなんだ。哲のやつがやりゃあがったにちげえねえ。オレはしらねえ、オレはなんにもしんねえんだよう」  どうやらこれで、平ちゃんの舌の廻転も終止符をうったらしい。  こうして訊き取りもいちおう終わったので、寺坂巡査と平ちゃんをその場に残してドアの外へ出ると、そこは昼をも|欺《あざむ》く煌々たる照明である。それだけにさきほどの陰惨な印象は|払拭《ふっしょく》されているが、この事件の持つ残酷さは、いっそうなまなましい現実感となって迫ってくるのである。こう見たところ、広いホールのなかいちめんが散乱する血の飛沫におおわれている。このことがその後長く謎として金田一耕助を悩ましつづけたのである。  屁っぴり腰の平ちゃんの説によると、ここでビンちゃんとドラムのテキサスの哲ちゃんとの決闘が行なわれたのであろうというが、ビンちゃんはサムソン野郎というニック・ネームがあるほどの怪力の持ちぬしである。哲ちゃんごときは一撃のもとに|斃《たお》せたであろう。それともここに飛散する血の飛沫は哲ちゃんのものであろうか。逃げまわる哲ちゃんを追いかけまわして、小刀かなんかで小突きまわしているうちに、なにかのはずみでビンちゃんが命を落とす羽目になったのであろうか。しかし、多門修の説によると、ビンちゃんにそのような残忍性があるとは思えないし、佐川哲也がたまたま落命したビンちゃんの首を切断して、風鈴になぞらえておくというのも|頷《うなず》けない。  それはさておき現場では写真班の活躍はもう終わったとみえ、鑑識の連中が部屋に銀灰色の粉末をいっぱいバラ|撒《ま》いていた。指紋採取におおわらわなのである。 「警部さん、ずいぶんひでえことをやったもんじゃありませんか。この事件の犯人はよっぽど残忍酷薄なやつにちがいありませんぜ」 「ふむ、まあ、せいぜい抜かりなくやってくれたまえ」  等々力警部は部下を|督《とく》|励《れい》しておいてホールの中央へ歩みよった。あのシャンデリヤの真下には高さ一メートルくらいの白布におおわれた台がおいてあり、台のうえの洋銀製の皿のなかにはビンちゃんの生首がのっかっている。それは宙にぶらさがっているときとはまた別な、おどろおどろしき|観《み》|物《もの》であった。それを取りまいているのは高輪署の嘱託医の|山《やま》|本《もと》先生と、大事件とみて本庁からとくにご出馬を懇請した|古《ふる》|垣《がき》博士とその弟子の|加《か》|賀《が》助手の三人である。古垣博士は等々力警部はもとより金田一耕助とも|昵《じっ》|懇《こん》のあいだがらであった。  博士は金田一耕助の|服装《み な り》をみると、眼尻に|皺《しわ》をたたえてにこにこしながら、 「金田一先生,しばらく。相変わらずですねえ、先生は」 「これはまたご挨拶ですね。これでもぼくとしては|一張羅《いっちょうら》のつもりなんですがね。いや、冗談はさておいて、ひとつまたよろしくお願い申し上げます。警部さんのためにも」 「それはそれとして金田一先生、あなたもふしぎなかたですね。厄介な事件にばかり介入なさる」 「古垣先生、それはあべこべでしょう。わたしが介入するとふしぎに複雑怪奇となり、やがて事件は迷宮入りをする」 「とんでもない、迷宮入りされてたまるもんかあ」  そばで息巻いたのは真田警部補、ごもっとも千万である。 「それより、先生、その生首、死後何時間くらい経過しているか、まだわかりませんか」 「そんなことなら山本君に聞いてみたまえ」 「はあ、それではわたしから申し上げましょう」  この高名な法医学者からみると、はるかに後輩にあたる山本医師は威儀を正して、 「古垣先生のご意見もだいたいおんなじなんですが、少なくとも死後四十八時間、あるいはもっと長くて五十数時間経過してるんじゃないかということになっています。詳しいことは先生がこれを研究室に持ちかえって、もっと綿密に調査してくださることになっているんですが……」  みないっせいに自分の腕時計に眼を落とすと、真田警部補が念を押した。 「そうすると、いまが二十一日の午前二時ですから、それから四十八時間を逆算すると十九日の午前二時、さらにそれから数時間さかのぼると、十八日の午後八時から九時、十時のあいだということになりますか」 「まあ、その見当だと思ってよろしい。いずれ詳しい報告書は等々力君のほうへ提出しておくがね」 「ところで、先生、首が切断されたのは死後どのくらいたってから……」  等々力警部の質問である。 「はあ、これも古垣先生とおなじ意見なんですが、死後一時間、あるいは二時間くらいのあいだだろうということになっています」 「死因は……?」 「それはわからんよ。首から下を見ないことにはね。そっちのほうはまだ見つからんのかね」  |新《あら》|井《い》刑事は本庁から出張してきた等々力警部の部下で、金田一耕助とも顔馴染みである。その新井刑事は全身泥だらけになっていましがたこっそりこのホールへ入ってくると、さっきからの一問一答をきいていたが、そのとき横合いから困惑しきったように口を挟んだ。 「それがいっこう見つからんのですよ。家のなかはもちろんのこと、外部の庭にもね。ここの庭相当広いことは広いが、草の根わけて捜すにゃ手にあまるってほどじゃねえのに、どっこにも見つからんばっかりか、穴を掘って埋めたって形跡も見当たらんのですな。夜が明けたらもういちど調べなおしますが、それでもなおかつ首から下がこの家になかったとしたら、金田一先生、これゃいったいどういうことになるんですい」  新井刑事は白い歯を見せながらも、金田一耕助にむかって|挑《いど》むような調子である。 「それゃそうだ、そうだとも。犯行の現場はハッキリこことわかっちょる。ここで人を殺して首を切断して、被害者の身許をくらますために、首を持ち去るというのなら話はわかるが、生首のほうはかくも|麗《れい》|々《れい》しくぶらさげておきながら、体のほうを持ち去るとは、これゃまたどういうこってごわす」  この肥満型の真田警部補は興奮すると、お里まる出しになる癖があるらしい。 「金田一先生、この被害者は小柄な男でしたか」 「とんでもない。警部さん、ぼくはいちどステージを見ただけなんですが、身長は五尺八寸を超えておりましょう。しかも肩幅の広い、胸板の厚い、非常にボリュームのある体をしていて、胸には|羆《ひぐま》のような毛が咽喉までビッシリ密生してましたよ。当人もそれがご自慢とみえて、|臍《へそ》までまる出しのタイツひとつでいつもステージに立つんだそうです。死体となったあのからだを持ち出すとなればたいへんな苦労ですよ。しかも、首のないやつをねえ。おそらくまださかんに血が吹き出していたでしょうからねえ」 「金田一先生、この被害者は法眼家になにか|由縁《ゆ か り》のあるもんですか」 「古垣先生、どうしてですか」 「いや、あんたはもう気がついているんだろうが、この生首の顎ヒゲのさきに、これ、こういう短冊がぶらさがっていた。父来たりぬ母いそいそと子らふたり、心まろやかに眠るなりけり。読みびとは天竺浪人。これからみると犯人は、この生首を風鈴になぞらえたものと思われるが、亡くなった法眼琢也先生に『風鈴集』という歌集があるのを、金田一先生はご存じかな」 「あっ、では先生は法眼琢也先生をご存じでしたか」 「いや、とくに|昵《じっ》|懇《こん》というわけではなかった。専門の分野がちがっていたからね。しかし、ひところおなじ学校で講座をもっていたから、ちょくちょく顔を合わせたもんだ」  それについて金田一耕助がなにか質問しようとしているところへ、坂上の派出所へ電話をかけにいった加納刑事が帰ってきた。足早にホールへ入ってくると、 「主任さん、警部さん、金田一先生もちょっと……」  顔色が変わっているので、三人はすぐそのそばへ寄っていった。加納刑事はその三人をホールの隅にみちびくと、関係各署に電話で連絡したことを報告したのちに、 「さて、そのあとで金田一先生のご忠告にしたがって、法眼家へ電話をしてみたんです」 「なかなか起きなかったろう、あの時刻では」 「いや、ところがその反対にすぐ電話に出ましたよ。みんなまだ起きていたんですね」 「あちらにもなにかあったのか」 「いや、みんないま出先からかえったばかりのところだったそうです」 「出先ってどこへいってたんだい」 「いや、ちょっと待ってください。そのまえに金田一先生にお訊ねしたいんですが、法眼家に由香利さんというお嬢さんがあることをご存じですか」 「知っています。会ったことはいちどもありませんが」  金田一耕助のことばはウソではない。かれはまだいちども公式には会っていないのである。 「その由香利というお嬢さんがきょう結婚して、飛行機でたったいまアメリカへ飛び立ったのを送っていって、いましがたかえったばかりだというんです」 「ばかあいえ」  とつぜん|蛮《ばん》|声《せい》を張りあげたのは、高血圧の真田警部補である。 「それはウソだ、ウソだ、大ウソだ。いま何時だと思ってるんだ。いまごろ|羽《はね》|田《だ》を立つ飛行機があってたまるかあ」 「ところが、それが違うんです。主任さん、わたしもそこを突っ込んだんですが、相手のいうのに羽田からじゃなくて|横《よこ》|田《た》基地からだというんです」 「アメリカの軍用機かあ!」  金田一耕助はとつぜん、丸太ン棒でぶん殴られたような強いショックを覚えてよろめいた。  法眼弥生ならばそれが可能なのであろう。しかし、時も時、場合も場合である。金田一耕助は仕掛けられた罠を|嗅《か》ぐ獣のような、物狂おしい眼をしてシーンと考えこんだ。例のくせのもじゃもじゃ頭をかきまわすことさえ忘れて。      五  加納刑事の話をもういちど、ここで詳述するとこういうことになるらしい。  最初に電話口に出たのは女中かなんからしかったが、加納刑事もふしぎに思った。時刻が時刻だから相当手間どるだろうと思いのほか、意外に早く電話口にひとが出たので、ふしぎに思って質問すると、きょうはこちらにお|目《め》|出《で》|度《た》があったもんですからという返事だったそうである。そのときはしかし加納刑事もそれほど深く心にもとめず、それならばちょうど幸いであると、こちらの身分姓名をうちあけて、以前にもいちど奥様にお眼にかかったことがあるものだが、ちょっとお耳に入れておきたいことがあるから、ぜひ電話口へ出てほしいと要請すると、つぎに電話口へ出たのはどうやら五十嵐光枝らしい。光枝の調子はいかにもうきうきとして、はしゃいだものだったそうである。自分はこの家の家事取り締まりをやっているものだがと、自ら名乗りをあげたのち、 「警察のかたがどういうご用件か存じませんが、きょうはこのうちにお取り込みがございまして、奥様はお疲れでいらっしゃいますから、なんでしたらわたしにどうぞ」  と、そういう声もうきうきとして|弾《はず》んでいたそうである。そこで刑事もさっきの女中の話を思い出して、お目出度があったそうだがと探りをいれると、 「ええ、そうでございますの。わたしの倅の滋とこちらのお嬢さんの由香利ちゃんが、きょう麻布の教会で結婚式をあげ、さっき飛行機でアメリカへ立ったばかりでございますの。それであたしども飛行場までお見送りして、たったいま帰ってきたばかりで、それでつい|宵《よい》っぱりをしてしまって……」  そこですかさず加納刑事が、さっき真田警部補が持ち出したような疑問をつきつけると、 「あらま、それが羽田からではございませんのよ。横田基地からでございますのよ」  横田基地から……と、加納刑事が息をのんでいると、 「ええ、そうなんでございますの。うちの奥様GHQがある時分から、いろいろご|昵《じっ》|懇《こん》に願っていたんですけれど、GHQが引き払ってからも進駐軍の上層部のかたと、いろいろ折衝がおありなもんですから、こんどもとくにお願いして割り込ませていただいたのでございますよ」  光枝の声はあいかわらず浮き浮きしていた。  加納刑事はちょっとことばに|窮《きゅう》したが、さりとてそのまま引きさがるべき場合ではない。そこで病院坂のお宅の空家で、こんやちょっと妙なことがあったのですが、そのことについて直接奥様にお話したいのだが、ぜひお取りつぎを願いたいと、出来るだけ慎重にことばを選びながら切り出すと、 「あの空家でまた妙なことがとおっしゃいますと、だれかまた首でもくくったのでございましょうか」  いくらか|怪《け》|訝《げん》そうではあったが、その声の調子には華やいだ心の弾みが|余波《な ご り》を引いていて、いくらかはぐらかすようなひびきさえあったという。  そこで刑事がきびしい声で、いや、首くくりどころではない。もっと恐ろしいことが起こったのである。殺人事件が発見されたのだが、被害者はそちらの奥様とご縁のふかい人物だと思われる。そのことについてぜひ奥様と直接お話したいと、ことばを強めて要請すると、 「あら、ま、人殺しですって……? いったいだれが……?」  と、光枝の声にはじめて驚きのようなものが感じられたそうだが、加納刑事が委細かまわず、奥様にぜひ電話口まで出ていただくようにとかさねてことばを強めると、 「あら、ま、それじゃしょうがございませんわね。ええ、まだお|寝《やす》みじゃないと思います。ついさっきまで茶の間でお話していらっしたのですから。では、少々お待ちくださいまし。奥様のお部屋のほうへ切りかえますから」  弥生が電話口へ出てくるまで相当時間がかかったのは、光枝が情況についてひととおり説明していたのだろう。やがてチンとスイッチを切りかえる音が刑事の|鼓《こ》|膜《まく》を打ったかと思うと、 「もし、もし、こちら法眼弥生でございますけれど、いま光枝さんに聞くと病院坂のわたしどもの家で、またなにかおかしなことがございましたそうで……? 聞けば殺人事件とやら……」 「はあ、そのまえにちょっとこちらの身分姓名を聞いていただきたいんですが。奥様はご記憶かどうですか、昭和二十二年あの家でご婦人が首をくくって死んだ事件がございましたね。あの際、お眼にかかったことのある高輪署の加納という刑事ですが……」 「ああ、あの加納さま……ええ、ええ、よく憶えておりますとも。ちかごろあなたのお名前が出たことがございますのよ。さるかたとのあいだに……」 「金田一耕助先生でございましょう」 「ああ、ではあのかたそちら様を訪ねていかれたのでございますね。でもそのお話はまたにしていただいて、今夜のお話というのはどういうのでございましょう。あの家で殺人事件があったんですって?」 「はあ、それがまことにお気の毒なんですが、被害者というのが奥様のお|探《たず》ねになっていらっしゃるあの青年なんですがね」 「わたしの探ねている青年とおっしゃいますと……」  そこで弥生は息をのむような気配であったが、 「それではもしや山内敏男さん……?」 「まことにお気の毒ですがおっしゃるとおりで、まず間違いはなさそうです」 「でも、どなたがそんなことおっしゃるんです。被害者が山内敏男さんだなんて」 「それは金田一先生がおっしゃるんです。法眼さんの奥様に、捜索を依頼されていた山内敏男君にちがいないって」 「では、金田一先生もそちらにいらっしゃるんですね」 「はあ、病院坂のお宅にいらっしゃいます」 「そういたしますと、金田一先生が被害者のかたを、山内敏男さんにちがいないとお認めになったわけなんですか」 「はあ、金田一先生はだいぶんまえに山内敏男君の居所をつきとめておかれたんだそうです。しかし、もうひとつ納得のいかないところがあるので、お宅へのご報告が遅れていたところへこんなことになってしまってと、だいぶん恐縮していらっしゃいました。いずれ近日そちらへご報告に参上されるでしょう」 「それで敏男さんが殺されなすったって、どういう殺されかた……いえ、どんな死にかたをなすったんです。それにまたなんだってあの家で……」  いつもは落ち着いている弥生だが、きょうばっかりは気の|昂《たか》ぶりを示すように、声がうわずって|甲《かん》|走《ばし》っている。 「ところが奥様、そこのところ電話ではちょっと申し上げかねるんです。ただ……」 「ただ?」 「いまマスコミの連中がおおぜい現場へ駆け着けてきているんです。ですからいまにわっとそちらへ押しかけていきやしないか。それでは寝耳に水でさぞびっくりなさるだろう。あらかじめお耳に入れておいたらという金田一先生のご配慮で、こうしてお電話申し上げたんですが……」  弥生はしばらく無言でいたのちに、 「それはご丁寧にありがとうございます。金田一先生によろしくお礼を申し上げておいてください。それからくどいようですが、もういちど念を押させてください。被害者というのはほんとうに山内敏男さんにちがいないのでしょうね」 「はあ、それはもう……金田一先生のほかに二、三証人がございますから。かくいう私も昭和二十二年に二、三度会っております。まずは間違いないと思っていただいてよろしいかと存じます」 「わかりました。それでは敏男さんのことは|諦《あきら》めなければならないようでございますけれど、しかし」  と、弥生は電話のむこうで語気を強めて、 「小雪ちゃんのほうはどうなんです。わたしどもにとっては敏男さんも敏男さんですけれど、もっと大事なのは小雪ちゃんのほうでございます。まさか小雪ちゃんまで……」 「いや、ごもっともです。しかし、わたしどもとしてはたったいま事件が発見されたばかりで、まだそこまでは手がまわっておりません。しかし、山内ごきょうだいの住所もわかっておりますし、いまそちらのほうへも手配をしておきましたから、小雪さんのほうは大丈夫だろうと思います。危険がおよぶようなら、|所《しょ》|轄《かつ》のほうで保護を加えるようになっておりますから、その点どうぞご安心ください」 「小雪ちゃんのほうにも、危険がおよぶという怖れがあるんでございましょうか」  弥生の声がまたいくらか|甲《かん》|走《ばし》った。 「いえ、いえ、たぶん、いや、おそらくその心配はないと思います。これはたんなる仲間うちの喧嘩、|刃傷沙汰《にんじょうざた》だと思いますから」  弥生はまだまだ聞きたいことがありそうだったが、加納刑事はそこで電話を切らざるをえなかった。相手をしていれば夜が明けそうに思われたからである。これを要するに山内敏男が病院坂の首縊りの家で、死体となって発見されたという報告は、弥生にとっては寝耳に水であり、たいそう彼女を驚かせたらしいことは間違いなかった。      六  テキサスの哲ちゃんこと佐川哲也の住居は|目《め》|黒《ぐろ》のちかくの|恵《え》|比《び》|寿《す》にある。だいたいジャズ・コンボ「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」のメンバーはみんな五反田を中心として、国電の環状線の付近に住んでいる。  哲也の住んでいるアパートは戦争未亡人が経営しているもので、二階が五間、階下が五構えある。しかし、階下のふた構えは管理人であるところの戦争未亡人と、年頃を戦争で空費し、ついに婚期を逸してしまった|貞《さだ》|子《こ》という娘のふたりが占領しているから、アパートの住人は結局八組ということになる。戦争未亡人の名は|伊《い》|藤《とう》|泰《やす》|子《こ》というのだが、彼女のご亭主はもとこの場所で鉄工所を営んでいた。それが終戦の前年四十ヅラさげて応召し、沖縄で戦死したのだという。伊藤泰子には貞子のうえにもうひとり男の子があったのだが、その子は父よりはやく兵隊にとられて、ガダルカナルで|散《さん》|華《げ》している。かさねがさねの不幸のうえに、戦災をうけて鉄工所も焼けてしまった。  ただひとつこの親子にとって仕合わせだったのは、鉄工所とそれにつづく親子四人と年季小僧の五人で住んでいた家の建っていた二百五十坪の地所は、借地ではなく伊藤家の持ち地所であった。朝鮮に動乱が起こってから東京近郊の地所はものすごく|暴《ぼう》|騰《とう》した。  伊藤泰子はもとはごくありきたりの日本婦人であった。体も大きければ心も|寛《ひろ》かった夫になにもかもゆだねて、ただなんとなく男の子を生み、女の子をもうけた。泰子は生活に不自由したことはいちどもないが、家計さえ夫が切りもりをして、彼女はいつも当てがいぶちだった。それでも彼女はこの働きものの夫によりかかりきっていて、いちどだって不平や不満を感じたことはない。  しかし、戦後の苛烈な世相が彼女を|鍛《きた》えに鍛えた。さいわい世話好きだった夫に世話になったというひとたちがおいおい復員してきて、彼女にとってよい相談相手になった。だから持ち地所のうちの百三十坪を手離すときも、彼女は|周旋《しゅうせん》業者をとおさず直接交渉だった。買い手は金融業者だったが、それもモグリやなんかではなく、正々堂々と営業を営んでいる誠意ある人物だった。  それからのちはその金融業者が彼女の相談相手になった。地所からえた金に隣人となった金融業者から安い利息で融資してもらった金で現在のアパートを建てた。|安《やす》|普《ぶ》|請《しん》だったが設備はゆきとどいていて、二階の五間は全部独身者むきの四畳半だったが、それでも最小限度の|自《じ》|炊《すい》ができるていどの設備が各部屋に設けてあった。  階下は若夫婦むきに六畳と四畳半のふた間つづきが|三《み》|構《かま》えあり、ほかに自分と娘の貞子のための八畳と六畳を建て、そのほかここだけが洋間になっている六畳があるが、これは管理人室になっている。  場所がよいせいかアパートが出来上がると、すぐ各部屋とも|塞《ふさ》がった。ただ困ったことには夜働く女性が多いということである。銀座あたりのバーやキャバレーで働く女性は、|有楽町《ゆうらくちょう》や新橋から国電の環状線に乗ると、恵比寿まで乗り換えなしであるうえに、駅から歩いて十分足らずというのが魅力であった。したがってしぜんそういう種類の女性の入居希望者が多く、泰子もはじめは|戸《と》|惑《まど》ったが、話し合ってみるとそういう女性はものわかりもよく、案外単純で、お人好しが多かった。ただまだ独身でいる貞子にどうかと思ったが、貞子はものにこだわらぬ性質だった。  ただ困ったことに、住人にそういう種類の人物が多いだけに門限というものがきかなくなった。だから玄関のガラス戸は四六時中開けっ放しである。さいわい部屋の内部は和風になっているが、各室ともドアに鍵がかかるようになっているので、いままで盗難らしい盗難にあったことはいちどもない。  アパートの名は「いとう荘」。  さいわい「いとう荘」の経営はいまのところ順調にいっている。ここにおいて泰子の悩みはただひとつ、娘貞子の身のふりかたであった。貞子は父親似とみえて柄も大きく、お世辞にも美人とはいいにくい。ごつい感じのその容貌は十人並み以下というよりほかないだろう。終戦のとき十五歳だったからことし二十三歳になる勘定だが、いまだに定まる縁がない。母の泰子にいいよる男はあっても、貞子は男たちから完全に無視され黙殺されてきた。しかし、いいことには貞子はその容貌、体つきだけを父から継承したのではない。性格まで父によく似ており、太っ腹で、世話好きで、悩み多き若い女性の居住者たちにとってはよい相談相手になっていた。  ケンタッキーの謙がこの「いとう荘」の玄関の、広いガラス戸をおっかなびっくりで開いたのは、昭和二十八年九月二十日の夜というよりも、明けて二十一日の午前零時過ぎだった。  この少年には悪い癖があってむやみに好奇心が強いのである。と、いうことは他人の秘密に関心を持ちすぎるということである。ビンちゃんとコイちゃんの夫婦生活に|覗《のぞ》きをきめこんだのも、さっき屁っぴり腰の平ちゃんに告白したのとだいぶん趣きがちがっている。かれは自分の意志と好奇心から、ほとんど毎晩のように覗きをきめこみ、ひそかに自慰にふけっていたのである。ところがテキサスの哲ちゃんから、擬装夫婦の擬装工作ではないかという疑惑が提出されたとき、それを口実として、|即《すなわ》ち哲ちゃんの至上命令として偵察をつづけているうちに、とうとうビンちゃんに勘づかれたのであった。往復ビンタをくわされたうえ、五反田のギャレージから|放《ほう》|逐《ちく》されては謙は宿無しである。  そこでいきがかりじょう哲ちゃんが引き取ったが、ここでもこの少年の悪癖、即ち好奇心という悪い虫が頭をもたげた。そのころ哲ちゃんはどういうわけか、一週間に一度、それは木曜日だったが、日をきめて午後の二、三時間ゆくえ不明になることがあった。そんなとき出ていくまえの哲ちゃんの|粧《めか》しようたらなかった。  だいたい「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」の連中は、異端者ぶりを誇張するためにわざと髪を長くのばし、口ヒゲや|顎《あご》ヒゲをたくわえているが、髪を短く切り、ヒゲを|剃《そ》り落としたら、ふつう一般の人間と変わりはない。ことに佐川哲也は身長五尺六寸くらい、山内敏男のあの|獰《どう》|猛《もう》な巨体に比較すると見劣りするが、長身で、スマートでなかなかハンサムな青年である。片眼に眼帯をあてているのも、かえって魅力的だという女性もいる。かれはジャズ・マンとして高い誇りをもっており、ドラマーとしての天分も、ビンちゃんのトランペッターとしての技術に比較して、けっして劣るものではないという自負をもっている。またコンボのごとき小人数のメンバーを統率していくについての、リーダーシップももっていると|己《うぬ》|惚《ぼ》れている。いや、いや、将来はフル・バンドを組織して、タクトを|揮《ふ》ってみたいというのがかれの野望なのである。ただ、|遺《い》|憾《かん》なことにはかれの野望のまえに立ちはだかる、ビンちゃんなる人物の人格が、|桁《けた》はずれに大きすぎるということである。そこにかれの焦りがあると同時に、もうひとつの、かれのコイちゃんに寄せる恋情がいささか度を逸しているということであろう。かれはほんとうに小雪に惚れている。小雪のことを考えるとかれは胸を|掻《か》きむしられるほど切なくなる。  それはさておき人一倍好奇心にとみ、並外れて他人の秘密を覗きたがるケンタッキーの謙は、哲也の週一回の外出にふかい興味をおぼえた。かれはとうとう哲也を尾行することにした。いくどか失敗を重ねたのちに、ついにかれが突きとめた事実というのは、哲也があちこちの怪しげな旅館で女と密会しているということである。旅館はそのつど変わっているが、相手の女はいつもおなじである。この連中にとって女とアソぶということは日常茶飯事も同様だった。それにもかかわらず哲也がこのデートをあくまで秘密にしているのは、相手が人妻、それもそうとう高級官僚の妻であり、二児の母親であるとしったとき、謙は鬼の首でもとったように得意になった。  かれはこの秘密をしったからといって、それを|恐喝《きょうかつ》のタネにするつもりは毛頭なかった。ただ軽薄で軽率で多分にオッチョコチョイである謙は、いくらか相手にたいして優越感をもちたいのと、またひとつには相手の艶聞に|阿《おもね》る気持ちも手伝って、つい自分の握った秘密について哲のまえで口を滑らせてしまった。その結果は「いとう荘」を叩き出されてこの四、五日、謙は宿無し犬も同然の境涯だった。病院坂のあの一件で謙が身も魂も|怯《おび》え切っていながら、この事実をまっさきに報告することによって哲也に取り入り、かれに忠誠を誓うチャンスをつかもうという考えなのである。  謙がおっかなびっくりでガラス戸を開いたとき、二階へあがる階段の下に寝間着すがたの貞子が立っていた。 「あら、謙ちゃんじゃないの、どうしたのよう。哲ちゃんをおっぽり出して、どこをほっつき歩いていたのよう」 「うう、うん、ちょっと。兄貴うちにいるウ」 「いることはいるけどさ、ちょっと様子がおかしいのよ」 「おかしいってどうおかしいのさ」 「あら、あんたずぶ|濡《ぬ》れじゃないの。まあ、こっちへあがんなさいよ。聞いてもらいたい話もあるからさあ」  玄関わきの管理人室へ通すと、 「あら、まあ、可哀そうに。セーターの|芯《しん》まで雨がしみとおっているじゃないの。傘もささずにどこをほっつき歩いてたのさあ。いまタオルを持ってきてあげる。そのセーター脱いでしまいなさい。あたしのセーター持ってきてあげる」  このように|忠《ま》|実《め》やかなのが貞子の身上である。 「そいで姉さん、兄貴の様子がおかしいてえのは」 「そういえばあのひと四、五日まえからおかしかったわ。|砥《と》|石《いし》を貸せというでしょう。それで貸してあげたらなにを|磨《と》いでいたと思う」 「なにを磨いでいたんです」 「ほら、あのサーベルさ、海賊が腰にぶら下げてる」 「冗談じゃないよ。姉さん、あれゃ小道具じゃありませんか。あんなものいくら磨いだところで……」 「それがそうじゃないのよ。あのひといつどこで手に入れたのか、それが本物なのよ。そいつを磨ぎすまして部屋へかえっていくでしょ。あたしも心配になったからあとからついていくと、あのひとそのギラギラするようなサーベルを振りまわして、フェンシングかなんかの真似をしながら、ヤッホーなんていってるのよ。眼の色だって変わってたわ」 「それで、兄貴、いまうちにいるんですか」 「いるわよ。きのう……」  と、いいかけて貞子は管理人室の電気時計に眼をやると、 「いや、もうおとといになるわね。ほら、台風のつぎの日だから、十九日のことね。朝の六時ごろずぶ濡れになってどこからかかえってきたんだけれど、それからして様子がおかしいのよ」 「様子がおかしいってどういうふうにさあ」 「凄く酔っ払っててさあ。あたしがどこへいってたのようと、レーン・コートをつかまえると、うるさいッなんて突き放したけど、レーン・コートの下にはたしかサーベルをぶら下げてたようよ。それからなにかまるい物をかかえこんでたけどさ、あとで気がつくとあたしの掌に血がついてたわ」 「レーン・コートの下にサーベルをぶらさげてて、どこかに血がついてたってえ」  謙はガタガタとふるえ出した。 「そうよ。どっかで喧嘩でもしてきたんじゃない。それから部屋へ閉じこもったきり、なかから鍵をかけてしまってさ、一歩も外へ出て来ないのよ。あたしが合鍵でドアを開けようとすると、開けるな、ちょっとでもそこを開けると、このサーベルで突き殺すぞオって、まるでおかしいのよオ」  そこへ二階からガウン姿の女が駆けおりてきたのと、表から刑事がふたり入ってきたのとほとんど同時だった。 「ちょっと、貞子姉さん、なんとかしてよ。佐川の哲ちゃん、たいへんなのよう」 「ああ、佐川の哲ちゃんとは佐川哲也君のことですか。われわれはこういうものだが……」  警察手帳を見せられるといなやはなかった。貞子が合鍵で二階の三号室のドアを開けようとすると、なかから哲ちゃんの酔っ払った唄声がきこえてきた。 [#ここから3字下げ] 死人はつづらだつづらのうえに、 頭のかずは十三人、 ヤッホー、 飲もうよラムを、じゃんじゃん飲もうよ。 [#ここで字下げ終わり]  スティブンソンの「宝島」に出てくる海賊の唄である。ドアを開くと海賊衣裳もはなばなしく、片眼に眼帯を当てた哲ちゃんが、意気|軒《けん》|昂《こう》と腰のサーベル抜きはなち、|括《くく》り枕に片脚おいて、左手に持ったウイスキーの|瓶《びん》をラッパ飲みしていた。  しかも……しかも、その長髪のうえには、「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」のリーダーシップを示す、海賊のシンボル・マークの入った提督帽がのっかっていた。それはビンちゃんが絶対にだれにも手渡さぬと豪語していた帽子である。      七  |渋《しぶ》|谷《や》署のふたりの刑事によって、奇妙な|狂躁《きょうそう》状態にあるテキサスの哲こと佐川哲也が発見されたとおなじころ、|大《おお》|崎《さき》署からも刑事がふたり、五反田の山内敏男と小雪のきょうだいが同棲しているギャレージへ急行していた。  そのへん一帯も戦災をうけたことはうけたものの、朝鮮戦争の好景気のあおりをうけて、ちかごろ復興の跡も|顕《けん》|著《ちょ》ななかに、問題のギャレージのある周辺だけが陸の孤島のように孤立していて、復興のきざしもはかばかしくないのは、そこが東京都の都市計画によって、将来幅員五〇メートルの新京浜国道がつっ走る予定になっているからである。いよいよ道路拡張に着手すれば、このギャレージなども立ち|退《の》かねばならぬ。  大崎署の|芥川《あくたがわ》警部補と|坂《さか》|井《い》刑事がやっと目的のギャレージを|探《たず》ね当てたのは、九月二十一日の午前二時ごろのことだった。雨はまだ降っていた。気温もさらに降下していた。 「おい、ギャレージというのはこれではないか」  芥川警部補が|嗄《しゃが》れ声でささやいた。 「どうもそうのようでありますね」  三年ほどまえに復員してきたばかりの坂井刑事は、いまだに軍隊言葉が抜け切らない。 「どれどれ」  と、持ってきた懐中電灯の光りで表札をさがしていた坂井刑事は、 「主任さん、やっぱりここであります。番地もあっているし、山内という表札がかかっています」 「するとここの若僧が殺されたうえ、首を切断されたあげく、その生首が現場の天井からぶら下がっているというわけか」  芥川警部補はわざと気軽にいったが、その連想は決して快感を誘うものではない。 「その被害者には小雪という妹が、いるはずだということでありましたね」 「本来ならばその妹はこの家にいるはずなんだが……」  ふたつの懐中電灯の|光《こう》|芒《ぼう》が交錯して、ギャレージのシャッターを|撫《な》でまわす。蛇腹型をしたシャッターは何者の侵入をも拒絶するかのような頑固な冷酷さで、懐中電灯の光りを|跳《は》ねかえす。 「とにかく呼んでみろ。どうせ返事は期待できねえだろうがね」  言下に坂井刑事がシャッターを叩きながら山内小雪の名を呼んだ。ひと声ごとに声は高くなっていったが、応答のないことは警部補が予言したとおりである。 「そ、そ、それでは主任さんは小雪という娘もこのギャレージのなかで殺されていると……」 「だれがそんなこといったい。|臆病風《おくびょうかぜ》に吹かれるんじゃないの。さあ、裏へまわってみよう」  ギャレージを左のほうへ廻っていくと、そこは雑草の海である。二階建てのその建物はそうとう広いのだが、やっとその勝手口へ突き当たったとき、ふたりとも腰からしたはズブ濡れになっていた。長靴だけではまにあわないほど雨にぬれた雑草は深かった。表のげんじゅうなのに反して、裏はかんたんなガラスのはまったドアひとつ。むろん鍵はかかっていたがこれならぶっ|毀《こわ》すのに|造《ぞう》|作《さ》はない。  芥川警部補がかたちばかり声をかけておいて|眼《め》|配《くば》せすると、坂井刑事が体ごとドアにむかって突撃した。この刑事は大崎署内では横綱格の|相撲《す も う》の選手、坂井山関という異名がある。その巨体の突撃をうけて、まずガラスがこわれて飛散した。二度、三度と突撃をくりかえしているうちに、とうとうドアは悲鳴をあげて降参した。ドアのなかは炊事場になっていて、その炊事場の一隅に二階へ上がる階段がついている。この炊事場とギャレージの境にもドアがあるが、そのドアが二重になっているのは防音のためであろう。 「そうそう、あいてはジャズ屋とかいってたな。おい、坂、なにをボヤボヤしてやあがるんだ。どっかにスイッチがあるはずだ。はやく捜して|点《つ》けねえか」  この芥川警部補には一名悪たれ川という異名があり、恐ろしく口の悪い人物である。電気のスイッチはすぐ見つかった。 「主任さん、二階をさきにしますか。それともこのドアを破りますか」 「いちおう二階を調べるんだ。ギャレージはあとでいい」  階段の下にスイッチがあった。それを|捻《ひね》ると二階の天井からぶら下がっている、裸電球にボヤッと灯がついた。 「坂、ついて来い」  ふたりとも土足のままである。高輪署の電話によると事件は十八日の八時か九時ごろに起こったらしいという。犯人がいまごろ被害者の家で、まごまごしているはずはまずなさそうに思われるが、そこは用心に越したことはないのである。  階段をのぼると廊下が|縦《たて》に走っており、手前が四畳半、その奥が六畳になっているが、四畳半も六畳も壁のスイッチで電気がつく仕組みになっており、明るい電灯に描き出されたそのふた部屋は、ともに畳敷きの日本間なのだが、きちんと整頓されたなかにも、いかにも新世帯の若夫婦の部屋らしい華やいだ色彩に|溢《あふ》れている。 「主任さん、部屋のなかを調べてみますか」 「いや、それは本庁のおエラがたにまかせようじゃないか。ここは殺人の現場ではないんだから」 「でも、あの洋服ダンスや押し入れぐらい開けてみてもいいでしょう」 「うん、よし、じゃやってみろ。だけど気イつけろ。あんまり荒してあとであちらのおエラいさんに、お目玉をくらうのはまっぴらだからな」 「それくらいはぼくにもわかっていますよ」  さすがに坂井刑事も長靴をぬいで四畳半へふみこんだ。さいわい洋服ダンスに鍵はかかっていなかった。|把《とっ》|手《て》にハンケチを当てがって開くとき、坂井刑事にはちょっと勇気を要したようだが、結果は陰性だった。洋服ダンスのなかには男女両様のふだん着や舞台衣裳が、ハンガーにぶらさがってギッチリ詰まっているだけで、怪しげなものはなにひとつ見当たらなかった。 「よし押し入れのほうはおれがやろう。おまえにばかり責任を持たせちゃ悪いからな」  その押し入れは六畳の寝室にあった。このほうも畳敷きなのだが、そこに|絨緞《じゅうたん》をしいて大きなダブル・ベッドが部屋のほとんどを占領している。以前はこの六畳に敏男が、そして隣の四畳半に小雪が寝ていたのだが、八月二十八日のあの奇妙な結婚式以来、ダブル・ベッドを買いこんで、こうしておおっぴらに夫婦生活をはじめたのであると、のちにケンタッキーの謙坊こと加藤謙三が証言した。  この押し入れはベッドの頭のほうにあり間口は一間、その横に半間の床の間があって、そこに青磁の花瓶にコスモスの花が生けてあるのはよいとして、床の間の天井から奇妙なものがぶらさがっている。|庵《いおり》型をした大きな鋳鉄製の風鈴である。 「主任さん、妙なものがぶらさがっているじゃありませんか」 「そういえば現場の生首も風鈴みたいにぶらさがっていて、おヒゲのさきに|短《たん》|冊《ざく》がぶらさがっているとよ」 「この風鈴にも短冊がぶらさがっていますよ。ひとつ読んでみましょうか」 [#ここから2字下げ] 風鈴はいとしからずや語り合う   ふたりの窓に鳴りつづけいて [#ここで字下げ終わり]  読みびとは琢也とある。  もしこのことが、即ち風鈴を床の間に吊るしておくということが、ビンちゃんの発想だとしたら……いや、おそらくそれにちがいないであろうが……ビンちゃんがいかに自分を育ててくれた琢也を愛し、慕っていたかということを意味してはいないだろうか。風鈴はいま窓の外にあるのではなく、床の間に吊るされているのである。床の間で風鈴が鳴るということは珍しいだろうが、そこには大きなダブル・ベッドが備えつけてある。そのベッドのうえでビンちゃんとコイちゃんが愛し合うとき、その振動で風鈴は鳴りつづけていたのではないか。ビンちゃんはあくまでも自分の養父法眼琢也が、小雪の母を愛したように小雪を愛したかったのではないか。  この風鈴に焼けただれた跡がのこっているところをみると、これこそお冬が池の端の焼け跡から、木更津の疎開先まで持っていったものにちがいない。そして八月二十八日のあの奇妙な結婚式の記念写真にうつっている風鈴も、この風鈴であったことは、後日記念写真の風鈴の部分が拡大されることによって立証された。  しかもビンちゃんはときどき短冊を取りかえていたのではないかということは、芥川警部補が押し入れを開いてみることによって証明された。押し入れのなかはキッチリと整頓されており、上段の片隅には蒲団がふた重ね積んであった。これはおそらくビンちゃんとコイちゃんがべつべつに寝ていたころ用いていたものだろう。蒲団袋はなかった。その夜具の端はベニヤ板で区切ってあって、そこにさまざまな楽器が立てかけてあった。トランペットはもとよりとして、トロンボーン、クラリネット、サキソフォーン、ギター、フルート等々々。これでみるとビンちゃんはさまざまな楽器をこなしたらしい。  押し入れの下の段は細かく区切って必要なところには棚を作り、いろんなものが整然と並べてあったが、そのなかでいちばん場所をとっているのは、なんといってもレコードである。いまにして思えば昭和二十八年といえば七八回転のSP盤から三三回転のLPレコードへと移行する過渡期であった。ステレオはまだ開発されていなかった。  しかし、戦前派の警部補殿や復員後まだ日の浅い無芸大食派の坂井山関刑事に、そんなことがわかるはずがない。 「なるほどレコードはここにゴマンとある。しかし、蓄音機はいったいどこにあるんだ」 「それは階下のギャレージじゃありませんか。ギャレージがきゃつらの練習所になっていたという話ですから。しかし、主任さん、わたしにはこれどうも気に食わんですね」 「坂ちゃん、気に食わねえとはどういうこったい」 「だって相手はジャズ屋でしょ。おまけにきょうだいのくせにツルんでるってえじゃありませんか。もっと自堕落な部屋を想像してたんですが、これではあまり整頓しすぎてるじゃありませんか」  芥川警部補は茶の間のほうを見渡して、 「趣味も悪くねえようだな」  |呟《つぶや》いてから急に気がついたように、 「それにしても小雪という娘はどうしたんだ。おい、その蒲団のなかをつついてみろ」  しかし、それは無意味な努力にすぎないことがすぐ判明した。小雪が死体となって蒲団詰めになっているのではないかというのは、芥川警部補のあらぬ幻想に過ぎなかった。 「主任さん、ここに妙なものがありますぜ。これ短冊じゃありませんか」  坂井刑事が開いてみせたのは、押し入れの隅にある整理|抽《ひき》|斗《だし》のいちばん上の段だったが、なかは縦にふたつに区切られていて、右と左に短冊がギッチリ詰まっていた。警部補がのぞいてみると、右の短冊には琢也という署名があり、左のそれには天竺浪人とある。それぞれ短歌の|詠《えい》|草《そう》らしい。 「おい、そんなもんいま調べているひまはねえ。それにむやみにそこらじゅうを|触《さわ》るんじゃねえぞ。さあ、|階《し》|下《た》へおりてこんどはギャレージだ」  炊事場とギャレージの境が二重ドアになっていることはまえにもいったが、坂井山関にとってはそれを破ることは大した困難でもなかった。ギャレージのなかはもちろん真っ暗だったが、スイッチのありかはすぐわかった。芥川警部補の手でそのスイッチがいれられたとき、ふたりは思わず、 「ほほう」  と、感嘆の声を放って天井を見上げた。  天井には直径二メートルほどの円をえがいて、電灯が五つついており、ギャレージのなかはまるで昼をあざむく明るさなのだ。おそらく五人のメンバーはその電灯の下に譜面台をおいて練習に熱中していたのだろうが、いまその光りの輪のしたには一台の|有《ゆう》|蓋《がい》トラックが、デンとして|据《す》わっている。  多門修がいっていたではないか。かれらが米軍キャンプを|巡《めぐ》って歩くとき、楽士や楽器をトラックに積んで小雪が運転するのであると。巡業の際、天気のよい日ばかりとは限らなかったであろう。雨の日も風の日もあったにちがいない。その有蓋トラックは、アメリカの西部劇にでも出て来そうな|幌《ほろ》馬車そっくりのかたちをしていて、茶色っぽい防水ズックの幌におおわれていた。内部はゆうに数人の楽士たちとその楽器を収容するに足る面積をもっている。  トラックの荷台の後部の|枠《わく》が|外《はず》れていたので、ふたりの警察官はそこから懐中電灯の光りをむけた。幌馬車のなかにはズックのシートが山のように盛りあがって散乱していた。思うに楽士たちは雨の日など幌だけでは心細かったので、めいめいの楽器をかばうためにシートを用意していたのであろう。  警部補がそのシートに手をかけようとしたとき、とつぜん坂井刑事がそばからその手をおさえた。刑事は顔面紅潮していて、口もきけないくらい緊張している。 「おい、坂、ど、どうしたんだい」 「しゅ、しゅ、主任さん、あれ……」  刑事が指さしたのはトラックのむかって左の側面の床である。そこにはひとかたまりの血の跡らしきものがどっぷりと床を染めていて、もうドスぐろく変色している。その血はあきらかにトラックの荷台から|滴《したた》り落ちたものである。数条の血の跡が滝のようにトラックの側面を染めている。警部補はあわててトラックの右側をみたが、そこには血の痕跡は見られなかった。そういえばこのトラックはいくらか左へ傾斜しているので、この荷台のうえでなんらかの|血腥《ちなまぐさ》い作業がおこなわれたとき、血は一方的に左側へ流れ滴りおちたのだ。 「しゅ、主任さん、このシートの下に小雪という娘の死体が……」  ふたりは荷台のうえによじのぼった。懐中電灯を片手に一枚一枚ズックのシートを取りのけていったとき、期せずしてふたりの唇からほとばしったのは、世にも深刻な恐怖のうめき声だった。  死体はなかったが、首切り作業はここでおこなわれたのではないか。|鋸《のこぎり》、木鋏み、金鎚、|鑿《のみ》、そのほか自動車の修理工具等々、恐ろしい七つ道具がそろっており、それらが全部ドスぐろく血を吸っているのみならず、荷台の床に敷いた二枚の毛布もべっとりと血にぬれている。 「おい、坂、なにをまごまごしてやあがんだ。すぐにこのむね高輪署へ報告するんだ」 「報告するって、ど、どうして」 「馬鹿野郎、てめえ眼が見えねえのか。その事務所のなかに電話があるじゃねえか。それ効くかきかねえか試してみろ」  このギャレージの一隅にむかし事務室だった部屋があり、そこにしばらくケンタッキーの謙坊が|寄《き》|寓《ぐう》していたことがあるということはまえにもいっておいたが、いまそこは楽器置き場になっているらしい。フロリダの風ちゃんこと秋山風太郎は几帳面な性格らしく、ピアノのうえにはちゃんと覆いがかけてある。ドラムはテキサスの哲ちゃんこと佐川哲也のものにちがいない。テナー・サックスは原田雅実、ギターは屁っぴり腰の平ちゃんこと吉沢平吉のものだろう。なるほどこれではこのギャレージが開かないと、みんな困るにちがいない。かれらは一日たりとも練習を怠るとリズム感が狂ってくるし、指の感覚もちがってくるであろう。ほかに譜面台が五つ六つ並んでいた。  電話が通じたとみると芥川警部補がかわった。電話のむこうに出たのは真田警部補であった。ちょうど現場からかえっていたらしい。芥川警部補ができるだけおのれを抑制すべく努力しながら、発見した事態の|顛《てん》|末《まつ》を報告し、ここが首切り作業の現場であろうと意見をつけくわえると、 「な、な、なんだって。そちらで首を切断した痕跡があるって。で、胴体は……? 首から下もそちらにあるのかい」 「胴体って……? 胴体はそちらにあるんじゃないのかい」 「それがねえから弱りきってんだッ」  |噛《か》みつくようなその調子からして、むこうの警部補殿の高血圧が|気《き》|遣《づか》われるようである。 「いまんところこっちにも首から下はなさそうだが……少なくともこの建物のなかにゃねえようだな」 「そいつをなんとか捜してくれ。家のまわりに埋めたような形跡はねえか」 「そこまではまだ調べてねえが、いったいこれはどういう事件なんだ。殺しの現場はそっちの管轄なんだろ。それでいてこっちで首を切断したとしたら……」 「そんなことおれのしったことかいッ」  高血圧の警部補殿は割れ鐘のような声で一喝くらわせておいてから、あわてて猫撫で声で付けくわえた。 「ごめん、ごめん、ああさん、おれすっかり泡あくっちまっているもんだから、|怒《ど》|鳴《な》りつけたりしてごめんよ。だけどここに一道の光明みたいなものがあることはあるんだ」 「なんだい、その一道の光明てえのは?」 「いえね。渋谷署のほうでいま犯人らしき人物を検挙してるんだそうな。被害者とおなじジャズ仲間だ。いまそっちへ廻ろうとしてたとこなんだが、なんならそいつをしょっぴいてそっちへいく。それまでになんとか胴体をめっけておいてくださいよ」 「いいよ、いいよ、わかったよ。ご希望に添えるよう努力する。ときに本庁の担当は……?」 「等々力警部殿だ。例によって例のごとく金田一耕助先生もごいっしょだ」 「ああ、あのゲテモン……」  と、いいかけて、あわてていまのことばは聞かなかったことにしてほしいと要請すると、 「等々力警部ならいい。あのひとは温厚で物わかりのいいひとだから。では、のちほど」  いったん電話を切ると芥川警部補は、あらためてダイヤルをまわして大崎署を呼び出し、出来るだけたくさんの応援のものを|寄《よ》|越《こ》すように要請しておいて受話器をおいたが、そのとたん足下から爆竹でも破裂したように驚いて跳びあがった。  深閑たるこの真夜中、しかもあまり気味がよいとはいえぬこのギャレージのなかに、突如として最高にビートのきいたジャズの音が爆発したからである。  当時はまだステレオはなくモノラルの時代であったが、オート・チェーンジャー付きのレコード・プレーヤーがそこに備えつけてあった。坂井刑事が音のボリュームを最高にあげてスイッチを入れたからたまらない、周囲をトタンと防音装置に取りかこまれたギャレージのなかは、ジャズの騒音で耳も|聾《ろう》するばかりである。そうでなくとも悪たれ川警部補殿は怒り心頭に発したのか、 「この馬鹿もん! いまをいったいなんたるときと思っているんだ。消せ! |止《や》めろ! そのいまいましい蓄音器をとめろ」 「いいから、いいから。郷に入っては郷にしたがえっていうじゃありませんか。ジャズ屋を相手にする以上、少しはジャズのこともしっておかなくっちゃ……いまに助っ人が駆け着けてきたら、首なし死体捜しという|野《や》|暮《ぼ》な仕事が待ってるんでしょ」 「なるほど、そういえば、ま、そんなもんだな」  聴いているうちに悪たれ川警部補殿や坂井山関刑事の巨体がしだいに躍動してきたところをみると、ジャズのリズムというやつにはこういう戦前派の硬骨漢をもってしても、なおかつ体内の血を沸き立たせるがごとき麻薬みたいなものがあるらしい。      八  渋谷署に連行されたとき佐川哲也は完全な|狂躁《きょうそう》状態にあった。|佯狂《ようきょう》ではなかった。さっそく受けさせた医師の診断によると、なにか非常なショックを受けて、精神錯乱におちいっているらしいとのことだった。その精神錯乱が一時的なものか、今後長くつづくものなのか、しばらく経過をみなければ確答しかねるとのことだった。  哲也は警察へ連行されても海賊衣裳を脱ごうとはせず、ときどき腰のサーベルを抜き放ち、自分の作曲と思われる海賊の唄を高歌放吟しながら、本身の刀を振りまわすので、危くてそばへも近寄れなかった。そのサーベルだけは付き添ってきた伊藤貞子が|宥《なだ》めつ|賺《すか》しつ取り上げたが、すると哲也は手ばなしでおいおい泣き出した。 「コイちゃん、コイちゃん、おめえはどうしたんだよう。おまえも殺されちまったのかい。きっとそうだよ、きっとそうにちがいねえ。おめえたちきょうでえにはどっか暗い影があった。だれか敵があったんだなあ。ビンちゃん、なぜそれをいわなかったんだよう。それをしってたらみんなでおめえたちを守ってやったのによう」  そばでそれを聞いていた伊藤貞子は、渋谷署の捜査主任|塩《しお》|月《つき》警部補にむかって開きなおった。 「いまのことばをお聞きくださいましたか。このひとはひと一倍見栄坊で、ふだんは強がりをいったりしていますが、ほんとは気のよわあい、気性のやさしいひとなんです。なにごとが起こったのかあたしにはわかりません。しかし、さっきから聞いていると、コロシとか殺人ということばが耳打ちされてますわね。もしその殺人事件の嫌疑がこのひとにかかっているとしたら、それこそとんでもない大間違い。あたしはこの人を足掛け三年面倒みてきたんですよ。このひとの気性ならあたしが一番よくしっています。このひと気性の優しいイ、思いやりのふかあいひとなんです。虫ケラ一匹殺せるひとじゃありません」  塩月警部補は大崎署の捜査主任とは正反対の、|恵《え》|比《び》|寿《す》さまみたいにまん丸い福徳円満そうな温顔の持ち主だが、この警部補殿にはなにが起こったのか、その間の事情がまだもうひとつのみこめていなかった。ただ部下の刑事が押収してきた、佐川哲也のレーン・コートにかなりおびただしい|血《けっ》|痕《こん》の付着しているのを見ると、この男が有力な容疑者であろうことは|頷《うなず》け、そういう有力な容疑者をいちはやく検挙できたということについて、いちおう部下に感謝し、その労を多としていることはたしかであった。  要するにこの福徳円満警部補殿にとっては、いまに高輪署から担当係り官が駆け着けてくるというのを、待っているよりほかに方法はなかった。万事は高輪待ちとおっとり構えている塩月警部補は、したがって貞子や謙ちゃんに対する態度もいたって|鷹《おう》|揚《よう》なものだった。 「なんでしたらおふたりともお引き取り願ってもけっこうですよ。住所はこちらに控えてあるんでしょうからね」 「いいえ、あたしは帰りませんよ。哲ちゃんの身のなりゆきを確かめるまで、あたしは絶対にここを動きませんよ」 「ああ、そう、それではよろしいように。そちらのお若いのはどうするかね」  いまや居所のない加藤謙三も、哲也や貞子といっしょについてきているのである。 「ぼく……ぼくもここにおります」  と、|蚊《か》のなくような声で答えたとき、にわかに署の表が色めき立ったのは、高輪署の連中が到着したのであろう。 「そう、それじゃ君たちはむこうの応接室へでもいっていたまえ」  高輪署からやってきたのは等々力警部と真田警部補、金田一耕助は等々力警部の|腰巾着《こしぎんちゃく》みたいに妙にはにかみながら|扈従《こじゅう》している。ほかの連中は第二現場と目されている、五反田のほうへ直行したのであろう。  ふたりの警部補のあいだに型どおりの挨拶があったのち、真田警部補が金田一耕助を紹介すると、 「ああ、こちらが……? ご高名はかねてから|承《うけたまわ》っております。ひとつまたこんどもよろしくお願い申し上げます」  この福徳円満警部補殿は礼儀をわきまえているとみえて、じろじろ相手のもじゃもじゃ頭を観察したりはしない。恵比寿さまみたいな顔をにこにこさせながらいたって低姿勢である。  それに対して金田一耕助も、 「いや、どうも」  と、ペコリと頭をひとつさげると、 「いつもこちらの警部さんのお荷物にばかりなっております。ひとつ、まあ、お眼こぼしを願います」 「いやね、塩月君」  そばから等々力警部が取りなし顔に、 「こんやここへ金田一先生にご足労願ったというのは、ある事情があってこちらの先生、佐川哲也という青年をご存じなんだね。いや、ご|昵《じっ》|懇《こん》というわけではなく、佐川哲也のステージをごらんになったことがおありだそうで、それで|見《み》|識《し》り人として来ていただいたというわけだ」 「いや、それはどうも。しかしここへしょっぴいてきたのが、佐川哲也にちがいないということは証明ずみなんですが、それがどうも少しおかしいんですね」 「おかしいとは……?」  真田警部補が眉をひそめたとき、奥のほうからかなりみごとなテノールが聞こえてきた。 [#ここから3字下げ] 死人はつづらだつづらのうえに、 頭のかずは十三人、 ヤッホー、 飲もうよラムを、じゃんじゃん飲もうよ。 [#ここで字下げ終わり] 「なんだい、あれゃ…?」 「やっこさんが歌ってるんですよ。やっこさん、ああして歌っているかと思うと、急においおい泣き出したりするんですね」 「塩月君、それ、作り阿房じゃねえのかい」  高血圧の警部補殿がわめいたが、恵比寿さまはただ深刻な顔をするだけで、 「それがそうじゃなさそうなんでね。いずれもっとお偉い精神科の先生のご鑑定を|仰《あお》がなきゃなるまいが、こちらの先生はそうとうひどい精神錯乱におちいっているとおっしゃるんだ。それはそうと真田君、君の管内でいったいどのようなことが起こったというんだね。電話ではもうひとつ事情がのみこめないんだが」 「それゃそうだ。それじゃひとつ現場の模様を話しておこう」  と、真田警部補が語りはじめたが、この警部補殿もはじめは落ち着いた語りくちだったものの、話がおいおい佳境に入ると、高血圧の特徴を発揮して身振り手振りも鮮やかに、舌端火を吹き、いままさに雲を呼び風を|捲《ま》かんばかりの勢いと相成ったが、恵比寿さまはこういうことには馴れているとみえて、ただ神妙にきいていた。 「君の管内にはよくそういう大事件が起こるんだね。いやね、警部さん、いまこちらにいる若僧が、全然その事件に関係がないとはいいませんが、死体の首を切断して、しかも、それを|麗《れい》|々《れい》しく現場に吊るしておくというほど残忍な男とは思えないんですがね。まあ、会ってごらんなさい。少なくとも気が狂ったふりをしているのではないことだけはわかりましょう」  やがて、ふたりの刑事に両腕をとられて、|蹌《そう》|踉《ろう》として部屋のなかへ入ってきた佐川哲也の眼つきを見たとき、三人は思わずこれはと顔見合わせずにはいられなかった。哲也は依然として海賊衣裳を身にまとうているのだけれど、さっきの狂躁状態からは脱しているらしい、しかも、そのあとから襲ってきたのは救いようのない虚脱と放心らしかった。かれはいま自分がどこにいて、どういう状態におかれているか、それすら|弁《わき》まえていないようである。  塩月警部補は哲也のレーン・コートをひろげてみせて、 「十九日の朝、『いとう荘』というのがこの男の下宿しているアパートですが、そこへ朝の六時ごろ帰ってきたとき、この男はこのレーン・コートを着ていたそうです。ごらんのとおりこのコートにはあちこちに血が付いていますが、これは鮮血を浴びたというよりは、|生《なま》|乾《かわ》きになっている血に|触《さわ》ったか、こすりつけたという血の付きかただと思うんです。だいいちおかしいのは……」  と、塩月警部補がレーン・コートを引っ繰り返して背部を見せると、そこにも二、三条の血の|縦《たて》|縞《じま》が消え消えについている。ある部分はかなりはっきりしているが、ある部分は|極《ご》くかすかにボンヤリと。 「わたしはこの背部の血に疑問を持ったのですが、いま真田さんの話を聞いて了解しました。現場の壁にはいちめんに血の|飛《ひ》|沫《まつ》がとび、それが流れて|縞《しま》を作っているとおっしゃいましたね。この若者はその壁にもたれかかったんじゃないでしょうかね。まだ血が生乾きである時刻に」  真田警部補はウームと唸って、 「するとこいつ現場へいったことはいったんだな」 「そう、しかし、そのときはもう惨劇は終わっていた。そしてこの男は見たんでしょう。宙にぶらさがっている生首を。その瞬間この男は精神錯乱におちいったんじゃないでしょうかねえ」  それから塩月警部補はサーベルと、海賊のシンボル・マークの入った提督帽を持ち出して、 「この男がアパートへ帰ってきたとき、レーン・コートの下にサーベルをぶらさげていたらしいといいますが、うちの鑑識の検査の結果、このサーベルからはルミノール反応は全然出ておりません。それからこの帽子ですが……そうそう、金田一先生はこの男のステージをごらんになったそうですが、この帽子に|見《み》|憶《おぼ》えはございませんか」 「存じております。それは『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』……と、いうのがかれらの組織しているジャズ・コンボの名称なんですが、その帽子はそのコンボのリーダーシップを示すシンボルなんです。したがっていままで被害者の所有物だったんですが、同時にここにいる佐川君がひどくこの帽子にご執心だったとも聞いております」 「なるほど、いや、さっきむこうにいる加藤謙三なる若僧にもその話は聞いたんですが、この帽子がどういうわけか現場にあった。それでこの男は意識してか無意識にかこの帽子を持ちかえったんですな。この帽子にも血が付いていますが、これも鮮血が飛び散ったというようなものではなく、レーン・コートの下にかかえこむとき、|袖《そで》|口《ぐち》の血がなすり付いたという感じで、その気になって調べなければわからないくらい|微《かす》かなものです」 「それじゃこういうことになるんだな」  高血圧の真田警部補はおのれの不満を抑制するのに努力しなければならなかった。その努力の跡歴然たる|忿《ふん》|懣《まん》を、頭からこの福徳円満居士にぶちまけた。 「この男は被害者があの家にいることを、どういう事情でかしっていた。そこであとから乗りこんだが、そのとき|磨《と》ぎすましたサーベルを持参したところをみると、被害者と決闘でもするつもりか、あるいは相手を殺すつもりだったかもしれん。ところがアニハカランヤ、乗り込んでみると相手はすでに殺害され、生首になって宙にぶらさがっていた。それを見たとたんにこの男、精神錯乱におちいった……と、塩月君の意見によるとこういうことなんだね」 「そう、ここへしょっぴいてきたときはそうとうひどい狂躁状態だったね。いまや沈静期に入っているようだが、警部さん、こいつこのまま記憶喪失症になっていくんじゃありませんかねえ」 「記憶喪失症?!」  高血圧警部補殿は大きく目玉をひんむいていたが、つぎの瞬間カンラカンラと|豪《ごう》|傑《けつ》笑いをして、 「ようし、面白え。それじゃひとつこいつの記憶を呼び戻してやろうじゃありませんか」 「どうするんだね、この男を?」 「なあに、五反田の第二現場に連れていくんです。こいつの恋い焦がれていたコイちゃんの匂いを嗅がせてやれば、なにか思い出すかしれませんぜ、金田一先生、どうです」 「ああ、それはいいかもしれませんね」  金田一耕助も|即《そく》|座《ざ》に賛成して、 「そうそう、そういえばこちらに加藤謙三って坊やが来てるんでしょ。あの子もつれていこうじゃありませんか。あの子はしばらく山内きょうだいのところに同居してたことがあるんです。なにか変わったことがあれば気がつくかもしれませんよ」  馬鹿と|鋏《はさみ》も使いようによるというわけか。      九  渋谷署で朝食をご馳走になって、一行が五反田の第二現場へ駆け着けたときは、夜もしらじら明けの六時をまわって、雨ももうすっかりあがっており、どうやらきょうは晴れそうだった。 「やあ、これはこれは金田一先生、さっきそこにいる真田君から、先生がこの事件に最初からご介入とうかがって、大いに意を強くしているところでした。先生のご協力とあればこの難事件も、たちどころに解決というところですな」  悪たれ口の芥川警部補は、さっそく悪たれ口を裏返しにしたような挨拶である。金田一耕助もすましたもので、 「はあ、ぼくもみなさんのご期待に|背《そむ》かぬよう、大いにここを働かせてみるつもりでおりますから、なにぶんよろしく」  と、フケの浮いたもじゃもじゃ頭を指でつついてみせたから、これではいい気なもんだといわれても仕方があるまい。 「ときに、塩月君、そこにいるのがホシ…?」  芥川警部補はもはや金田一耕助ごときは相手にせずといわぬばかりに、佐川哲也のほうへ顎をしゃくった。 「と、まあ、いちおうそういうことになっているんだが、ごらんのとおり少し調子が狂っているんでね。それで、まあ、第二現場でも見せれば少しは記憶が戻るかもしれないという、真田君の提言をいれてここへつれてきたんだが、ひとつよろしく頼みます」  この福徳円満警部補はだれに対しても低姿勢らしい。  佐川哲也の調子の狂っているらしいことは多言を必要としなかった。まるでそれは生ける|屍《しかばね》も同様である。したがって手錠ははめていなかった。激情が去ってからのちのかれはいたって柔順な|囚《めし》|人《うど》であった。  ギャレージのまわりの草っ原は、いまやいっぱいのひとだかりである。そのうちの相当数は大崎署の署員だが、なかには新井刑事のごとく、本庁から応援に駆け着けてきたものもいる。と、いうことは病院坂の第一現場で首なし死体の発見に失敗したということなのだろう。この第二現場でもみんな|徹宵《てっしょう》、首なし死体の発見に|奔《ほん》|命《めい》これつとめたが、それがことごとく徒労に帰したらしいことは、うんざりしたようなそのひとたちの顔色からでもうかがわれるのである。そのほかにマスコミの連中が大勢詰めかけている。  等々力警部と三人の警部補たちが、群がりよるマスコミの連中に閉口しているところへ、新井刑事が近づいてきた。 「警部さん、ここから|死人《ほ と け》を捜しだせというのは、ちと無理な注文ですぜ。ごらんのとおりここはいちめんの草っ原、ホシがここを掘り起こせばハッキリ痕跡がのこりまさあ。それよりホシはクルマを持ってるんですからね。どこへでも好きなところへ運べたんじゃありませんか。ときに、金田一先生」  と、新井刑事は金田一耕助にむかって片眼つむってニヤニヤした。これはこの刑事が金田一耕助にむかって、親愛とからかいの情を示すときの表情である。 「はあ…?」 「わたしゃさっきこの草っ原で妙なものを拾ったんですがね。それは、まあ、あとのことにしましょうよ。あなたがたは一刻も早く首切り現場をごらんになりたいでしょう。では、またのちほど」  新井刑事が思わせぶりな捨て|台詞《ぜ り ふ》をのこして、せかせかと立ち去るうしろ姿を見送って、 「あの野郎、なにを拾ったというのかな。まあ、いいや、ではこちらへどうぞ。おっと、その若僧もつれていきますかな」 「それはもちろん。そのためにここへつれてきたんだからね」  等々力警部のことばの下から、金田一耕助も一言つけくわえた。 「ああ、ちょっと、芥川さん、この坊やもいっしょにつれていこうじゃありませんか。坊や、おまえなにか気がついたことがあったら、このひとたちに教えてあげるんだよ」  かくて一同はゆうべ勇猛果敢な坂井山関刑事が押しやぶった勝手口をぬけ、さらに炊事場との境の二重のドアをくぐって、ギャレージのなかへ入っていった。さすがにトラックのなかにある凄惨な七つ道具に眼をやったとき、一同はおもわず息をのんだが、それと同時に佐川哲也がそれに対して、どういう反応を示すかと、注意おさおさ|怠《おこた》らなかったことはいうまでもない。  佐川哲也もその凄惨なものに眼をやると、|怯《おび》えたような悲鳴をあげてとびのいた。そういう素振りをみると恐ろしいものに怯えるという、感受性はまだのこっているらしい。しかし、それが自分にどういう関係があるかという自覚は、全然欠けているらいしのである。だいいちそこはかれらが毎日のように集合して、練習に余念がなかった場所であるにもかかわらず、その記憶もうしなわれているらしい。  芥川警部補は哲也を事務室へ引っ張り込んで、そこに並んでいる楽器類を指摘して見せたが、それでもかれはなんの反応も示さなかった。そばから真田警部補が業を煮やしたように大声でわめいた。 「おい、あんちゃん、そのドラムはおまえさんが叩いていたもんだぜ。それでもおまえなにも思い出せないというのかい」  芥川警部補が加藤謙三をふりかえって、 「おい、坊や、おめえ太鼓は叩けねえのか」 「ぼくは駄目です。ギターならいくらか弾けるんですが」 「ちっ、役立たずめ、おい、坂ちゃん、こうなったら構うこたあねえ。こいつにジャズとやらを聞かしてやろうじゃねえか」 「おっとしょ」  言下に坂井刑事がプレーヤーのスイッチを入れたからたまらない。ギャレージのなかはたちまちにして爆発するようなジャズの騒音に充たされたが、それでもなおかつ、哲也は期待されたような反応を示さなかった。薄白く濁ったかれの瞳はただ途方に暮れ、戸惑いしているばかりのように思われた。 「この|狸《たぬき》め。いまに煙いぶしにかけても尻っ尾を出させてやる」  芥川警部補が|歯《は》|軋《ぎし》りしながら悔しがるのへ、そばから穏やかに抗議を申し入れたのは恵比寿顔の福徳円満居士である。 「おい、おい、気をつけてものをいってくれよ。これでもうちの署のもんが挙げてきた重要参考人だ。火責め水責めにされてたまるもんか」 「よし、それではこうしよう。その若僧の身柄は本庁で預かろう。そこでじっくり精神科の先生にかけて黒白をつけていただくことにしようじゃないか。真田君も芥川君も塩月君もそれならいいだろう」  等々力警部のその申し出はまことに|時《じ》|宜《ぎ》をえた時の氏神であった。  金田一耕助は加藤謙三をふりかえり、 「ときに坊や、この大工道具だがね、坊やはこれに見憶えはないかい」  ここにおいて謙坊の存在がものをいった。それらの七つ道具は全部このギャレージ備えつけのもので、ビンちゃんはよくそれらの道具を使って、この建物の故障箇所を修理していたという。また血に染まった二枚の毛布なども、二階のダブル・ベッドで使用されていたものにちがいないと、謙坊は|遅《ち》|疑《ぎ》するところなく証言した。 「するとこれはいったいどういうことになるんだね」  と、真田警部補が額の血管を怒張させて、 「犯行の現場はたしかに病院坂と思われるのに、あっちで殺した死体をここまで運んできて、ここで首を切断したあと、また病院坂へ持ってって風鈴みたいにぶらさげておいたというのかい」 「それとも、芥川君、ここが犯行の現場だということはないかね」 「それはね、警部殿。寝首を|掻《か》くという言葉がありますね。ビンちゃんなる被害者が寝首をかかれたというならともかく、ここはごらんのとおりで、格闘のあとらしきものはどこにもありません。あとでごらんになるでしょうが、二階はもっと整然たるものです」 「ときに坊や、このギャレージの鍵はだれが持っているんだい」  これは等々力警部の質問だが、それに対する謙坊の答えはいたって明快であった。  表も裏の勝手口も鍵はふたつずつあって、ビンちゃんとコイちゃんとがひとつずつ持っている。したがってふたりとも留守だとだれもこのギャレージへ入ることができない。ギャレージへ入れないと練習にもことかく始末である。だから台風の晩以来コンボの連中が困りきっており、哲也の憤慨は爆発点に到達していた。と、いってうっかり勝手口を押し破って、侵入でもしようものならあとの|祟《たた》りが怖ろしい。ビンちゃんはふだんは仏様のようにおだやかで優しい人物だが、|憤《おこ》るとサムソンみたいな力持ちなのだから、|云《うん》|々《ぬん》。 「そうするとビンちゃん以外にこのギャレージへ、自由に出入りができるのは小雪という娘しかいないわけだね」 「はい」 「その小雪という娘はクルマの運転ができるかい」 「クルマの運転はみんなできます。できないのはぼくだけなんです。ぼくはまだ見習いだから、目下教習所へ通って練習中なんです」 「よし、それじゃ警部さん、二階へご案内しましょうか」  二階のダブル・ベッドを見たとき、佐川哲也の顔にかすかな動揺が起こった。しかし、それは若者ならだれにでも起こる、血の衝動に過ぎないように思われた。さっきはあれほどコイちゃん、コイちゃんと絶叫していたのにもかかわらず、いまではその名前さえ|茫《ぼう》|漠《ばく》たる、記憶の煙幕のなかに封じこまれてしまったらしい。  金田一耕助は芥川警部補から、ダブル・ベッドの枕下にある床の間の天井からぶらさがっている、あの焼けただれた風鈴と、その風鈴に吊るされた琢也筆の短冊を指摘されたとき、全身をつらぬいて走る戦慄を抑制することが出来なかった。かれはしばし、なにか|凶《まが》|々《まが》しいものでも見るような|茫《ぼう》|然《ぜん》たる眼で、その風鈴を凝視していたが、さらに芥川警部補から小抽斗のなかにある、二種類の短冊を示されるにおよんで、かれの顔色はさらに悪くなり、大きく|喘《あえ》ぐその息遣いは、そこにいるひとびとの注目を浴びずにはいられなかった。 「金田一先生はこの短冊になにか重大な意味があるとお思いですか」 「それは……それは……」  と、金田一耕助は喘ぐように、 「琢也というのは法眼琢也先生、法眼病院の院長だったひとですが、小雪という娘の実父であると同時に、ビンちゃんなる青年にとっては養父になるひとです。それから、天竺浪人というのはビンちゃんの雅号ですからね」  と、金田一耕助が悩ましげな眼をして|呻《うめ》いたのもむりはない。  加藤謙三はここに風鈴のあることはしっていたが、小抽斗のなかにある短冊のことは全然しらなかったという。ましてやビンちゃんが天竺浪人という雅号をもっていて、和歌を|詠《よ》んでいたなどということは、いまはじめて聞く事実だと目を丸くして驚いていた。  と、いうことはそれを知っていたのは小雪だけではなかったか。しかも病院坂の現場に、風鈴のように吊るされていたビンちゃんの生首には、天竺浪人の短冊がぶらさがっていたのである。 「ときに、謙坊、おまえの眼からみて、この部屋からなにか消えているものはないかね」  等々力警部の質問に、謙三が答えたところによるとこうであった。  押し入れの上段の片隅に、不要になった夜具蒲団の類がふたかさね、キチンと折り畳んで積み重ねてあることはまえにもいったが、謙坊がここに世話になっている時分、それらの夜具蒲団の類はふたつの大きな蒲団袋におさまっていたという。それらの蒲団袋は濃紺色をした厚手の麻製の布から出来ており、小雪のとくべつの注文で防水がほどこしてあったときいて、捜査員が色めきたったのもむりはない。 「それだッ!」  芥川警部補がわめいた。 「それへ首なし死体かバラバラ死体を詰め込んで持っていきゃあがったにちがいねえ。その時分まだ血がポタポタと垂れていたにちがいねえから、防水した蒲団袋とは、お|誂《あつら》えむきの包装用具だったにちがいありませんぜ」 「しかし、ねえ、芥川さん」  と、金田一耕助は悩ましげな眼をして、 「犯人はなぜそんな厄介なことをしなければならなかったんです。犯人はなぜ首から下の死体を、そんな手間暇かけてまで、ここから運び出さなきゃあならなかったんです」  金田一耕助はそのとき、ひとりの警部殿と三人の警部補殿、その他もろもろの敏腕の刑事殿たちの注視を一身に浴びている自分を発見すると、ガゼンテレてはにかんで、もじゃもじゃ頭をやけにひっかきまわしながら、猛烈に|吃《ども》りはじめた。 「ぼ、ぼ、ぼくはなにもあなたがたみたいな、ゆ、ゆ、ゆ、有能な、せ、せ、専門家にむかって、は、は、犯罪の、こ、こ、講義を、す、す、するつもりはありませんが、そもそもバラバラ事件だの、首なし事件だのというものは……」  と、そこでやっと落ち着きを取り戻すと、いくらか舌の滑りがよくなった。 「死体の身許をくらますか、|隠《いん》|蔽《ぺい》したいというのが目的でしょう。それによって捜査の方向を|過《あやま》らせ、犯人の身の安全を計りたいというのがふつうですね。ところが今度の場合それが全然ちがうんです、完全にあべこべなんです」 「全然ちがう? 完全にあべこべとは……?」 「ああ、芥川さんはまだ、この事件発見の|顛《てん》|末《まつ》をきいていらっしゃらないんじゃありませんか」 「ああ、いや、そういえば高輪署からの連絡によれば、むこうの管轄内の空家から、男の生首が発見された。被害者の身許はこれこれこうで、当署の管轄内の居住者である。そこに被害者の妹の小雪という娘がいるはずだから、適当に保護をくわえてほしい……」 「ああ、それじゃ事情がおわかりにならないのもご無理じゃありません。警部さん、それとも真田さんからお話になりますか」 「いや、いや、これは金田一先生からどうぞ。あなたがこの事件に関しては、いちばん深い関係者なんだから。真田君、いいだろう」  真田警部補にも異存はなかった。 「ああ、そう、それじゃぼくから申し上げましょう。ああ、そのまえにだれかこのふたりを|階《し》|下《た》へつれてって、保護をくわえておいてくださいませんか」  と、哲也と謙坊を敬遠したのは、これは当然の配慮であったろう。 「じつは、芝高輪台町に本條写真館というのがあります。昨夜の十時半ころその写真館に、小雪とおぼしい女性から電話がかかって、いまからすぐに病院坂のこれこれしかじかの空家へいって、そこのホールの中央にぶらさがっている風鈴を写真にとっておいてほしいと、こういう電話がかかってきたんですね。ところが本條写真館には三人いるんですが、三人そろってカメラをかついで出掛けたところ、あにはからんや、ホールの中央にぶらさがっていたのは風鈴にあらずして生首だったわけです。その生首には天竺浪人の短冊がぶらさがっていましたから、その生首をもって風鈴になぞらえてあったわけですね」  金田一耕助は悩ましげな眼で、床の間の風鈴を見やりながら、 「どうしてそんなことをやったのか、その真意はまだわれわれにはわかっておりません。ただ問題は本條写真館の三人は、その生首のぬしにまえにいちど会ったことがあり、それがジャズの連中だということをしっていたということです。だから小雪とおぼしい女性の真意は、だれかにはやくその生首を発見してほしかった。そして警察へとどけてほしかった。またジャズの仲間にもしってもらい、|手《て》|篤《あつ》く|葬《ほうむ》ってほしかった……それにはこういう背景が考えられるのです」  金田一耕助はそこでひと呼吸いれると、物悲しげな眼を床の間の風鈴にむけて、 「昭和二十二年におなじ空家のおなじ場所で、お冬という女性が|縊《い》|死《し》をとげている。そのお冬という女性は小雪の母なんです。ところがその死体発見がおくれたために、お冬なる女性は全身|腐《ふ》|爛《らん》して、体中に|蛆《うじ》がわいていたそうです。だから今度はそうなるまえに、だれかに生首を発見してほしかった……と、いうのが小雪の切なる願いじゃなかったかと思われるのです」  そこで金田一耕助はまた、暗然たる眼を芥川警部補にむけた。その眼には救いようのない哀感がみなぎっているように思われた。 「こう申し上げると小雪がなぜビンちゃんなる被害者の、首から下をどこかへ持ち去ったかということに、大きな矛盾をお感じになりませんか。なるほど芥川さんの指摘なさるとおり、ビンちゃんの首から下は、そのふたつの蒲団袋にくるまれて、どこかへ持ち去られたのでしょう。しかし、なぜそんなことをしなければならなかったか。さっきも申し上げたとおり、被害者の身許はわかっているんです。しかも、この家が捜索されるであろうことは予知できることです。捜索されればここが首切り現場であることは|一目瞭然《いちもくりょうぜん》でしょう。なぜビンちゃんの首から下をここへおいておかなかったのです。犯行の現場が病院坂の空家であることは、これまた一目瞭然ですが、そこでなぜ首を切断しなかったか。むこうはそれに必要な道具がなかったからでしょう。そこでここまで死体を運んできて死体を解体し、生首をまたむこうへ持っていったのでしょうが、それならばなぜ首から下も持っていって、そこへおいてこなかったのでしょう。おなじ葬られるのならば、首と胴とをつなぎあわせて葬ってほしいと思うのが人情でしょう。それにもかかわらずなぜ首から下をかくしたか……? いまのところ隠したとしか思えませんからね」 「金田一先生にはその理由がおわかりですか」 「いいえ、わかりません。てんで見当もつきません」 「金田一先生はその後小雪はどうしたとお思いですか」 「おそらく死を覚悟しているでしょうね」  金田一耕助の口調には救いようのない暗さがあった。  そのときそばから口を出した坂井刑事の説明によると、この二階から紛失しているものがもうひとつあった。預金通帳と印鑑である。 「いかにデタラメなジャズ屋でも、預金が一文もないとは思えないんですが」  あとで階下へおりて謙坊にきくと、山内敏男名義で郵便局の貯金通帳があり、その金の出し入れは一切小雪がやっていたという。郵便局は謙坊がしっていた。 「よし、さっそくそっちへ手配をしろ。預金を引き出したものがあったら、そいつの人相風体をよく聞き出しておけ」  そこへ別の刑事が入ってきて、 「主任さん、いま高輪署の加納刑事から連絡があって、秋山風太郎と原田雅実なる人物が、品川署の刑事に付き添われて、高輪署のほうへ出頭してるそうですが、そっちへ差しむけましょうか、それとも当署へとめおこうかと連絡してきているんですが」 「よし、それではそっちへとめおくようにと伝えておいてくれたまえ」  うむをもいわさぬ調子で等々力警部が命令すると、 「真田君、それではそろそろ引き揚げようではないか。あとは芥川君にまかせておけばいい、塩月君、佐川哲也は本庁へ引き取る、いいな」  福徳円満警部補殿には異存はなかった。 「ときに金田一先生はどうなさいます」 「ぼくも秋山君や原田君には会っておきたいですね。お邪魔でなかったら」 「邪魔にゃしませんよ。むしろ大歓迎です。だけど先生もタフですね」 「こうみえても東北人ですからね」  勝手口から外へ出ると新井刑事が待っていた。 「警部さん、さっきのことですがね」 「さっきのことって? そうそう、君、なにか妙なものを拾ったとか発見したとかいっていたな」 「それがこれなんですがね。ギャレージの入口ちかくで拾ったんです」  新井刑事の掌にのっかっているのは小さな鍵である。 「あっ、それ、このギャレージの鍵かい?」 「なにいってるんですよう。しっかりしてくださいよ。これわれわれのお手のもの、|手錠《てじょう》の鍵じゃありませんか」 「しかし、こんなものがどうしてこんなところに……?」 「いえね、金田一先生、いまからひと月ほどまえのことなんですが、|碑《ひ》|文《もん》|谷《や》署の管轄内の派出所から、手錠がひとつ盗まれたという報告があったんです。それが妙な泥棒で、手錠のすぐそばに拳銃もあったんですが、拳銃には手をつけずに手錠だけ盗んでいってるんですね。それが印象にのこっていたもんだから、いま碑文谷署へ電話をかけて問い合わせたところ、盗難にあったのは先月、|即《すなわ》ち八月十六日のことだというんですがね」 「しかし、新井君、それがこんどのこの事件と、どういう関係があるというんだね」 「だってさ、被害者の山内敏男はサムソン野郎という異名があるほどの怪力の持ちぬしなんですぜ。それがむざむざ殺されたというのはおかしい。だけどそのときビンちゃんが、手錠をかまされていたとしたら話はべつですぜ。それこそ、逃げまわるビンちゃんを追っかけまわして、一寸試し五分刻み、犯人の思うままだったでしょうよ」  だからこれはやくざの出入りにちがいありませんぜと、新井刑事は主張するのである。  しかし、金田一耕助はべつのことを考えていた。ビンちゃんみたいな怪力の持ちぬしに、手錠をはめるということは容易な|業《わざ》ではあるまい。  セシル・B・デミル作るところの映画「サムソンとデリラ」では、サムソンはデリラの誘惑に屈したのみならず、デリラの甘言にのっておのれの怪力の秘密を打ち明けた。サムソンの怪力の源泉はその頭髪にあった。その頭髪を切り落とされたとき、サムソンは怪力をうしなって、ペリシテ人の|奴《ど》|隷《れい》にされてしまった。ここにビンちゃんを|欺《あざむ》き、ビンちゃんから怪力を奪うため、甘言をもって手錠をはめた女、デリラがいるのではないか。そのデリラとはいったいだれか。小雪なのか、それとも、昨夜アメリカの軍用機で日本を飛び立っていったもうひとりの女、由香利ではないか。  それともうひとつ金田一耕助の心にひっかかるものがある。手錠が盗まれたという八月十六日。……それは由香利が軽井沢から誘拐された日の前々日ではないか。      十  フロリダの風ちゃんこと秋山風太郎と、マイアミのまあちゃんこと原田雅実は、二十日の晩も六時ごろ五反田へ出向いていったのである。しかし、ギャレージはあいかわらず締まりっぱなしで、ビンちゃんもコイちゃんも留守らしい。仕方なしに駅前のモナミという喫茶店へ出向いていって、八時ごろまでそこにネバっていた。その間哲ちゃんのアパートへ電話をしてみたが、その哲也も依然として留守だという。これはあとでわかったことだが、哲也のただならぬ狂態を案じて、貞子がだれにむかっても居留守を使っていたのである。  少し遅れてケンタッキーの謙坊こと加藤謙三がやってきたので、たびたびギャレージのようすを偵察にやったが、いっこうシャッターの開く模様がないので、とうとう諦めて八時ごろふたり揃ってそこを出た。  原田雅実が十八日の早朝ビンちゃんの要請で、病院坂の問題の家へ、またぞろ配線工事をやってきたことを打ち明けたのはその間の出来事である。 「しかし、それはどういう意味なんだ」 「なにさ、ちかごろビンちゃんとコイちゃん、風雲ただならぬものがあるだろう。そこでもういちどあの家で、ご祝言の思い出をあらたにして、|撚《よ》りを戻そうという寸法じゃあねえのかな。ビンちゃん、それを匂わせるようなことをいってたかんな」 「なるほど、そういえばわからないことはないが、だからといってわれわれを、すっぽかすというのはどういうわけだ」 「いえさ、撚りが戻りすぎてどっかへご旅行というところじゃねえのかな」 「しかし、それならそれでなにか連絡がありそうなもんだ。ビンちゃんにしろコイちゃんにしろ、それほど無責任な人間とは思えないが……それに哲ちゃんのほうはどうしてんだ」 「哲のほうはふたりを追跡中というところじゃねえのかな。それともそれに感づいてふて寝してるのかもしんねえ」  それらの会話を謙坊が小耳に挟んでいたわけである。八時ごろふたり揃ってそこを出るとき、謙坊もいっしょにいきたがったのだが、 「おまえらみてえなジャリのくるとこじゃねえ」  と、まあちゃんにすげなく袖にされてしまった。  それからふたりが訪ねていったのは、|市《いち》ケ|谷《や》にある有名な詩人のうちだった。  |井《いの》|上《うえ》|良《よし》|成《なり》といえばひともしる詩壇の大家、最初は正統派の詩人としてスタートを切ったが、途中歌謡曲の作詞家に転向したところ、これが大ヒットして戦前戦後をつうじて、レコード界の大御所的存在としてひろく世間にしられている。もっとも戦争中はこのひとも不遇であった。軍や情報局からどんなに要請されても、軍歌だけは作らなかった。おかげでだいぶその筋から|睨《にら》まれたらしいが、結局そういう節操の堅さが戦後に実って、終戦直後いちはやく全国を|風《ふう》|靡《び》して荒廃した当時の世相に|一《いち》|縷《る》の希望を持たせた、「恋愛歌」はこのひとの作詞である。それ以来トントン拍子に戦前の地位を回復したばかりか、いまではほかに並ぶものなしという勢力をレコード界ではもっている。  しかし、家庭的には恵まれず、戦争中|糟《そう》|糠《こう》の妻を失い、戦後現在の妻|美《み》|禰《ね》|子《こ》という、親子ほども年齢のちがう女性と結婚した。美禰子は戦後売り出しかけた流行歌手だが、良成と結婚するにおよんでそのほうは廃業してしまった。先妻にもいまの細君にも子供がない。そのせいかどうか、夫婦そろって麻雀といえば眼のないほうである。  秋山風太郎はちかごろ「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」の将来に、見切りをつけているというよりは、ジャズ・ピアニストとしての自分の才能に限界を感じている。  かれの実家の山藤というのは|浅《あさ》|草《くさ》にあり、江戸時代から芝居の小道具を扱っている古い|暖《の》|簾《れん》である。風太郎というのはもちろん自分でつけた芸名で、本名は|浩《こう》|二《じ》。浩二だから次男だが、おとなしく家にいておやじや兄貴の手伝いをしていれば、あっぱれ若旦那でとおる身分である。しかし、かれにはその稼業の因襲的な古さが気にくわなかった。ジャズというもっとも自由で|尖《せん》|端《たん》的な大衆音楽に走ったのも、カビ臭い伝統だの形式だのというものに対する|反《はん》|撥《ぱつ》だったかもしれない。  いったん芸能界に身をおいた人間が、容易にそこから脱出できないのは、いまも昔もおなじだが、昭和二十八年時代の若者にとって、ことにその執着が強かったというのは、その年の二月に日本放送協会が、テレビの放映を開始しているからである。佐川哲也が将来フル・バンドを編成して、タクトを|揮《ふ》ってみたいという欲望をもっているのも、かれの体内にもえたぎる血が、テレビという大きな大衆との媒介体の誘惑に抗しきれなかったからである。  それに反して風ちゃんは人間も温厚で、思慮分別にもとんでいた。かれはもっと地道で堅実な将来を夢想していた。風ちゃんの志望は流行歌の作曲家なのである。かれはその晩訪ねていった井上良成の作詞で、すでに先輩の作曲家によって作曲され、げんざい世間に流布している流行歌を、自分なりのセンスで作曲しなおしてみて、良成先生に聴いてもらったことがある。  それについて、この老大家のいわくにこれはたしかに新しいいきかたである。しかし、いまこの時点ではいささか尖端的でありすぎないか。流行歌の本流はなんといっても演歌である。演歌とは日本人の心の歌なのだから、多少かたちを変えながらも、いついかなる時代でも生きつづけるであろう。では日本人の心とはなんぞや。それは義理と人情である。さいわい君の生家はああいう稼業なのだから、君の体内に義理人情の血脈が流れていないとは思えない。いましばらく|逸《はや》る心をおさえて、演歌の勉強をしてみたらどうかと。  風太郎は内心この先生も古いなと思いながらも、元来が素直で温厚な性格なのである。生きていくということは、妥協するということなのかもしれないと、いっぽうでは感服している。若い細君もだいたいおなじ意見でそばから激励してくれた。まんざらのお世辞とは思えず、風太郎は希望をもって、今夜は第二曲目を用意しているのである。  マイアミのまあちゃんこと原田雅実の考えかたは、それとはだいぶちがっていた。かれのサックスに関する才能は可もなく不可もなくというところだろう。しかもかれはいま「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」の危機を|膚《はだ》をもって感じとっている。もしこれが解散ということになれば、ここらで足を洗ってもよいとさえ考えている。  かれは電気技術者を養成する学校を出て、ひところ配電会社に勤めていたことがある。しかし、かれはむしろ電気器具に興味をもっていた。小手先の器用なかれはいちじアメ屋横丁の電気器具店に勤めていて、ひどく調法がられているうちに、若者の狂気に取り|憑《つ》かれたのである。かれの勤めていた電気器具店では、いまでもかれの才能を惜しがって、いつでも帰って来いといってくれている。  ふたりが悪天候をついて市ケ谷の先生のところへ着いたのは、夜の九時ごろのことだったが、|恰《あたか》もよし、先生はきょう新曲のレコーディングが終わったところで、しかも、それが上乗の首尾だったとやらで、ゴキゲンすこぶる|麗《うる》わしかったところへもってきて、おりからの悪天候でほかに客もなく、相手ほしやで手ぐすねひいて待っているところであった。  先生はふたりの顔を見るとさっそく麻雀をやろうといい出した。風太郎としてはそのまえに新曲をみてほしかったのだが、そう|我《わが》|儘《まま》もいえず、ご夫婦のお相手を務めているうちに、もうイーチャン、もうイーチャンで夜が更けて、とうとう終電車を逸してしまった。 「いいから泊まっていけよ。新曲のほうはあしたゆっくり見てあげる」  で、結局そこへ泊まってしまったが、七時ごろ御不浄に起きた奥さんが、なにげなく新聞をひらいてみて、けたたましい声を張りあげた。 「風ちゃんもまあちゃんも起きなさいよ。大変よ、大変よ、病院坂の首縊りの家で、あんたがたのお仲間のビンちゃんが、生首になってぶらさがっているそうよ」  その朝刊にはまだ詳しいことは出ていなかった。しかし、病院坂の法眼家の空家の一室に、ジャズ・コンボ「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」のリーダー、ビンちゃんこと、山内敏男の生首がぶらさがっているということは事実らしかった。  四人は|蒼《あお》くなって|鳩首協議《きゅうしゅきょうぎ》をした結果、 「とにかく君たちはまっすぐ家にかえりたまえ。ひょっとすると家には警察のものがきているかもしれない。じたばたしないでその連中の指示にしたがうんだな。君たちがゆうべここへ泊まったことはわれわれ夫婦が証明してあげる。それにしてもビンちゃんいつ殺されたのかな」  先生は眉をひそめて数種類の新聞を読み較べていたが、それらの新聞記事だけでは、まだそこまではわかっていなかった。  風太郎と雅実はこの先輩の忠告にしたがって、ふたりつれだって風太郎の下宿へ帰ってきた。下宿には果たして品川署の刑事がふたりきて待っていた。こうしてかれらはこの事件の捜査本部の設けられた高輪署へ出頭したのである。      十一  最初に取り調べ室へ呼び込まれたのは秋山風太郎のほうだった。それがよかったのである。かれも髪を長くのばし、顔中ヒゲに埋まっているのだから、訊き取り役に当たった戦前派の真田警部補のごとき人物の眼からみれば、|胡《う》|散《さん》|臭《くさ》さをとおり越して、凶悪そのもののように見えるのだが、しばらく相対しているうちに、柔和で温良な人柄がうかがわれ、ヒゲを剃り落とした顔を想像すると、こいつ案外お坊っちゃんお坊っちゃんした好青年かもしれないと、さすが高血圧の真田警部補にも、気脈が通じてくるらしかった。そばには等々力警部と金田一耕助がひかえており、書き取り役は加納刑事である。  風太郎はまず型通り住所氏名職業を|訊《たず》ねられたのち、 「ところで、君、さっきうちのものが訊ねていったとき、君は下宿にいなかった。ゆうべどこかで外泊したようだが、どこに泊まったんだね」  それに対して風太郎はありのままを答えた。かれの挙げた詩人の名は、そこにいるだれでもがしっていた。 「なるほど、すると君はなぜここへ出頭を要請されたかしっているわけだね」 「はあ、ただし、しっているといっても、けさの朝刊に載っている記事の範囲内のことだけですけれど……」 「それじゃもうひとつ聞くが、君、十八日の晩といえば台風の晩のことだから、思い出しやすいと思うのだが、その晩、君はどこにいたかね」 「じゃ、あの晩、ビンちゃんは……」  と、少し激した調子でいいかけたが、すぐ自分を抑えると、 「その晩ならゆうべとおなじです。やはり井上良成先生のところへ泊めていただいたんです」 「へへえ、君はよく井上先生のところへいくんだね」  ここにおいて真田警部補の声音には、急に|猜《さい》|疑《ぎ》のひびきが濃厚になってきた。風太郎もそれに気がついたのか、いくらか|急《せ》き込むような調子になって、最近におけるおのれの心境を|披《ひ》|瀝《れき》したのち、 「あの晩のことならぼくよく憶えています。八時か八時半ごろまでみんなモナミで、ギャレージの開くのを待っていたんです」 「おっと、ちょい待ち。みんなというのはだれとだれだね」 「ドラムの哲ちゃん、佐川哲也ですね。それからテナー・サックスの原田雅実、さっきぼくといっしょにここへきた男です。それからギターの吉沢平吉と見習いの加藤謙三、それにぼくの五人です」 「ふむ、ふむ、それから……?」 「そしたらいつまで待ってもギャレージが開かないんです。電話をかけてもだれも出ない。こんなことはいままでいちどもなかったことですから、みなん途方に暮れたんですが、そのうちに哲ちゃんが|憤《おこ》って帰っちまったんです」 「佐川哲也が憤って帰ったんだね」 「それは憤りますよ、だれだって。ギャレージが開かなければ練習もできないんですからね。ぼくだって腹が立ちましたよ。そこへ哲ちゃんが飛び出してしまったので、みんな散会したんですが、ぼくはふと思いついてモナミから井上先生にお電話してみたんです。まえから先生にぼくの作曲をみていただくというお約束ができていたうえに、ちょうどぼくの第一曲ができていて、その譜面を持っていたもんですから。そしたら奥さんが電話を取り次いでくださいまして、ちょうどいい、いま森ひろしさんが来ていらっしゃいますから、森さんに唄っていただきましょうというわけです。森ひろしさんご存じでしょう。いま売り出しの歌手ですから」  森ひろしなら真田警部補もしっていた。いま売り出し中の演歌調の歌手だからである。 「森さんなんかも先生に発掘され、先生の推薦で世に出た歌手です。先生、レコード界ではすごく勢力をもっていらっしゃいますからね。だからぼくも大喜びでお伺いして、森さんに唄っていただいたんですが、ぼくの曲はまだまだということでした。ところがそのあとがお定まりの麻雀。先生ご夫婦ときたら麻雀に眼のないほうで、悪くとれば森さんひとりじゃメンバーが足りない。そこでぼくが呼ばれたみたいなもんです」 「麻雀は何時ごろまでやってたんだい」 「あの晩十一時ごろ停電があったでしょう。それまでやっていたんですが外は大荒れです。これじゃ帰るに帰れまいということになって、森さんとふたりで泊めていただいたんです」 「すると、君にはアリバイがあるというわけだね」 「するとやっぱりあの晩……」  と、|急《せ》き込みそうになるのを自分で抑えて、 「それは先生ご夫婦や森さんが証明してくださるでしょう。ビンちゃんがやられたのは何時ごろだかしりませんが、停電になったからってぼくたちすぐ寝たんじゃありません。奥さんがスタンド型の懐中電灯を持ち出されて、十二時過ぎまで先生のお話をお伺いしていたんです。森さんやぼくはあまりやりませんが、先生は酒豪でいらっしゃいますし、お飲みになると|談《だん》|論《ろん》|風《ふう》|発《はつ》というかたですからね」 「ところで、君は君たちのグループのなかで、早晩こういうことが起こるであろうという、なにか予感めいたものは持っていなかったかね」  風太郎はしばらくまじまじと警部補の顔を見詰めていたが、やがてかるく頭をさげると、 「それが全然なかったといえば嘘になります。こんなことぼくが隠してたって、ほかの連中にきけばすぐわかることですが、ビンちゃんと哲ちゃん、ことごとに張り合ってましたからね。しかし、主任さん、ぼくはまだ新聞知識しかないんですが、ビンちゃん、たんに殺されたばかりではなく、首を切り落とされて天井からぶらさげられていたんですって?」 「ああ、そう。それについて君はどう思うね」 「それじゃ哲ちゃんじゃありませんね。それは人間は感情の動物といいますから、哲ちゃんカッとして、もののはずみにビンちゃんを殺さないものでもありません。しかし、首を切り落とすなんて、そんな残忍性は哲ちゃんのものではありませんし、だいいちなぜそんなことをする必要があるんでしょう。それでは手間暇がかかるばかりではありませんか」  それは佐川哲也以外のだれにでも当てはまることばである。そこでそのことについて警部補と秋山風太郎とのあいだに一問一答が繰り返されたが、なんの進展もないままに、いたずらに時間が経過するばかりであった。  見るに見かねたように金田一耕助がそばから身を乗り出して、 「主任さん、ぼくにちょっとこのひとに質問させてくださいませんか」 「さあ、さあ、どうぞ」 「いやね、秋山君、これはここにいるひとたちのなかで、ぼくだけがしっていることなので質問ができるんだが、君の生家は浅草の山藤さんだそうだね」 「金田一先生、浅草の山藤と申しますと」 「警部さんはご存じではありませんか。芝居の小道具やなんかを扱う店ですよ。江戸時代からの古い|暖《の》|簾《れん》があるじゃありませんか」 「ああ、あの山藤」  と、いったものの警部にはそれがなにを意味するのかわからず、真田警部補も同様らしかった。しかし、風太郎にはそれがわかったらしく、まず真っ赤になったかと思うと、つぎの瞬間、金田一耕助の顔を見直しながら、血の気が引いて唇の色まで蒼ざめた。  かれはさっきから、金田一耕助の存在がふしぎでならなかったのだ。刑事の変装としてもずいぶんショボクレた男もあったもんだと、内心ひそかに軽蔑していた。それがいま自分を取り調べている、ここの捜査主任らしい人物より、一段格式がうえとおぼしい人物が、畏敬の念をこめて先生と呼ぶのをきいて、ああ、このひとかとひそかに思い当たると同時に、顔面から血の気がひいていったわけである。  秋山風太郎は金田一耕助の名をしっていた。風采のあがらない一見モッサリした男だが、すごく頭の切れる私立探偵だということを、いつだれからともなく聞いていた。唇の色まで蒼ざめたゆえんである。しかし、風太郎は、 「ええ、ぼく、山藤の|倅《せがれ》ですが……」  と、悪びれずに答えてあらためて相手の顔を見直した。風太郎には金田一耕助のつぎの質問がわかっていたようである。  金田一耕助は|人《ひと》|懐《なつ》っこい眼でニコニコ笑いながら、 「ここにいらっしゃるひとたちは、つい度忘れしてらっしゃるらしいんだが、こんど事件のあった家ね、ビンちゃんの生首のぶらさがってた家さ。そのうち病院坂の途中にある空家なんだが、その空家のなかでこの夏……正確にいうと八月二十八日の夜のことなんだが、そこで奇妙な結婚式があったんだが、君、それを憶えてるだろうね。君もたしか出席したはずなんだが……」 「憶えています。ビンちゃんとコイちゃん、即ち山内敏男君と山内小雪ちゃんが結婚式をあげたので、ぼくたちメンバー全員がお祝いに出席したんです」  風太郎はこんどもまた悪びれずに答え、相手のつぎの質問を待ち構えるような顔色だった。金田一耕助はあいかわらずニコニコしながら、 「ところがねえ、風太郎君、そのときビンちゃんは黒紋付きの羽織袴、コイちゃんは文金高島田のかずらに、大振袖といういでたちはまだよいとして、そこ空家だろう、それにもかかわらず玄関には|衝《つい》|立《たて》、式場のホールには金屏風まで用意してあったそうだが、風ちゃん、それらの衣裳小道具は|一《いっ》|切《さい》|合《がっ》|財《さい》、君が調達したんじゃないの、君の生家のほうに手をまわして……」  ここにいたって等々力警部も真田警部補も、やっと眼が覚めたらしい。警部は大きく眼をみはり、警部補もギョッとしてなにかいいかけたが、すぐ思いなおしたように口をつぐんだ。  いまここで金田一耕助と秋山風太郎とのあいだに、|鍔《つば》ぜりあいが演じられているらしい。その鍔ぜりあいからいったいなにが跳び出すか、しばらくようすを見ていようと思ったのだろう。風太郎はしかし平然として、 「はあ、ビンちゃんに頼まれたもんですから」 「しかし、風太郎君、それ少しおかしいんじゃないか。見たところ君は思慮分別にもとんでるようだ。いかにビンちゃんに頼まれたからって、またその家がたとえ空家だとしても、ひとさまの家を勝手に使って式をあげるのを、君みたいなひとが意見もしないで、反対にひと肌ぬぐなどというのはね」  秋山風太郎は|莞《かん》|爾《じ》として、 「金田一先生、金田一耕助先生でいらっしゃいますね。ご高名はかねがね|承《うけたまわ》っております」 「ああ、そう、ありがとう。で……?」 「先生はご存じないのですか、それとも知っていらっしゃりながらぼくにカマをかけていらっしゃるのか、ぼくにはどちらともわかりかねますが、あの空家はまんざらひとさまの家ではないのです。あれはコイちゃん、小雪ちゃんの実家なんです」  ああ、そうだったのかと等々力警部も真田警部補も、またぞろ目玉をひんむいた。ふたりにははじめてこの鍔ぜりあいの意味がわかってきた。金田一耕助はそのことばを、秋山風太郎から引き出したかったのだ。  金田一耕助はまじまじと相手の顔を見守りながら、 「ああ、そうだったの。じゃ君はしってたんだね。小雪ちゃんの素性を……?」 「ぼくだけがしっていたんです」 「どうして? ビンちゃんが打ち明けたの」 「いいえ、そうじゃありません。それにはこういういきさつがあるんです」  秋山風太郎はひと息いれると、往時を追想するような眼をして、 「われわれのコンボが編成されたのは、いまからちょうど一年まえのことなんですが、ぼくはビンちゃんをそれよりズーッと以前、昭和二十三年ごろからしっていたんです。その時分ビンちゃん、『|飢えたる《ハングリー・》|骸骨たち《スケルトンズ》』という妙な名前のジャズ・コンボの見習いをしていたんです。そのグループにときどき小雪という、十六、七の少女がやってきてソロを唄うんですが、それがすごく可愛いんですね。それでメンバーのひとりに聞いてみたら、あのきょうだいのことなら、去年の六月ごろの新聞を調べてみな。そしたら素性がわかるだろ。だけど、わかってもだれにもいうな。当人たちはひた隠しに隠してるんだからって、そう聞いたもんですから、ぼくも好奇心が強かったんですね。図書館へいって二十二年の六月の新聞をすみからすみまで読んで、やっとふたりの名前を発見したんです。その事件、金田一先生もご存じなんでしょう」 「その事件ならぼくより、そこにいる刑事さんのほうがよくご存じだ。その事件を扱った担当者だからね」 「ああ、いや、これはどうも」  風太郎は如才なく加納刑事のほうに目礼を送って、 「あれを読むとあまりにも悲惨な事件でしょう。ぼく金持ちの非情というか冷酷さに、大いに義憤を感じましたね。しかし、そのときはそれっきりで、あのふたりとも長いことご無沙汰で過ぎていたんです。そしたら去年の夏ごろビンちゃんがやってきて、こんどこれこれこういうメンバーでジャズ・コンボを編成するから、ぜひ仲間に入れって誘ってくれたんです。そうそう、申し忘れましたが、ぼくそれまであちこちのクラブやキャバレーで、バイトでピアノを叩いていたんです。ぼくすっかりビンちゃんの人柄に惚れこんだのと、メンバーのうちドラムの哲ちゃん、佐川哲也とテナー・サックスの原田雅実、いまここへきている男ですね、このふたりはしってました。佐川とはべつにつきあいはなかったんですが、原田とは以前から仲好しで、あいつがまあぼくを推薦してくれたようなもんです。ギターの吉沢平吉は佐川の推薦だったようです。とにかくそうしてだいたい話がきまったところで、ぼく小雪ちゃんの素性をしってる、きょうだいといっても、あんたとはなんの血のつながりもないんだそうだねと、つい口を滑らせたところ、さあ、ビンちゃんの血相が変わったのなんのって、ぼくひょっとしたら、|捻《ひね》り殺されるんじゃないかと思ったくらいです。いや、これは決して大袈裟じゃなく、なにせあの巨体ですからね。ところがつぎの瞬間、まるで|跪《ひざまず》かんばかりにして、そればっかりは絶対に他言してくれるな。ほかの連中には父親ちがいのきょうだいということにしてあるからと、それこそ泣かんばかりにして頼むんです。それでぼくもOKして、ここでお話をするまでは、いままでだれにもそのことを打ち明けたことはありませんでした」 「しかし、ビンちゃんはなぜそのことを、そんなに秘密にしたがったんだろうな」  これは真田警部補のもっともな呟きだった。 「それはやっぱり男の意地ではないでしょうかね。あの家、つまり法眼家に|撥《は》ねつけられて、コイちゃんのおふくろさんがあの家で、首をくくって死んだでしょう。その時分あのきょうだい、餓死寸前の状態だったことがあるらしいんですね。ですから妾腹とはいえ法眼博士の娘ともあろうものを、人前に立たせるような稼業をさせているということが世間にしれたら、法眼家にたいするイヤがらせととられやあしないかと、それを|懼《おそ》れていたようです。ビンちゃんもコイちゃんも、とてもプライドの高いひとたちですからね」 「いや、わかりました。それであの家で式を挙げるといい出したとき、君はその心情を哀れと思ったんだね」 「はじめはもちろん反対しましたよ。それじゃ少しおセンチに過ぎやあしないかと。しかし、ビンちゃんがどうしてもと|肯《き》かないので、まあ、その熱心さに押し切られたというべきでしょうかね。いまでは後悔しております」  ここにおいて金田一耕助ははじめて、小雪の素性について確信を持つことが出来たのである。多門修の調査はまだそこまでいっていなかった。  しかし、金田一耕助はここでその夜の結婚式の情況について、もっと突っ込んだ質問をすべきであった。かれはその夜の花嫁を由香利ではなかったかという強い疑惑をもっている。それにもかかわらずかれはそれをやらなかった。この事件が結局暗中模索のうちにおわったあと、かれはその点について長いあいだ自責の念に悩まされなければならなかった。 「それでは、主任さん、あなたからどうぞ」 「ああ、そう、それではぼくから聞くが、秋山君、君、小雪という娘のいどころをしらないかい」 「小雪ちゃん?」  風太郎はたちまち真っ蒼になって、 「小雪ちゃんのいどころがわからないんですか。まさか小雪ちゃんまで……」 「君が小雪にさいごに会ったのは?」 「十七日……台風のまえの晩のことです。その晩はみんな集まって練習したんですが、それが最後でした。ビンちゃんに会ったのも、小雪ちゃんに会ったのも」 「ところでちかごろビンちゃんとコイちゃん、もうひとつしっくりいっていなかったようだという風説があるんだが、君の眼から見てどうかね」 「だれがそんなこといってるんです」 「だれでもいい。われわれは君自身の意見をききたいんだ」  風太郎はしばらくもじもじしていたが、やがて諦めたように肩を落とすと、 「あれは結局、芸能人としての見解の相違なんです」 「と、いうと?」 「小雪ちゃんは良妻賢母型なんです。ところがビンちゃんはそうはいきません。|天《てん》|衣《い》|無《む》|縫《ほう》というか無軌道といおうか、お座敷がかかるとどこへでもとはいいませんが、われわれグループの維持に必要とあればご招待に応じるんです。そうしてくめんしてきた金で、われわれは幾度か経済的ピンチを脱してきたんです。ところが小雪ちゃんにはビンちゃんの、そういう生活態度がたえられないんですね」 「なるほど、そうするとビンちゃんにはそういう意味での、有力なご婦人のパトロンが幾人かついていて、コイちゃんそれを|嫉《や》いていたわけか」 「嫉いているというよりも、そういう生活態度から脱却してほしいというのが、コイちゃんの切なる願望なんです。事実そういうことなしでも、『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』はいまや経済的に独立して、やっていけるメドがついているんですからね」  風太郎はビンちゃんのパトロンの名をきかれたが、それはしらないと答えた。知っていてもこれはいうべき筋ではなかったであろう。      十二  秋山風太郎といれちがいに入ってきた、原田雅実の態度はいかにももどかしそうであった。かれはさながら待ちくたびれたといわんばかりに、満面に朱を走らせて取り調べ室へ突入してくると、真正面にひかえている真田警部補に頭から食ってかかった。 「主任さん、ぼくいまむこうでブン屋の話を小耳にはさんだんだが、哲ちゃん、佐川哲也がビンちゃん殺しの重大容疑者として逮捕されてるんだって。そんな馬鹿な、そんな馬鹿な……」 「まあ、落ち着くんだな、原田君。君はそのことについてなにか情報をもってるのかい」 「いや、そのまえに聞かせてもらおうじゃねえか。ビンちゃんの殺されたのは台風の晩のことらしいが、それいったい何時ごろのことなんだい。それ、まだいえねえのかい」 「いや、そのことについてはいずれ今夜の夕刊に、正確なことが発表されるだろうから、ここでいってもかまわない。殺人が行なわれたのは十八日の午後八時から九時、あるいは十時ごろまでだろうといわれている。それから首と胴とが解体されたのは、それから一時間前後のちだろうということになってるんだが、マイアミのまあちゃん、おめえそれについてなにか情報をもっているのかい」  ひとを見て法を説けというが、真田警部補の応対も、風ちゃんに対するのとはだいぶん調子がちがうようである。 「あれ、いやだなあ、そんなことまで調べてんですかい。だけどそれ聞いてオレ安心したなあ、そうすると哲はシロだ」  真田警部補はぐっと椅子から乗り出して、 「すると、まあちゃん、おめえ佐川哲也のアリバイを証明できるというのかい」 「へっへっへ。まあちゃんは嬉しいな。そういわれるとオレお尻がモゾモゾしてくらあ。おっと、ここへ掛けさせてもらってもいいでしょう」  と、椅子に腰をおろすと、 「いま、主任さんのおっしゃったことですがね。半分はオレが証明できるし、あとの半分はほかのひとが証明してくれるでしょ」 「ほかのひとってだれだい」 「まあ、まあ、そう急ぎなさんな、タバコ吸ってもいいでしょ」  まあちゃんがポケットからピースの箱を取り出すのを見て、 「さあ、さあ、どうぞ」  灰皿をまえへ押し出す真田警部補は、|款《かん》|待《たい》いたらざるはなしというていたらくである。まあちゃんはうまそうに一服吸いつけると、 「主任さんはいま犯行の時刻を、八時から九時、十時までのあいだ、とおっしゃったが、八時は論外でさあね。われわれみんな五反田のモナミにいたんですかんな。五反田のモナミ聞いてんでしょ」 「ああ、聞いてる」 「そいつは好都合だ。ところが八時を過ぎてもギャレージはあかねえし、ビンちゃんやコイちゃんからなんの連絡もねえときてる。そいで哲の野郎がカンカンになってまずいちばんに跳び出した。そこで解散ということになったんだが、オレとしちゃ風ちゃんと行動をともにしてえところだが、風ちゃんほかにいくところがあるという。屁っぴり腰の平公……って知ってんでしょ」 「ああ、しってる。ギターだね」 「そッ、どうもオレあいつは虫が好かねえし、ケンタッキーの謙みてえなジャリじゃしようがねえもんな。そいでひとりで五反田の浮世横丁にあるさがみ野って飲み屋へ出掛けたんだ。そッ、これオレのアリバイにもなるこったから、聞いといていただこうじゃねえかよォ」 「はい、はい、承っておきますよ」 「そこ、オレの根城みてえなところだから、おかみも、女の子がふたりいるんだが、三人ともオレのことよくしってる。あんな晩でもほかにご常連がふたりきていたが、みんな顔馴染みだから、オレのアリバイ証明してくれるでしょ。オレそこですっかりはしゃいでしまったのさ。そッ、オレ心に|疚《やま》しいことがあると、かえってはしゃいでしまうのさ。悪い癖だけどな」  そッ、というのがこの男のくせらしい。 「疚しいことってなんだね」 「なにさ、これ風ちゃんの口から耳に入ってると思うんだけど、オレその日の朝、またぞろ病院坂の空家へ出向いてって配線工事やってるでしょ。あれビンちゃんに頼まれたんだけど、ビンちゃんだれにもいってくれるなてえんで、あの晩、モナミでみんなに会ったときも|黙《だ》んまりでいたのさ」 「なるほど。それで気がとがめてはしゃいだというんだね」 「そッ。ところがそのうちに停電になっちまったでしょ。そこで今夜はこれで看板てえことになって、オレそこを跳び出してから、急に哲のところへいく気になったんだ。さいわい電車は走ってたし、五反田と恵比須じゃ目と鼻のあいだだもんな」 「それで哲ちゃん家にいたんだね」 「いや、オレのほうがひと足早かったんだ。哲のアパート『いとう荘』というんだが、ここは二十四時間営業みてえなもんさ。そいでオレが玄関のガラス戸を開けようとしたところへ、うしろにタクシーがきて停まって、哲の野郎がおりてきたのさ。クルマんなかにだれかいて、哲の野郎いやにペコペコしてやあがった。だからそんときクルマのなかにいた相手をとっつかまえれば、哲のアリバイ完了というわけさ」 「だれだね、その相手というのは」 「まあ、そう急ぎなさんな、ものには順序というもんがありまさあ。まあオレの話しいいようにしゃべらせてくださいよ」 「ああ、そッ、これはおれが悪かった。ではお好きなように」 「いやだなあ、主任さん、なにもオレのまねするこたあねえじゃねえか。へっへっへ。まあ、どちらにしても哲の野郎えろうゴキゲンなんでさ。ここでちょっとお伺いしますが、それ十一時半ごろのこってすぜ。人を殺して、首を切り落としておいて、人間あんなにゴキゲンでいられるもんですかねえ。余人はしらず哲にゃそんな芸当はできませんや」 「わかった、わかった。哲ちゃんなんでそんなにゴキゲンだったんだ」 「そッ、そのことだけどさ。すっごくいい話があるからまああがれってんで、自分の部屋へつれてってさ、ウイスキーのボトルを取り出すと、前祝いに乾盃だなんてはしゃいでんのさ。そいでオレがなんの前祝いだってきいたら、ほら、主任さんはしってるかどうかしんねえけど、われわれにとっちゃ憧れの的みてえなナイト・クラブがあんのさ、赤坂のほうに。K・K・Kっていうんだけどさあ」  金田一耕助があっというような叫びを、危く口のなかで噛み殺すのと、等々力警部がそのほうへ、チラッと鋭い視線を投げるのとほとんど同時であった。  警部はにわかに身を乗り出すと、 「そのK・K・Kならおれがよくしっている。ナイト・クラブとしちゃまあ最高のほうだ。そのK・K・Kがどうかしたのかね」 「いや、ひょっとするとそのクラブのショーへ出られるかもしんねえと、哲の野郎そいで有頂天になってやあがったんです」 「だれか哲ちゃんにそんなことを、ほのめかしたやつがあるのかね」 「そッ、警部さんのおっしゃるとおり。いやね、警部さん、モナミを跳び出した時間についちゃ、哲がいちばん正確に憶えてましたよ。それ、八時半だったそうです。そのときあいつ心の中で叫んでたそうです。あの家だ、あの家にちげえねえって」 「あの家ってのはどの家のことだね」 「病院坂の空家のことでさあ。人間のやきもちも極限に達すると、カンがさえてくるんですね。もしあんときそのひとが呼びとめてくれなきゃ、哲の野郎あの家へ駆け着けてたとこなんです。そしたらどんなことになってたかと思うと、オレ、ゾーッとしてくらあ。犯行は九時から十時までてんでしょ。だから……」 「そのひとというのがK・K・Kのもんなんだね」 「そッ、哲の野郎、その名刺にさかんにキスしてやあがった。むりもねえやなあ。K・K・Kのショーに出られるとなると、こちとら大した出世だもんな。だけどこんなことになっちまっちゃ、なにもかも夢のまた夢、世の中ってうまくいかねえように出来てるよ、ほんと」  ションボリ肩を落としたまあちゃんの|悄《しょ》|気《げ》かたには、そぞろ哀れを催させるものがあった。等々力警部がそばから活を入れるように、 「おい、まあちゃん、しっかりしろ。哲ちゃんにさかんにキスされたという名刺のぬしの名前を、おれがひとつ当ててみようか」 「あれ、警部さん、あんたご存じですか、K・K・Kのひとを……?」 「K・K・K……K・K・Kと|仰山《ぎょうさん》そうにいうなよ。たかがナイト・クラブじゃねえか。こちとらもたかがしれた警部だけどさ。K・K・Kならちょくちょく顔を出すよ。ただし、客としてではなく、多門修ちゃんというおあにいさんにお眼にかかりにいくのさ。わっはっは」  警部は弾けるような高笑いを部屋いっぱいにひびかせて、いかにも愉快そうである。 「あれ、警部さん、あんたあのひとしってんですか」 「しるもしらぬも|逢《おう》|坂《さか》の関、二、三年まえまではメリケンの修ってふたつ名を持っていやあがって、ずいぶんわれわれを|手《て》|古《こ》|摺《ず》らせたもんよ。まあ、そうとうドスのきいたチンピラだったな」 「ああ、あのメリケンの修……」  真田警部補も思い出したようである。 「そうそう、チンピラ時代からどっか人間に愛嬌があって,憎めない若僧だったがな。それがいまでは足を洗って、赤坂の高級ナイト・クラブK・K・Kのバーテンかなんかやってらっしゃる。ところがそこのクラブのマダムのパトロンというのが、いまを時めく風間建設さんの社長の風間俊六氏」  どうだ、これで話がつながってきたろうといわぬばかりに、警部はそこでまた豪快に笑いとばした。風間俊六と金田一耕助との関係は、真田警部補も加納刑事もしっている。ふたりは思わず金田一耕助の顔を見直した。 「警部さん、あなたそんなに博識ぶりをひけらかさないで、まあちゃんの話をきいてあげなさいよ。時は金なりというじゃありませんか」  と、金田一耕助はいかにも憎々しげな口ぶりである。 「いやあ、これは恐れ入りました。では、まあちゃんに|訊《き》かせてもらいましょ。つまり哲ちゃん、あの家だ、あの家だと心の中で叫びながら病院坂のあの空家へ、駆け着けようとしたところを、多門修君につかまったというわけだね」 「そッ。だけど警部さんにいっときますがね」  と、まあちゃんは目玉をくるくるさせて、 「多門修てえひとがまえはメリケンの修って、グレン隊の一方の旗頭だったてえことは、哲もしってましたよ。だけど、こちとらかえってそういうひとに心を惹かれるんでさあ。あたまから素っ|堅《かた》|気《ぎ》なやつよりも、仁義というやつをしってますからね」 「なるほど、悪に強きは善にもというわけか。それで……」 「そッ、そういうこと。その多門さんに名刺を渡され、K・K・Kのショーのことについて話があるから、付き合ってもらえねえかと持ちかけられちゃ、これはだれだって乗りまさあ。そいで多門さんがタクシーを拾って、西銀座のパリスってうちへ引っ張っていったそうです」  そのパリスなら金田一耕助もしっている。九月七日の晩つれていかれた店である。 「そこでいろいろ話をしていたら停電になったでしょ。そいで多門さんがタクシーで送ってくれたんだと、そういってましたよ、哲は」 「ああ、そう、その間の事情は、シュウちゃんに直接聞かせてもらうとして、ここではそれからあと、『いとう荘』におけるまあちゃんと、哲ちゃんのやりとりを聞かせてもらおうじゃありませんか」  はじめて乗り出してきた金田一耕助を原田雅実は呆れかえったように、頭のてんぺんから足の爪先まで見上げ見下ろししていたが、 「あんたいったいだれえ? 警部さん、このひといったいだれなのさ」 「あっはっは、君の相棒の風ちゃんはこのひとの名前をしってたよ」  と、金田一耕助の名前をつげると、まあちゃんも目を丸くして、 「なあんだ、金田一耕助ってこの野郎……」  と、いってからあわてて口に|蓋《ふた》をすると、 「いや、ご免なさい、|噂《うわさ》はきいてましたよ。|服《な》|装《り》は悪いが|凄《すげ》え野郎だってことはね。そッ、多門さんをしってるならパリスでのことは、多門さんに訊いてください。そしたら八時半から十一時半ごろまでの哲のアリバイは証明されるでしょ。さて、そのあとはオレの番だが、オレオッチョコチョイなんだな。とにかく哲の野郎有頂天になってるのはいいとして、シミジミ反省してンだな。多門さんにだいぶん意見をされたらしい。仲間にひび割れが出来てちゃ、ステージに隙間風が吹く。だからビンちゃんと仲直りをしろって。で、哲もその気になってたところへ、オレが|嗾《けしか》けるようなこといっちまったんだ。その朝、病院坂の空家へ電気を引っ張ってきたってこと。だからビンちゃんとコイちゃん、いまごろあの空家でよろしくやってやあがんじゃねえかってことね。そしたらみるみる哲の野郎、血相がかわってきやあがった。ウイスキーをガブ飲みの、それゃフェアーじゃねえの、卑怯だのとさんざんオレに当たり散らすじゃねえかよオ。そいでオレ怖くなって跳び出しちまったんだ」 「それ、何時ごろのこと?」 「恵比須でやっと終電車に間に合ったから、『いとう荘』をとび出したのは、一時ちょっとまえのことじゃねえかな」      十三  これで佐川哲也の八時半から十二時半までのアリバイが、完全に証明されたわけである。  原田雅実がかえったあと、哲也が病院坂へ出向いていったとしても、いや、おそらくかれは出向いていったのであろうが、そのときは万事がおわっていたにちがいない。かれはあの|惨《むご》たらしい生首をみて、その瞬間、精神に異常を来たしたのであろう。 「金田一先生、あなた責任をとってくださるでしょうねえ」  原田雅実を解放したあと、等々力警部は半ば真剣でなかばからかい顔である。 「承知しました。シュウちゃん夜の遅い商売ですから、まだアパートにいるでしょう」  時刻は午前十一時、多門修は果たしてアパートにいた。かれはいま眼を覚まして朝食をとりながら、新聞をひらいてみて、肝っ玉がでんぐり返っているところであると告白した。 「君の肝っ玉がでんぐり返っていようといまいと、おれの知ったことじゃないが、すぐ高輪署へきてくれたまえ。君の証言が非常に重要なものになってきているということは、君自身にもわかるだろう」 「承知しました。それじゃこれからすっとんでいきます」  威勢のいい返事が受話器からはねかえってきて、金田一耕助が受話器をおくと、 「金田一先生、ありがとうございます」  真田警部補の感謝のことばには真実味があふれていた。  事実ついいましがた病院坂の現場から、佐川哲也の靴跡が採取されたという報告が入っており、またおなじ現場から二種類の指紋がとれたが、そのひとつは被害者のものとしても、もう一種類は佐川哲也のものではないかと、目下警視庁に留置されている当人のものと照合中という報告も入っている。また現場に飛び散っているおびただしい量の血は、全部O型と鑑定されたが、哲也のレーン・コートに付着している血も、おなじO型であるという報告もさっき入ってきていた。すべては佐川哲也を犯人として指示しているようなのだが、しかし、真田警部補は間違った発表はしたくないのだ。それはいつに多門修の証言にかかっているのである。  多門修が出頭するまえに大崎署から連絡が入ってきた。  十九日の午前十一時ごろ、山内敏男名義の貯金通帳から、規定の金額をのこして、ほとんど全部を引き出していったものがあるが、それは小雪にちがいなかったと、郵便局の|出《すい》|納《とう》係りの女の子が証言しているというのである。通帳の名義人は山内敏男になっているが、金の出し入れはいつも小雪がやっていたので、出納係りの女の子はよくしっていたのである。  その報告を聞いたとき、等々力警部と真田警部補はおもわず暗い顔を見合わせた。さっき五反田の第二現場で、話題が小雪にふれたとき、金田一耕助はこういったではないか。 「おそらく死を覚悟しているでしょうね」  小雪は死をこばんで高跳びしようとしているのであろうか。それとも死に場所を選んでどこかへ旅立ったのであろうか。  シュウちゃんが文字どおり高輪署へすっとんでくるまでには、十五分とはかからなかった。こういうときの多門修はテキパキとして頼もしい。かれは等々力警部や真田警部補とも顔馴染みであった。ぐれている時分ここの留置所にブチ込まれていたこともある。しかも、かれはいまや金田一耕助の|股《こ》|肱《こう》をもって任じているから、英気|颯《さっ》|爽《そう》としている。  もしビンちゃんが殺害されたのが、十八日の午後八時半から十一時半までのあいだなら、佐川哲也は絶対にシロであると、マイアミのまあちゃんとおなじ結論を断乎としてくだした。 「君があの男に接触していったのは、金田一先生の命令かい」 「そうです。ぼくは金田一先生の要請で、天竺浪人なる詩人のゆくえを捜索していたんです。そして、いろいろあったすえにとうとう『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』にぶつかったんです。そこで今月の七日の夜あのグループの出ているサンチャゴというキャバレーへ先生をご案内したんです。ところがそのとき、ほかのメンバーの前身はみんなわかっていたんですが、ビンちゃんだけがわかっていなかった。ビンちゃんにはコイちゃんこと小雪という、妹だか女房だかわからない女がくっついているということはご存じなんでしょう」 「うん、わかっている。それで……?」 「|肝《かん》|腎《じん》のそのふたりの前身がわかっていなかった。そこを先生につかれたもんですから、ぼくとしても大いにプライドが傷つくじゃありませんか。それでさきおととい佐川哲也に接触していったんです」 「哲ちゃんはなにかしってたかい」 「それがてんでダメなんです。哲也はあのふたりを、タネちがいのきょうだいだとばかり思いこんでいるようです。そういうふたりが夫婦気取りでいるなんて絶対に許せないなんて、哲ちゃんその点になると|悲《ひ》|憤《ふん》|慷《こう》|慨《がい》するんで、ぼくも持てあましてしまいましたよ」  多門修は相手を取りちがえたのである。かれは秋山風太郎に当たるべきであった。しかし、相手を取りちがえたばかりに、佐川哲也のアリバイが証明されたのだから、これはケガの功名というべきか。  しかも、ちょうどその直後に古垣博士の鑑定書が、本庁から等々力警部のもとへまわってきた。それによると殺害の時刻は十八日の夜の八時から九時まで、首が切断されたのは死後一時間くらいのちのことだろうというのである。してみると、万事は停電になるまでに終わっていたのではないか。ということは、台風がもっとも猛威をふるっていた、三時間のあいだの凶行ということになる。  台風と狂気。——それがこの世にも残忍な事件に関係があるのではないかと、金田一耕助はなにかしら空恐ろしいものを感じずにはいられなかった。  それはさておき、そのあと病院坂で発見された二種類の指紋のうち、一種類が佐川哲也のものと一致したという報告があったにもかかわらず、真田警部補はなんのためらいもなく、佐川哲也はシロとマスコミに発表して、その英断は後日本庁からも賞讚されたのである。  なぜならばそれから一週間のちに、正常な意識を取り戻した佐川哲也の告白が、完全に多門修や原田雅実の証言と一致したからである。  かれはまあちゃんの立ち去ったあと、ウイスキーのボトルを一本あけ、ステージ用の海賊衣裳に身をやつし、剣をぶらさげ、そのうえからレーン・コートをすっぽりかぶり、狂気のごとく病院坂へ駆け着けた。乗物はもうなかった。しかし台風は急速におとろえかけていたし、停電も解消していて、ところどころ街灯もついていたので、かれは恵比須の「いとう荘」から病院坂まで、じつに数キロという道程をテクったのである。おそらくかれが目的地へ到着したのは、明方の四時ごろだったろうと推定されている。 「そのときビンちゃんとコイちゃんがそこにいたら、君はどうするつもりだったのかね。ほんとにふたりを刺し殺す気でいたのか」  真田警部補の質問に哲也はテレて真っ赤になりながら、 「アパートをとび出したときには、たしかにそのつもりでいたんです。殺してやる、殺してやると心の中で絶叫していたくらいですからね。しかし、病院坂へ着いたじぶんにゃもうそうとう意気|沮《そ》|喪《そう》していました。おそらくあんときビンちゃんとコイちゃんが生きてあの家にいたら、ぼくビンちゃんに|跪《ひざまず》いて哀訴歎願したろうと思うんです。コイちゃんを譲ってくれって……あるいはおんおん泣き出したかもしれません」  病院坂の空家へ着いたときかれは懐中電灯を用意していたし、まえにいちど来たことがあるので、だいたいの構造はわかっていた。かれは空家のなかへ踏み込むとまずビンちゃんとコイちゃんが、初夜のかたらいをしたあの六畳をのぞいてみた。家の中は真っ暗だったが、まあちゃんから話をきいてきたので、壁のスイッチをひねってみると電気がついて、あの悩ましくも寝乱れた夜具蒲団が、いきなり網膜のなかにとびこんできて、かれの激怒をかったことはいうまでもない。  しかし、そこにはビンちゃんもコイちゃんもいなかった。哲也はいささか拍子抜けのていでそこを出ようとしてふと見ると、枕元に「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」のリーダーシップを示す、海賊のシンボル・マークの入った提督帽が飾ってある。哲也は無意識のうちにそれをとりあげると、これがここにある以上、ビンちゃんもどっかにいるはずだと、廊下をへだてたホールのなかへ入っていった。  ほんとをいうとかれはさっきこのホールを横切っているのである。しかし、そのときは懐中電灯の光りがたよりだったので、ただならぬあたりの様子に気がついていなかった。二度目に引き返してきたときまあちゃんの話を思い出して、壁のスイッチをひねってみた。そしてはじめてその部屋が、いちめんに血の飛沫におおわれていることに気がついた。呆然として部屋のなかを見廻しているうちに、天井からぶらさがっているあの生首が眼についた。ビンちゃんだとはすぐわかった。しかし、まさかそれが本物だとはなかなか思えず、おそるおそるそばへ寄って|触《さわ》ってみて、それが正真正銘のビンちゃんの生首だとわかったとたん、かれは精神に異常をきたしたのである。 「ぼくが最後におぼえているのは、ビンちゃん、だれがこんな|酷《ひで》えことやったんだよう、だれがこんなひでえことやりやあがったんだようと、おんおん泣き出したことです。それから急にコイちゃんのことが心配になってきました。コイちゃん、コイちゃん、おめえどこにいるんだ。おめえ生きているのか死んでいるのか……ぼく大声に|喧《わめ》き散らしながら、気が狂ったみてえに家中を駆けずりまわったのを憶えています」  その足跡はハッキリと現場にのこっている。 「そうしてコイちゃんがどこにもいねえことがわかると、てっきりコイちゃんも殺されたんだ。犯人が死体をどっかへ持っていきやあがったんだ……そう思うと、オレの胸のなかががらんどうみてえになっちまって、そこをとび出しちまったんです。それからあとのことは一切記憶がありません。ぶじに『いとう荘』へかえっていたとしたら、そのじぶんにはまだじぶんがだれであるかくらい知ってたんでしょうが、それからあとはサッパリです」  かれはそれが事件後すでに一週間たっているとは気がつかず、さかんに小雪の身を案じ、果ては小雪も殺されたのにちがいないと、おんおん泣き出すしまつであった。犯人について心当たりはないかと訊かれたとき、きょうでえであんな不都合なことやってるから、|天誅《てんちゅう》がくだったんだと、まるでこれが超自然現象みたいなノンキなことをいっていたが、やがてこれがそんなオカルト的なものではなく、もっときびしい現実的な殺人事件であり、おまえも重大容疑者にされていたのであると指摘されると、かれはそこで、はじめてハッキリ覚醒したらしく、ひじょうなショックを受けたもののようであった。 「ビンちゃん、ちかごろご乱行が過ぎてたかんな。そいでコイちゃんズーッとふさぎこんでいたんだ。だからオレいっそうコイちゃんが可哀そうになって、そんなに粗末にすんなら譲ってもいいじゃねえかと思ってたんだ」  かれはまた小雪の名前を呼んで泣き出したが、ビンちゃんのご乱行の相手についてはしらぬ、心当たりもないとしか答えなかった。      十四 [#ここから1字下げ]  世間を騒がせまことに申し訳ございません。山内敏男を殺害したのはこの私、即ち敏男の妻小雪にちがいございません。私は敏男を憎くて殺したのではございません。愛するあまり殺したのでございます。これが女の独占欲というものでございましょうか。私はあのひとが他の女性に抱かれる、あるいは抱くということを想像するだけでも気が狂いそうでした。私はなんどかそんな浅ましいこと止してほしいと頼みました。しかし、あのひとは私を笑いとばすばかりで、いっこう素行は改まりそうにありませんでした。果てはそんな|糠《ぬか》|味《み》|噌《そ》|臭《くさ》い女は嫌いだ、夫婦の縁を切って、もとの兄と妹の関係にかえろうではないかと、そんなことまでいい出すしまつでした。そして、それが私の一番怖れていたことなのでございます。私はもう夫としての敏男さんなしでは、一日として生きていけない女になっていたのでございます。私の心の中にしだいに恐ろしい考えが芽生えはじめたことについて、同情してくださいとは申し上げませんが、わかってくださるかたはわかってくださると思います。身勝手なことでございますが。  とうとう運命の九月十八日の晩がやってきました。私たちはかつてグループのひとたちに祝福されて、結婚式をあげたあの思い出の家で落ち合いました。思えば敏男さんと私の縁は、まことに短いはかないものでございました。私たちはあの思い出の深い思い出の部屋で、もういちどゆっくり語り合おうということになったのですが、それはもちろん私のほうから持ちかけたことで、そのとき私の心に殺意が固まっていたことは、あらかじめ刺身庖丁を用意していたことでもわかっていただけると思います。  私たちは初夜を過ごしたあの部屋で、かたく強く抱き合いました。敏男さんはそれが最後の交歓になろうなどとは夢にもしらず、事が終わったのち眠りに落ちていきました。私はそのあいだに敏男さんの両手に手錠をはめ、刺身庖丁でひとつきに敏男さんを殺そうとしました。その最初のひと突きが功を奏していたら、ああも|酷《むご》たらしい結果にならずにすんだでしょう。敏男さんをひと思いに殺して自分も自決できたでしょう。それをしくじったばっかりに、世にも恐ろしい結果になってしまいました。敏男さんはかすり傷を負うて眼をさましました。そして私の顔色から私の決意をしったのでしょう、そんなことをしてはいけない、そんなことをしてはいけないと叫びながら、部屋からとび出しホールへ逃げ込みました。私はそのあとを追っかけました。敏男さんがやめろ、やめなさいと叫びながら逃げまわったのは、あのひとの卑怯な性質からではありません。あのひとはしっていたのです。私があのひとを殺して自分も自決する覚悟だということを。夫婦としてはうまくいきませんでしたが、あのひとは妹としての私をこのうえもなく愛していてくれたのでした。しかし、私の決意は変わらなかったうえに、あの夜の物凄い嵐が私のあの残忍な行為に拍車をかけたのでしょう。逃げまわる敏男さんを追いかけ、追いまわし、私は十数か所の手傷を負わせたのち、最後は出会いがしらのひと突きが、あのひとの致命傷となりました。あのひとが床に倒れたとき、私は刺身庖丁を投げすてると、あのひとの頭を膝のうえに抱きあげて、許して、許してと叫びました。多量の出血から断末魔の状態だった敏男さんは、下から私の顔を仰ぎ見ながらものに|憑《つ》かれたように妙なことをいい出しました。  いいよ、いいよ、わかったよ、おれが悪かったよ、おれはまもなく死ぬだろうが、おれが死んだら首を切り落として、風鈴のようにあのシャンデリヤのさきにぶら下げておいてくれ。敏男さんはなんどもなんどもそれを繰りかえし、私がきっとそうすると約束するまで、やめませんでした。  皆さんは火事場の馬鹿力ということばをご存じでしょう。人間いざ危急存亡のときになると、自分でも思いもよらぬ力が出るものだということを。そのときの私がそれでした。私たちはさいわい表にトラックを待たせておいたので、そこまで敏男さんの体を引きずっていきました。敏男さんは二十貫を超える巨体ですが、それをトラックまで引きずっていき、ぶじに積み込むことができたのは、これすべて火事場の馬鹿力のおかげだと思っております。幸か不幸か、おりあたかも台風の真っ最中でした。私がだれに見とがめられることもなく、首尾よくそこを脱出出来たのは、これひとえに神のご加護だと思わざるをえません。  いいえ、いいえ、このような大それたことを決行するのに、神のご加護などということばを使うことは許されないでしょう。そうです、それはまったく大それた所業でした。しかし、私はそれを決して悪逆非道なことだとは思っていませんでした。これが敏男さんの希望なのだ。遺志なのだ。いまわのきわの願いなのだ。これは神聖にして冒すべからざる儀式なのだ。この儀式なしでは敏男さんの霊は永遠に鎮まらないであろう。  私はそれを強く自分にいいきかせながら、五反田のギャレージであの大それた所業を決行しました。いいえ、大それた所業などといっては敏男さんにすみません。これは神聖な儀式なのだ!![#「!!」は底本では「!!!」] 儀式なのだ!![#「!!」は底本では「!!!」] 儀式なのだ!![#「!!」は底本では「!!!」] 私は心中強く叫びながらそのことを決行しました。そして、それを持ってふたたび病院坂の家へ引き返し、神聖な儀式を完了したのですが、このたびもあの大嵐が私に味方してくれました。私はだれにとがめられることもなく、血みどろなあのトラックを走らせることが出来たのです。  終わりに望んで私が一番おそれているのは、このことによってどなたか、たとえば「アングリー・パイレーツ」のメンバーのひとたちに、ご迷惑がかかりはしないかということです。ことに新聞を見ると佐川哲也さまが容疑者として逮捕されたかに書いてございましたが、それは絶対に真実ではございません。この事件は敏男さんと私と、ふたりのあいだに起こったトラブルで、佐川哲也さまのみならず、また、「アングリー・パイレーツ」のほかのメンバーのひとたちのみならず、どなたも絶対に関与しない事件であることを、ここにハッキリ申し上げておきます。最後に本條写真館にご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。  では、皆さま。私はいきます。敏男さんのおあとを追って。いつかどこかで私の死体が発見されたとき、稀代の悪女とお憎しみあろうとも、世に哀れな女と思召しくださろうとも、いっぺんのご|回《え》|向《こう》を賜りますならば、このうえもなき仕合わせと存じますが、これはあまりにも虫のよすぎるお願いでございましょうか。  では、さようなら。 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]山内小雪 [#ここから4字下げ] 高輪署捜査当局の皆さまへ [#ここで字下げ終わり]      十五 「ありがとうございます。よくお見せくださいました」  十枚にあまる便箋をていねいに折りたたんで、弥生はそれを金田一耕助にかえすと、深い沈痛な溜め息とともにハンケチを眼におし当てた。 「ほんとに恐ろしいことでございますが、この遺書を拝見いたしますと、お気の毒というよりほかはございません。わたしどもにはジャズをおやりになるかたがたのお気持ちはわかりかねますが、こういうことになったのも、わたしの不行届きとしか思えません。もう少しはやくあのおふたりと連絡がとれていたらと、そればっかりが悔まれてなりません」 「いや、そうおっしゃられるとこちらこそ恐縮です」  それは九月二十五日のことだから、事件が発覚してからなか四日、じっさいに犯行のあった日からかぞえて八日目のことである。金田一耕助がその前日高輪署宛てにとどいた小雪の遺書の完全な写しをたずさえて、田園調布にある法眼家を訪れたのは。 「そういたしますと金田一先生、これで事件は解決したというわけでございますの」 「さあ、そこまではまだいきませんでしょう」  金田一耕助は暗い眼をして弥生の顔を見守っている。弥生はきょうも和服だが、その姿は端正というよりは端麗である。 「と、おっしゃいますのは……?」 「警察というものは執念ぶかいものです。小雪ちゃんの遺体が見つかって、それがハッキリ小雪ちゃんだと確認されるまではね。いや、それよりも捜査陣としては、まだ生きている小雪ちゃんを発見するということに、大きな希望をもっているようですよ」 「そうそう、その手紙には日付けが書いてございませんが、投函されたのはいつ……?」 「封筒のほうは持ってまいりませんでしたが、消印は中央局区内、投函されたのは、一昨二十三日の午後ということになっております」 「それ小雪ちゃんの筆跡にちがいないのでございましょうね」 「それはまちがいなさそうです。『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』のメンバー全員が、小雪ちゃんの筆跡にちがいないと証言しています。小雪ちゃんというひと、ろくな教育をうけていないんですが、字もなかなか上手ですし、文章もそのとおりしっかりしておりますでしょう。ただここにふしぎなことがひとつあるんです」 「ふしぎなこととおっしゃいますと?」 「便箋からも封筒からも、小雪ちゃんのものとおぼしき指紋が、ぜんぜん検出できないのです」 「まあ」 「さらにもっとふしぎなのは、病院坂の第一現場からも女性の指紋は検出されておりません。小雪ちゃんははじめから殺意を抱いていたのですから、手袋をはめていたとも考えられますが、しかし、現場のようすから見ても、小雪ちゃんの遺書を読んでも、惨劇が起こるまえふたりは一緒に寝ているのです。寝るのに手袋はおかしいのですが、その部屋からも女性の指紋は検出されておりません。いや、女性のみならず、寝室からは敏男君の指紋も採取されていないんです。だいたい惨劇の現場であるホールからは、二種類の指紋が採取されており、そのひとつが新聞にも出ていたとおり、佐川哲也というドラマーのものだと確認されております。と、するともう一種類のが敏男君のものと推定されているのですが、ふしぎなことにその敏男君の指紋というのが、ほかのどこからも出て来ないんですね。犯罪の第二現場と目されている五反田のギャレージのどこからも。敏男君と小雪ちゃんはそこの二階で所帯をもっていたんですが、そこからはだれの指紋も検出できないんです。まるでだれかが故意に拭い去っていったかのようにですね。ただひとつ敏男君の遺留品としては、ステージでかぶっていた海賊の提督帽があるんですが、これは目の粗い|羅《ラ》|紗《シャ》ですから、こっちのほうから指紋を検出するのはむりなんですね」 「しかし、それどういう意味なんですの」 「さあ、それがもうひとつよくわからないんですね。はじめは敏男君に前科でもあって、それで指紋を拭い去り、そのついでに小雪ちゃんの指紋も消されたのではないかと思われていたんですが、病院坂の第一現場にのこっている、敏男君のものとおぼしき指紋と前科者の指紋台帳とを、いろいろ照合してみたんですが、それらしい点も見当たらないんです」 「そうおっしゃれば敏男さんの首から下はまだ……?」 「発見されておりません。小雪ちゃんの遺書もその点には触れておりませんでしょう。問題はその点です。小雪ちゃんは敏男君の首から下をどこへ隠したか……と、いうよりなぜ隠さねばならなかったかということが、捜査当局のみならずぼくにとっても、目下の最大の関心事なんです。それもこれも、小雪ちゃんが生きて発見されるかどうかということにかかっているんですがね」 「その可能性はございましょうか」 「捜査陣はハリキッていますが、困ったことに小雪ちゃんの写真が一枚もないことです。小雪ちゃんスチール写真をとられるほど、まだ売れてなかったもんですから」  そこで金田一耕助は思い出したような微笑をうかべて、 「そうそう、自分のことにばかりかまけて、お祝いを申し上げるのが遅れてすみませんでした。由香利さん、お目出度うございましたね」 「そのことでございますけれどねえ、先生」  弥生はやるせなげに溜め息をついて、 「ちょうど時機が時機でございましょう。警察のかたがたも誤解をもたれたとみえて、いろいろ調査なすったようでございますけれど、あれはほんとうに偶然の一致だったのです、ふたりがアメリカへ立ったということは。金田一先生もご存じでございましょうけれど、いまはドル持ち出しのきびしい時代でございますから、その気になっても手続きのほうが、一朝一夕というわけにはまいりませんわねえ」 「そうそう、いつかもお電話で由香利さんをアメリカのお識り合いへでも、預けようかと思うといってらっしゃいましたね」 「はあ、わたしこれでも女としてはわりと実行力のあるほうでございますの。あの翌日からさっそくアメリカ大使館はじめ関係筋へ、パスポートやビザ申請の手続きを開始いたしまして、九月二十日の晩、滋さんと由香利が横田基地から立つということは、だいぶんまえから決定しておりましたの」  そのことは捜査当局でも調査済みである。 「ロサンゼルスだそうですね」 「はあ、滋さんがむこうの大学でございますし、由香利もさいわい片言ながら、英語が出来るものですから」 「由香利さんはお嫁にやられたんですか」 「いいえ、滋さんのほうから養子にきてもらいました。わたしとしては五十嵐より法眼の名のほうがだいじでございますから。ゆくゆく夫婦のあいだにふたり以上の子宝がめぐまれたら、そのひとりに五十嵐の名跡を継がせればよいことでございますし、そういう意味で光枝さんなんかも承諾してくれたんです。いずれにしても今度の挙式をいちばん喜んでくれたのはあのひとだったでしょうねえ」  それからまもなく金田一耕助はその家を辞したが、奇妙なことはふたりのあいだに由香利の誘拐一件がいちども話題にのぼらなかったことである。弥生がその問題にふれたがらないのは当然として、金田一耕助もなぜかその一件に触れるのを避けたようである。  しかし、そのときいったいだれがしっていただろうか。二十年の歳月をへだてたのち、ふたりがその問題について、世にも凄惨な対決を演ずるにいたるであろうということを。  ついでにここでいっておくが、小雪の死体もビンちゃんの首から下も、ついに発見されずに終わったのである。  高輪署におかれたこの事件の捜査本部が解散されたとき、金田一耕助はロサンゼルス在住の日本人にあてて長文の手紙を書いた。かれが青年時代、アメリカの西部を放浪した経験をもっているということはまえにも書いておいたが、帰国後かれはいちどもアメリカへ渡ったことはない。しかし、放浪時代識り合った在留邦人のなかに、その後商用や墓参なんかでちょくちょく一時帰国するものもいる。そんな際会って旧交を温めあった人物が幾人かいる。金田一耕助はそういう在留邦人のなかから、もっとも信頼のおけると思われる人物をえらんで、あることを手紙で依頼した。  その答えは半年ほどたって返ってきた。それは厳重に包装された小さな小包みであった。小包みのなかから出てきたのは一個のシャンペン・グラスである。金田一耕助は手袋をはめた手でそっとグラスをつまんで見て,その外側に三個の指紋がついていることを確かめた。大きさからみて女性の指紋のようである。グラスについた角度から左手のものであると思われる。  親指と人差し指と中指と。 本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。(平成八年九月) 金田一耕助ファイル20 |病院坂《びょういんざか》の|首《くび》|縊《くく》りの|家《いえ》(上) |横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》 平成14年3月8日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Seishi YOKOMIZO 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『病院坂の首縊りの家(上)』昭和53年12月20日初版発行                   平成 8年 9月25日改版初版発行